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2005.10.04
意見・主張
  
第11回全国部落史研究交流会
融和事業の流れを改めて見直す
解放新聞第2233号(2005年8月29日)より

 全国の部落史研究の交流と発展を目的に8月6-7日、第11回全国部落史研究交流会が徳島市内でひらかれた。この交流会には各地から150人が参加し、前近代史と近現代史の2つの分科会で研究報告がされたほか、2日目には「喜田貞吉と部落問題」をテーマに報告と討議がされた。また、第1日目の懇親会では、参加者の紹介とともに、阿波木偶「箱廻し」を復活する会による公演がおこなわれ会場をわかせた。そのほか、櫛渕町(現小松島市)出身の喜田貞吉の生家を訪ねるフィールドワークもとりくまれた。
現代まで見据えた研究を

 主催者あいさつをした交流会の秋定嘉和・代表は、「研究上の歴史の考え方は崩れてしまったと思っている。従来の部落差別は、近世社会の国家がつくったというものだったが、それは戦後の政治的要請という側面が強くあった。いまは、(部落差別は)中世社会の村落共同体のなかでつくられてきたという提起がされている。その村落共同体が近代になって「解放令」で崩れたのか。たしかに権力は、法的体制として変わったが、個個の村の中の生活に差別は生きている。これは戦後の社会のなかにももち越されてきた。「特措法」が終わってももち越されている。どうすれば解決するのかという新しい課題が見えてきた。これまでの研究がはたして、戦後史・現在まで見据えた研究であったのか新しい課題が部落史研究にある」とのべ、論議を訴えた。

融和運動の始動 テーマに分科会

 今回の交流会でのテーマ設定は、これまで各地域でとりくまれていた部落史研究や融和事業研究の再検討の成果のうえに、中央段階の融和事業の流れを改めて 見直すとりくみになった。

 2つの分科会のひとつ、近現代史の分科会では、「融和運動の始動」をテーマにおこなわれた。交流会運営委員会の朝治武さんから、分科会のとりくむべき課題として、部落民衆および一般民衆による自主的な運動の一つとして融和運動を近現代史でどのように位置づけることができるのか。具体的には、同愛会と中央融和事業協会を対象にした融和運動史の再検討などが提起された。

 報告では、「同愛会と有馬頼寧」について白石正明(佐賀大学)さんと「中央融和事業協会の成立について」を手島一雄(立命館大学)さんが報告した。

「同愛会」の結成から解散

 白石さんは、同愛会の代表であった有馬頼寧について、結成から解散までの動向を中心に報告した。有馬は、旧久留米藩主の家柄であり、東京に分社した水天宮の護符販売やさい銭で得た莫大な利益で社会事業をおこなった。彼は自分の力で社会的地位を得たいと望んでおり、実行をともなう社会事業として「信愛会」を設立し、日本教育者連盟を通じて夜学を開講するなどした。

 1921年、有馬は部落問題に無理解だったと言われるが、融和団体「同愛会」の会長就任を要請される。

 その後、有馬は、自分なりの部落問題への認識と理解をもち、水平社が結成されると水平運動にたいして同情的な立場面であったとされる。

 やがて、全国融和連盟を結成し、民間の融和事業の中心として活動するが、政府の融和政策と必ずしも一致しなかった。政府は内務省直轄で、中央融和事業協会を設立し、すべての民間融和団体を国家のもとに統合・統制していく。 

 有馬は「差別する側の反省」を活動の根底に考えており、啓発活動は民間でおこない、改善事業は国家がおこなうものと考えていた。

 しかし、中央融和事業協会の平沼騎一郎は両方とも握ろうとしており、時局のなかで同愛会も解散を余儀なくされた、とのべた。

中央融和事業協会の結成

 手島さんは、同愛会主導による融和運動が22、23、24年とあったが、25年3月の平沼を会長とする中央融和事業協会の結成が研究の一つのポイントとしてあるとのべ、これまでの2つの研究の流れを紹介した。

 1つは、融和運動の本質の純化過程としてとらえる流れ(70年代の研究)と同愛会と中融和段階の質的な区分の必要をすべきだという(80年代の研究)ものがあった。現在でも大きく研究されずに来た。『同愛』も十分読まれてないのではないかという思いがあり、再検討が必要だと問題意識を提起した。

 水平社ができる以前の自主的な融和団体を結集する形で全国融和連盟が結成される。この段階で三好伊平次は参加している。しかし、これらの融和連盟団体へは、招請状を出さないままに「中融」が結成され潰されていく。これをどう見ていくかということだ。

 25年の全国融和事業大会では、「水平社承認」をめぐって紛糾する。その4か月後に「中融」が結成されていくが、この時に同愛会は、糾弾闘争もふくめて水平社を承認する立場をとっている。また、同愛会は、国の責任として国策樹立を求めた。これは政府への批判でもあり、大会は多数決で水平社の「承認」は否決される。この結果、協力運営の企図は崩れ、融和運動対立が激化し、融和運動の統一が政府として求められていくことになる、とのべた。

 「中融」の設立の原理として平沼の「建国の精神」がある。この設立によって

何が否定されたのか。近代的自由・平等論の否定であり、「君民一体万民抱擁」と国民利害の優先が唱えられた。平沼は「近代思想はヨーロッパのもの」とし、「国家否定」と「制度否定」につながるとした。やがて、日英同盟の廃止と将来の「日米決戦」という新しい状況に日本はおかれ、「白人支配の欺瞞」「西欧の自由平等の欺瞞」が強調され(中融発行の和運動の本質『会報』)、大東亜共栄圏の先駆的論議がされ、やがて「国家総力戦体制」へとすべてが動員されていった。

 手島さんは、今後の課題として同愛会系で「中融」に入っていく山本正男らの人権・差別撤廃論の研究が必要とのべた。

喜田貞吉と部落問題

フィールドワークでは喜田貞吉さんの墓も訪ねた(8月7日) 2日目に「喜田貞吉と部落問題」を報告した吉田栄治郎(奈良県同和問題関係資料センター)さんは、喜田貞吉の再評価について「研究を困難にしなくなった時代の到来」があるとのべた。

 それは、20世紀後半の部落問題をめぐる環境の変化だという。環境改善事業の進捗と格差是正がすすみながらも部落差別の強固な残存があり、拡大の方向さえ伺える現状があること。政治主義的な部落問題認識への社会的な倦怠と反発があることを指摘し、部落唯一(絶対)被差別論への批判の台頭をあげた。

 これらの「変化」にたいして、多様な被差別民の姿や個別的研究の成果として周縁身分研究(身分的周縁論)の進捗が見られてきたことをあげた。

 こうした「状況の変化」が喜田を先学とする「多様な被差別民」研究の再評価を可能とした時代を到来させたとのべた。

 また、京都帝国大学時代の同僚に米田庄太郎がいた。米田は奈良の被差別部落出身であり、キリスト教へと導かれたことにより、欧米で長く生活した西欧紳士であった。被差別部落出身を隠すことなく、容姿端麗、語学の天才でもあった米田にたいして、土俗主義者としての喜田は、自身の部落問題認識において常に障壁となる存在としてあり、終始疎遠な関係であったことを紹介した。

 喜田の部落問題認識は、狭義のケガレ論であり、局面の単純化があり、ケガレの両義性への無理解があると指摘した。また『民族と歴史』を創刊し、『特殊部落研究号』の創刊直前には、近畿各地の融和運動家を訪問している。そこで何が話し合われたのか、米田の存在の影響など喜田の研究の成果を受け継ぐために今後の課題として提起した。


 なお、分科会 I では、「近世被差別民衆と宗教−信仰と差別の諸相」がおこなわれた。分科会課題設定の提起を藤沢靖介(東日本部落解放研究所)さん、「被差別民の真宗信仰」を有本正男(広島経済大学)さん、「宿神信仰と被差別民」を水本正人(八幡部落史研究会)さんがそれぞれ報告した。