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2006.04.27
意見・主張
  
文科省人権教育調査研究会議「第二次とりまとめ」の活用を考える

平沢安政(大阪大学)


1.はじめに

  今日的な人権教育のとらえ方や本年から始まった「人権教育のための世界プログラム」(以下「世界プログラム」)をふまえながら「第二次とりまとめ」(以下「とりまとめ」)を読んでいくと、基本的にこの文書は積極的に活用しうる側面を多くもっていると考えられる。そういう視点から、以下「とりまとめ」の主な成果・特徴と課題について触れていきたい。

2.活用できる特徴点について

  ポイントの第一は、わかりやすく具体的に書かれていることである。文章も読みやすく、具体的な実践事例やアンケートなどが紹介されていて、現場で参照する際にハードルがそれほど高くない。読むといろいろなアイディアが触発されるというような構成と書き方になっている点は評価できるのではないか。

  2点目は、概念的構造が比較的しっかりしていることである。

  具体的な構造的特徴として、知的理解と人権感覚とを関連づけて人権教育を語っていることがあげられる。人権感覚については「自分の大切さとともに他人の大切さを認める」という非常に平易な表現でくり返し表現しており、「日常生活の中で人権上問題のあるような出来事に接した際に、直感的にそういう出来事はおかしいと思う感性や、日常生活において人権への配慮が態度や行動に現れるような人権感覚」(「とりまとめ」p.7)と説明している。「感性と配慮が態度や行動に現れる」という言い方で人権感覚を説明しているので、現場で人権感覚をどう捉えるかという議論をする時にわかりやすいと思う。

  次に人権意識についても、「自他の人権尊重の良さを肯定し、人権侵害の問題性を認識して、人権侵害を解決せずにはいられないとする人権意識が芽生える」(p.7)と定義しているが、これもわかりやすいと思う。

  それから、人権感覚と人権意識の相互関係についても、「価値志向的な人権感覚が知的認識とも結びついて、問題状況を変えようとする人権意識や意欲、態度になり、自他の人権を守る実践行動につながる」(p.7)と説明している。人権教育を進める際の基本的な問題意識として、どのような知識、どのような態度、どのような技能を育てるのかということはとても重要だし、そういう柱立てで教育学の議論にかみ合うような人権教育を語る必要があると思う。

  また、人権教育を通じて育てたい資質や能力として、知的理解(知識的側面)、人権感覚(価値的・態度的側面と技能的側面)とし、3側面との相互関係を具体的に説明している(p.8、p.26)。8頁の参考図を見る限り、人権教育で創ろうとする資質や能力が二つの要素から成り立っていて、この二つの要素がさらに知識と態度と技能(スキル)の三本柱からなり、その中身としてさまざまな構成要素があることを説明している。これも、これまでの知識、態度、技能(スキル)に対する議論を、人権教育における目標と関連づける上でわかりやすい整理がされていると思う。

  この点は、「とりまとめ」の26頁に人権教育の内容構成として再び出てくる。これまでの政府の人権教育に関する文章では、ここまで明確には整理されていなかった。また、育てるべき力・資質として、共感力、想像力、人間関係調整力(p.10、p.15)もあげられているが、この3つを具体的にあげることで、イメージがつかみやすくなると思う。

  3点目は、人権教育を学校で取り組む際の組織的・体系的な取り組みのあり方が示されている点である。例えば、15頁を見ると、「2.学校としての組織的な取り組みとその点検・評価」とあり、「校長のリーダーシップのもと教職員が一体となって取り組む体制を整え人権教育の目標設定、指導計画の作成や教材の選定・開発などの取組みを組織的・継続的に行うことが肝要」であるとして、学校としての目標設定、校内の推進体制の確立、人権教育担当者の役割がうたわれ、16頁には、学校で人権教育の全体計画、年間指導計画をどういう要素で作ればいいのか、等が参考例も含めて示されている。17、18頁では、全体計画や年間指導計画のポイントとして、小学校、中学校の場合の参考例が示され、組織的・体系的に人権教育を進める際の学校レベルの具体的なモデルが提示されている。

  教員研修についても、42~47頁にかけて、細かく指導のポイントや進め方、プログラムのあり方が示されている。

  教育委員会自身の取組みについては、48~52頁にかけて、推進方針や計画の策定、優れた実践事例等の情報提供、カリキュラム作成の成果の普及、地域・家庭や校種間の連携の推進体制作りなど具体的に述べられている。それから、20~25頁では、地域連携とのあり方、校種間の連携のあり方が示されている。

  この組織的・体系的な取り組みについては、「世界プログラム」でも初等・中等学校における人権教育のあり方ということでかなり具体的な添付文章を示している。「とりまとめ」と「世界プログラム」を合わせて読むと、学校レベルでの具体的な取り組みの体系みたいなものがイメージできると思う。

  4点目は、教科ではどう取り組めるのかということを含めて、例えば総合的な学習、道徳、特別活動、それから生徒指導(13頁にも出てくる)における指導事例が27~31頁に具体的に示されている。

  5点目は、人権感覚を育成するための方法が2点あげられていることである。一つは、9ページで「人権感覚の育成を目指す取組み」ということで、「隠れたカリキュラム」という言葉を使って、関係や雰囲気のあり方が大事だということがわかりやすく押さえられている。この「隠れたカリキュラム」は、文章では触れられてはいないが、いわゆる人権教育の四つの側面と言われる「人権を通じた教育」という側面の指摘だと考えられる。二つめは、34~36頁で、児童・生徒の自主性や体験を重視することが人権感覚の育成につながるということで、その自主性や体験重視の具体的な事例が紹介されている。そういう意味で、人権感覚の定義と、人権感覚を育成するために具体的に何をすればいいのかを、この「とりまとめ」では紹介しているのも特徴だと言える。

  6点目は、27頁で法教育や人権の実践的知識が必要だと指摘している点である。私は法教育や人権を行使する知識や技能(スキル)を人権教育で育てていくことはとても大事だと思っている。それは、主体的な批判的な人間を人権教育を通じて育てていくという目標とも関わっていると思う。そういう意味で、法教育と人権教育の実践的知識が指摘されていることは、この文章を活用する際に積極的に取り上げるべき点だと思う。

  7点目は、発達段階の考慮をうたっている事である。17頁の参考の中でも発達段階に即した目標設定が触れられているが、36~37頁には、幼児期、小学校一年~三年、小学校四年~六年、中学校段階、高等学校段階で、それぞれどういう重点目標を設定すると望ましいかということで、発達段階を考慮している。これまで発達段階については、人権教育の議論においてあまり多く述べられてこなかった気がする。国連が作成した『人権教育のABC』(2004年)という教材は、「人権教育の世界プログラム」との関係で作られた教材集だが、この中でも発達段階ごとにどういう留意点を持って人権教育を進めればいいのかがマトリックスで示されていた。これと合わせて「とりまとめ」を読むならば、学校レベルで発達段階に即した人権教育プログラムのあり方の議論に役立つと思う。

  第8点目は、「正義が貫かれるような学校」(p.11)や「人権教育は全ての基本」(p.44)という表現がある点である。人権の視点に立った学校づくりや人権教育の重要性が述べられているといえる。

  9点目は、14頁で「効果のある学校」という表現が、人権教育と学力との関係を示唆するものとして、参考例だが入っている。それから、「教育コミュニティ」についても25頁の事例紹介で言及されている。これらは大阪における人権教育をめぐる議論や実践の反映としてとらえることができるだろう。

  さいごに10点目は、「はじめに」(p.4)で「人権教育のための国連10年」、「人権教育のための世界計画」といった国際的動向が言及されている点である。あまり多くは述べられていないが、人権教育をめぐる国際的な文脈において、この「とりまとめ」を位置づけていることは評価できる。

3.課題について

  このように評価できる点がさまざまにある一方、もちろん課題もある。細かく見ればいろいろあるが、大きく3点を指摘しておきたい。

  1つ目は、「自分の大切さとともに他の人もの大切さも認める」という言い方で人権感覚について触れられているのはいいのだが、この「他の人」という定義がとても狭い人間関係を前提にして、限定的に語られているという点は大きな課題である。

  「世界プログラム」は、人権にかかわる地球規模の問題意識が前提になっている。「持続可能な開発の10年」と連動するものとして、地球規模の環境破壊とか環境破壊の犠牲者となって今を生きている他の人々が、「世界プログラム」では視野に入っている。しかし「とりまとめ」では、そういうグローバルな構造的暴力や環境破壊、差別や、またそれらの犠牲者となっている「他の人」は、おそらく視野には入っていないと思われる。そういう意味で、「自分の大切さと他の人の大切さ」と言うのはいいのだが、「他の人」をあまりにも限定的に狭く語っているのは問題だと思う。地球市民的な力や資質の育成、市民性をどう育てるのかという視点が全く欠落しており、これは補強する必要がある。

  今までの同和教育においても、教師と生徒の人間関係においては生徒の「心の襞」に寄り添うことが教師のあり方として強調されてきたし、しばしばそこで着目されたのは、教室の中での被差別の課題を抱えた身近な子どもを中心とする人間関係であったり、クラスメイトであり、もっと広くとっても学校や校区を越えるものではなかった。同和教育実践全てがそうであったわけではないが、歴史的にはそういう特徴を比較的色濃く持って発展してきたがゆえに、内側の反省も踏まえて、この「自分と他の人の大切さ」に対する定義と関わっていく必要があると思う。この点は、今後大いに議論して補っていかなければならない。とりわけ「世界プログラム」と対比させながら、視点の置き方の違いに注目することが大切である。

  2つ目は、全教科においてどのように人権教育に取組むのかという点についての言及が全くないことである。学校で人権教育に取り組む際に、総合的な学習や道徳、学校行事についてふれられても、教科レベルでは、多くの場合社会科の範疇に留まりがちであった。

  しかし私は、音楽、理科、体育なども含めた全教科において、人権教育に取組むとはどういうことなのかをはっきりと示すことが今後重要だという問題意識を持っている。つまり、音楽や理科や体育など全ての教科において、人権的な感覚とか人権的なものの見方とか、人権に関わる知識、態度、スキルなどは育てられるし、育てるべきだと思うのである。しかし「とりまとめ」では、音楽、理科、体育、数学、技術家庭科などについては一切言及されていない。私はむしろすべての教科でどういうふうに豊かに人権教育に取組むかという議論を現場でもっとやることで、学校ぐるみの人権教育が可能になっていくと思っている。

  3つ目は、ことさら「中立性」や「プライバシーの保護」という言葉が強調されていることである(31頁)。中立性の確保と言うのは、反差別のための教育を人権教育として進めていく上でネックとなりやすい問題であるし、一面的なプライバシーの確保の強調は、それぞれの子どもや地域への生活実態を細かく踏まえつつ人権教育に取組もうとする際に、実践の障害になってくる。そのバランスをどうとるのかという視点を持たないといけないと思う。