昨年、経済協力開発機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査」(PISA調査)および国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査で、日本の成績が前回より落ちていたことが明らかになった。このことを機に、「学力低下」が国際的にも検証されたとして「ゆとり教育」や「総合学習」への短絡的な批判が強まっている。
こうした中、本年1月25日、OECD東京センター新春講演会での中嶋博さん(早稲田大学名誉教授・フィンランド科学アカデミー外国会員)の講演「OECD/PISA、教育大国フィンランドと日本の課題」(講演内容の全文はhttp://www.oecdtokyo.org/に掲載)が大きな波紋を投げかけている。
彼の講演では大きく二点の問題提起がされている。第1は、PISA調査とIEA調査とは調査の枠組み・考え方が全く違うこと、第2は、PISA調査で2000年、03年、と総合トップの地位を占めたフィンランドが重視してきた教育内容と現在日本が進もうとしている「脱ゆとり」とは全く方向が違っていること、である。
この指摘は、人権・同和教育が進めてきた「学力保障」と「人権の視点を踏まえた総合学習やキャリア教育」の発展方向を考える上でも、欠かすことのできない視点であり、極めて重要な問題提起である。
以下、簡単にその要旨を紹介をしていきたい。
第1に関わって、彼は「従来のIEAが行ってきた理科、数学のテストで、韓国や日本の子どもが特に上位にランクされていたことは国際的に知られていたが、それは何らかの犠牲の上に成り立っておるのではないか、さらには、日本や韓国の生徒が身に付けている知識が果たして変転極まりないこれからの社会において役に立つのかどうかという疑問」もあり、OECDは1980年代に新たな「国際教育指標開発」のための大規模なプロジェクトを発足させ、2000年に最初の本調査を実施、以降3年おきに実施していくことになったと言う。
即ちPISA調査は、既存のIEA調査や日本国内の学力調査のように、獲得された知識量を測定する調査ではなく、「生徒がそれぞれ持っている知識や経験をもとに、自らの将来の生活に関係する課題を積極的に考え、知識や技能を活用する能力(PISA調査では「リテラシー」と表現)があるかどうかをみるものである」「その意味では、生涯にわたって学習者であり続けられるような知識、技能がどの程度身に付いているかを見るものである」という(PISA調査の調査項目や結果の詳細は、国立教育政策研究所編『生きるための知識と技能2 OECD生徒の学習到達度調査(PISA) 2003年調査国際報告書』、2004年12月を参照)。
例えば、今回のPISA調査で中心を占めた「数学的リテラシー」は、「数学が世界で果たす役割を見つけ、理解し、現在及び将来の個人の生活、職業生活、友人や家族や親族との社会生活、建設的で関心を持った思慮深い市民としての生活において、確実な数学的根拠にもとづき判断を行い、数学に携わる能力」と定義している。「読解力」では「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」としている。他に、「科学的リテラシー」「問題解決能力」の分野があるが、いずれも興味深い定義となっている。
第2に関して、産業界や研究者による総合学習の見直し・教科の時間の拡大や土曜日休日の見直しという短絡的な「処方箋」に対しては、厳しい批判を投げかけている。まず今回の「調査結果は冷静に深刻に真剣に受け止めるべき」であること、それを歴史的に実行してきたフィンランドの教訓としては、<1>能力別学習ではなく少人数学習、個別指導、グループ学習などにより「落ちこぼれ」を徹底して防ぐことを重視していること、<2>公民教育、いわゆる道徳教育ではなく「人間として人間らしい教育」がしっかりとしていて、学校が楽しい所であること、<3>学校文化を規定する原理として、各教科の枠をこえてより総合的学習の時間を促進させようとしていること、<4>授業時間はOECD中最低であるが、読書の奨励を優先的に取組んでいること、<5>公財政支出教育費のGDP比は日本の3.50(OECD加盟国中最低)に対しフィンランドは5.51であり、教育は無償が原則であること、<6>多くの生涯学習組織があり、家庭・社会の協力が大きく、学校はそのためのリーダーシップを発揮していること、等を指摘されている。
まさに「冷静に深刻に真剣に受け止めるべき」問題提起である。
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