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2006.10.13
意見・主張
  
第12回全国部落史研究交流会 (上)

 去る8月4日・5日に「第12回全国部落史研究交流会」が長崎市にて開催された。ここでは初日に行われた分科会のうち、分科会úJ(前近代史)の内容をまとめてみたい。

 分科会 I は100名を超える参加者の中、藤井寿一さんの司会のもと、テーマ設定に関する説明と2本のが行われた。

 はじめに、寺木伸明さんから「近世被差別民の宗教」というテーマについて、研究史も豊富であり、さまざまな分野・側面からのアプローチが可能であることから、単年のみの取り組みに終わらせず、昨年に引き続きテーマとして設定したこと、また論点・課題についても、昨年藤沢靖介さんが提起された、<1>仏教との関係、<2>神社信仰との関係、<3>他の宗教との関係、という大枠を継承することが説明された。

 <1>は阿南重幸さんによる「近世初期かわや(かわた)集団のキリスト教受容について」であった。近世賤民である「かわや」(かわた)とキリスト教との関係は、概ね明治維新期の「浦上四番崩れ」に象徴される両者の対立、ひいては差別分断支配の象徴として描かれてきた。本は、長崎での「かわや」によるキリシタン弾圧に対する抵抗の事例に注目し、「かわや」のキリシタンとしての実相を描くことを目的としている。そしてキリスト教伝来から禁教の確立までを4つの時期に大別し、膨大な史料に基づき、それぞれの時期について、その諸相を概観していった。

<1>キリシタンと被差別民との出会い(1549年-1614年)

 日本に伝来したキリスト教は、「コンフラリア」という団体を組織し、病人窮民の給養、らい病者の収容、棄児の収容などの慈善事業を中心に展開していった。そして、「キリシタンとなるのは下賤なる者と伝染病に羅った者のみで身分ある者なく・・・20年の間に武士のキリシタンとなる者は僅かに一人になりき。」(フランシスコ・カブレラ書簡)と記録されたように、病人や貧民を中心に広がりをもった。さらに豊臣秀吉による伴天連追放令(1587年)以降は、逆にキリシタンであるためには乞食(非人)・らい病者の社会に潜伏せざるを得ない状況となった。

<2>キリシタン禁制直後(1618-1622年)長崎「皮屋」の抵抗

 この時期には、キリシタン弾圧に際し長崎の皮屋町住民が、刑罰の執行などの役務を拒否した事例が4例(1618年、1619年、1621年、1622年)発生している。しかしこのことに関しては、1570年に長崎の町が誕生した時点において、キリシタンがその母体となっており、いわば領民全てがキリシタンであるという特異性のもとに考えなければならない。故に皮屋町住民であることに意味があったのか否かについては慎重に検討する必要がある。

<3>キリシタン禁制後の諸相(-1687年)

 この時期になると、乞食・非人・皮屋への宗門改めが各地で行われている。例えば1630年に「大坂より邪宗門の乞食70人差送らる・・・是より以後、乞食えた共に宗門改め、踏画せしめらる。」(長崎志)と記録されている。このことは、被差別民にキリシタンが潜入していたのか、彼ら自身がキリシタンであったのかの何れかに起因している。このような動きは大坂、京都、米沢、鎌倉、長崎、信濃、美作など全国で展開されており、キリスト教の被差別民への布教が予想以上に進んでいたことを示唆している。

<4>類族令以降の諸相(1687年以降)

 1687年、転びキリシタンやその親族を類族として特別の監視下に置き、数代にわたり移動と生死を・登録させる、いわゆる類族令が制度化された。これにより、類族に対する統制が強化され、その結果、各地での「かわや」によるキリスト教受容の実態が明らかにされている。



 以上、1の要旨を述べてきた。本ではレジュメに加えて、紙数にして10数ページ、点数にして60点程の史料が用意されており、史料の蒐集の苦労には頭が下がる思いである。ただ、内容が膨大であるが故に話を急いでしまった感は否めない。興味深い研究であったので、もう少し時間をかけて聞きたかった。

 2は山本尚友さんによる「真宗と被差別部落ー研究史の整理ー」であった。山本さんは1980年代初頭に「近世部落寺院の成立について」という論考を発表しているが、それ以降この分野の研究から遠ざかっている。そしてそれ以降30年程の期間に研究の蓄積が進み、それを一度まとめてみることの必要性を感じたという。以下にその要旨をまとめたい。

 戦後研究の流れを概観すると、1970年代中期頃までの研究はほとんどなく、管見できるものは、1951年の藤谷俊雄さんの論考のみである。その論旨も近世政治起源説の影響を強く受け、宗教をも政治権力が支配したというものであった。しかし1970年代中期以降、真宗に関する研究が俄に注目されるようになる。1975年に船越昌さんによって一向一揆と被差別部落の関係が紹介され、それが起源論との関連で注目されたことを契機とし、同時期に「兵庫県同和教育関係史料集」によって多数の真宗史料が紹介されることによって、穢寺の中本山を中心とした寺院制度の研究が始まった。杉本昭典さんによって「穢寺帳」の存在が紹介されたり、安達五男さんによって「部落寺院制」(もしくは穢寺頭寺制)が提唱されたのもこの時期である。

 1980年代になると、山本さんの前記論考によって、真宗受容の背景が被差別民の自主的な信仰であることが指摘され、幕藩権力の強制を主張する「部落寺院制」の再検討が始められた。安達さんは主に播磨国源正寺の事例をもとに部落寺院の幕藩権力による主体的な統制を主張されたが、左右田昌幸さんをはじめとする実証的な研究によって反論され、権力の介入は主体的ではなく副次的なものにすぎないという方向に今のところ落ち着いている。

 また、天明2年(1782年)の美作国改宗一件に関する論争が盛んであったのもこの時期である。強制改宗であるか否かが議論となっているのだが、何をもって強制とするのかという解釈が整理できておらず、現在においても決着はついていない。さらに、前述した船越さんの論考によって注目された一向一揆起源説が石尾芳久さんや寺木伸明さんによって展開されたのもこの時期である。しかし一向一揆起源説は、その実証性の乏しさから立証までいたらなかったのが現状である。ただ、一向一揆と被差別部落との関連は究明していくべき重要な論点であることは間違いない。

 1990年代になると、左右田さんによって、本願寺史料研究所蔵の史料が相次いで紹介され、研究内容が深化した。そして地域的にも広範囲になり、多様な視点に基づいた研究が進んでいき、現在に至っている。この時期の成果としては「穢寺」の概念や権力や本山による実質的な取り扱いについて、具体的に究明されたことであろう。例えば西本願寺の場合、その判断が難しい場合には、在地の実態や幕藩権力の意向がその判断の基準となっており、状況に応じて流動的な取り扱いになっている。

 また、近年における注目すべき研究として、真宗教線の展開に関するものがある。和田幸司さんは播磨の国を事例に丹念な調査に基づき、一般寺院と部落寺院は異なる教線の展開が見られることを実証している。それに対して奥本武裕さんは大和を事例として同様の考察を試みているが、部落寺院の教線には独自の展開は見られず、一般寺院との差異は認められないとしている。

以上、2の要旨を述べてきたが、重要な課題の提示や、レジュメに付された文献目録などは、今後の研究の進展にとって有用な材料となるであろう。

(文責 藤原 豊)