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2012.08.23
意見・主張
  

人権CSRの世界的展開 第10回 ダリットの積極的差別是正措置と人権CSR:インド現地視察報告

菅原 絵美
出典:『ヒューマンライツ』2012年9月号

はじめに:インド現地視察におけるふたつの視点

 2012年7月25日から31日までインド首都デリーにおいて、カースト制度の最下層に置かれる人々「ダリット」に対する、民間部門における積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)について現地視察を行った。出発直前の7月18日にスズキのインド子会社であるマルチ・スズキで大規模な労働争議が起きたこともあり、今回の現地視察はダリットに対する積極的差別是正措置にとどまらず、インドにおける人権CSRを考察するうえで重要な機会となった。特に人権CSRに関しては、次のふたつの視点を持ちながら、現地視察を行った。

 

①海外事業展開先での人権尊重としてのローカル問題への取組み

2011年4月に発表した「人権CSRガイドライン」では、第一部の人権CSRマネジメントの「国際的な人権問題への関心・貢献」に「進出先での人権問題への積極的な関与を行っていますか」というチェックポイントを置き、第二部の人権CSRパフォーマンスに「海外事業展開での人権尊重」という項目を置いた。CSRを本社単体のみならず、企業グループ、そしてバリューチェーン全体で取組みことが求められている現在、当然ながら海外進出先・投資先での支社や子会社による取組みも対象となる。すなわち、国際的な人権基準に注意を払うとともに、具体的な問題として現れるローカルな文脈に注意を払うことを念頭に置かなければならない。インドに進出した日本企業は、現地の代表的な人権課題であるダリット問題にどのような対策をとらなければならないのか。また「人権CSRガイドライン」ではどの程度まで踏み込んでローカル問題が取り上げられるべきなのか。

 

②インドにおける人権CSRの進捗

 前回取り上げたように、コミュニティ開発中心のインド型CSRではあるが、2011年のインド企業省による「ビジネスの社会的、環境および経済的責任に関する自発的ガイドライン1」(以下、「政府ガイドライン」)や、現在インド国家人権員会が進める「インド産業のための倫理綱領」などで人権CSRの萌芽がみられた。政府ガイドラインは実際にはどのように活用されているのか。また倫理綱領が規定する人権項目は、具体的にどのような内容になっているのか。

 

1.インドでの視察先団体について

 今回の現地視察では、ダリット当事者団体やNGO、使用者団体、研究機関、国際機関など多様なステークホルダーへのインタビューを通じて、ダリットに対する積極的差別是正措置の現状を確認し、副次的に人権CSRに関するふたつの視点に対する考察を進めた。

現地視察を全面的にサポートしてくれたのはダリット人権全国ネットワーク(NCDHR)である。職業と世系に基づく差別を受ける当事者の国際連帯として、IMADRを介して被差別部落出身者とダリット出身者との交流がこれまで行われてきており、NCDHRもそのような当事者団体のひとつである。NCDHRは、ダリットの活動家たちが国内・国際社会におけるダリット問題の認知度の向上などを目指し1998年に設立した団体である。

インタビューに加えて、ダリット問題についてILOおよびNGOと非公式会合を開催した。NCDHRを始めダリット問題に取り組むNGO、ダリット学研究所が参加し、民間部門におけるダリットの積極的差別是正措置についての研究を共有した。ダリット学研究所は2003年に設立された独立の研究機関で、インクルーシブな社会の形成を促進することを目指し、カースト、民族性、宗教、人種、ジェンダー、障がいといったアイデンティティのために周辺化された人々を対象に、社会的排除および差別に関する調査研究を行っている。

企業、特に使用者団体に対し、ダリットに対する積極的措置に関する取組みの聞き取りも行った。訪問したのはインド工業連盟(CII)およびインド商工会議所連合会(FICCI)である。両者はインド全土をカバーするナショナルレベルの使用者団体である。CIIは直接の会員企業の数は7000、団体会員を通じた間接的な会員企業数は9万にも及ぶ。一方のFICCIは間接的なものも含めるとインド全土で25万の企業を会員としている。CIIもFICCIと同様に製造業だけでなくサービス業も対象であり、複数の使用者団体に加盟する企業も多い。多国籍企業も加盟することができ、例えばマルチ・スズキはCIIおよびFICCI双方に加盟している。

 人権CSRに関係するとことでは、インド国家人権委員会と協力して企業の人権方針のモデルとして「インド産業のための倫理綱領」を作成している企業の持続可能性経営研究所(ICSM)からも聞き取りを行った。代表であるBhattacharya博士は研究を中心に行うICSMとともに、大学院卒の資格がもらえるCSRコースをウェブベースで提供する企業価値経営(CVM)という民間企業を経営している。

これら団体へのインタビューに基づき、ふたつの視点を次節以下で考察していく。

 

2.人権CSRにおけるインドのダリット問題への注目

(1)ダリット差別とマルチ・スズキ問題

 2012年7月18日夜、マルチ・スズキのマネサール工場(ハリヤナ州)で発生した労働者による暴動により人事部長が死亡し、日本人幹部2名を含む約100人が負傷した。マルチ・スズキ労働組合の声明によれば、問題の発端はダリット出身の正規労働者に対する管理職のカースト差別発言であった2

問題となったカースト差別、特にダリット差別とはどのような問題なのか。日本の部落問題のように、職業や世系(出生によって決まる帰属関係)による浄と不浄(穢れ)の概念に基づく差別が世界各地で存在しており、インドをはじめ、ネパール、スリランカ、バングラデシュといった南アジアにおけるダリット問題もそのひとつである。ダリット(「壊されし人びと」の意)はカースト制度により「不可触民」として社会の最下層に位置づけられた人々であり、インド全土で約1億6000万人いると言われ、総人口の約22%を占めている。住居の隔離、井戸などの使用制限、寺や上位カーストの住む地域への立ち入り制限、土地の所有に関する差別のほか、残虐な暴力やレイプ、殺人の被害も出ている。またダリットは清掃業、糞尿や動物の死体の処理、皮革業を強いられ、極端な貧困状況にあり、債務奴隷の状況に置かれることもある3

 このようなダリット問題を背景に行われた差別発言がマルチ・スズキの問題の発端であった。死傷者を生じさせた暴力行為は決して許されるものではないが、労働者の暴力行為に対して批判が集中するばかりで、なぜこれほど大規模化してしまったのかについて疑問が残る。再度マルチ・スズキ労働組合のステイトメントを引用すると、労働組合のトップが経営側と議論をしている間に「企業側に雇われた者たち」が労働者を攻撃し、騒動が激化したという。そもそもマルチ・スズキの労使関係はうまくいっておらず、労働争議が繰り返し発生していた。その原因は、派遣労働者の雇用問題、賃金格差、新たな労働組合の設立、作業の迅速化などに関して対立が生じていたことにある。インドでは、企業(特に多国籍企業)が、労働組合の組織化を阻止するため労使関係を変更する、また経営戦略から派遣労働者の雇用を拡大するといった経営が行われていた4

今回の視察で得た情報によると、インドで事業する企業のなかには、グンダスと呼ばれる民間の武装組織を雇い、労働争議に対抗したり、労働組合の分裂を狙ったりすることがあるという。また発端となったダリット出身の正規労働者への差別発言に関する背景は複雑である。前述のようにインド社会では派遣労働者の雇用が増加し、正規労働者との賃金格差が問題となっている5。またインドでは派遣労働者も正規労働者と同じ労働組合に所属するのが一般であり、この点が日本の事情とは異なる。正規労働者であるダリットに対する差別発言が発端となり、緊張していた労使関係が急激に悪化した今回の事件は、前述の複雑なインド社会の現状を反映していたのである。

 

(2) ダリットへの積極的差別是正措置と使用者団体の取組み

 インドは1947年に独立して以来、不可触民制廃止法や残虐行為防止法を定めるなど、ダリットに対する差別や暴力を禁止するとともに、ダリットのインド社会における格差を解消するため優遇措置を行ってきた。代表的な制度が「留保措置」であり、政府による雇用、公的教育機関、公共住宅および議会において人口比と同じ優先枠をダリットに対して設ける制度である。1947年憲法により導入された留保制度であったが、1995年に構造調整プログラムの一環として経済改革が行われ、国営企業および公的サービスの民営化が進められるなかで、留保制度に基づくダリット雇用が減少した。そこで留保制度を公的部門だけでなく、民間部門へ拡大することが主張されることになった。当事者だけでなく、政府も必要性を認識し産業界へ働きかけを行うなかで、2006年CIIやFICCIなど民間部門側は、自発的な取組みとして、ダリットに対する教育、エンプロイアビリティ、起業支援、雇用という4分野に重点を置いた積極的差別是正措置政策を開始した。

CIIは、インド合同商工会議所(ASSOCHAM)とともに「積極的差別是正措置のための自主行動綱領」を定めており、会員に対し行動綱領への署名と、行動綱領が対象とする教育、起業支援、雇用、エンプロイアビリティの4分野に関する取組みを奨励している。その活動実績はというと、2010-2011年において会員企業683社が行動綱領に署名を行っており、その約15%の103社のみが積極的差別是正措置に関する取組みを行っている。CIIおよびCII会員企業は282事業を行い、うち38%がエンプロイアビリティ、26%が教育、9.2%が起業開発、10.3%が雇用促進、そして6.5%が全4分野横断的な取組みであった。残り10%は生活、住居、健康などに関する事業である。加えて、ダリットに向けられた事業は全体の3分の1程度で、多くはより広く社会的弱者を対象とする。

 一方、FICCIでは企業が積極的差別是正措置に取組むことはしておらず、FICCIとしてソーンバドラー県において、ダリットを対象とした積極的差別是正措置を行っているにとどまる。ソーンバドラー県では、雇用の機会や研修方法に関する意識啓発や、能力開発のための研修事業を立ち上げ、また二輪車(自転車)や携帯電話の修理やじゅうたん織りといった若手の起業家を支援する様々な取組みをしてきた。

 インドの使用者団体による積極的差別是正措置の実施状況はとても積極的とは言い難いものである。そのなかでも多国籍企業は協力的ではないという評価であった。多国籍企業の場合は、公正採用という方針とダリットに対する積極的差別是正措置がかみ合わないなど、形式的平等を備えることが中心で、インド社会を反映した実質的平等に対する視点が弱い。積極的差別是正措置の好事例は、タタグループなどインド企業ものが中心で、日本企業の名前は挙がらなかった。

 繰り返しになるが、ダリットに対する雇用分野の優遇措置の推進が本来の目的であるにも関わらず、民間部門による積極的是正措置政策において雇用分野は最も取組みが弱い。企業の取組みが弱いのであれば、企業がどのようにダリット問題に取り組めばいいのか、そのヒントとなるインクルーシブを推進するためのチェックリストを考案してはという提案が示された。CIIではチェックリスト開発過程へ参加したい、完成したのちにはCIIの年次会合で紹介してはどうか、など関心を示していた。このインクルーシブ推進のチェックリスト作成に当たって、雇用分野だけでなく、「サプライチェーン・ダイバーシティ(サプライチェーンの多様性)」も項目に加える提案が出た。サプライチェーンの多様性の問題は、日本では東日本大震災によるサプライチェーンの分断を教訓としてリスク管理の文脈から語られることが多い。一方、インドでは日本のようにサプライチェーンが階層化されておらず、大企業が小規模事業者と直接取引をしているため、ダリット小規模事業者を支援する積極的差別是正措置として位置づけられている。

 

3.インドにおける人権CSRの進捗と課題

(1)「グローバル市場へのライセンス」としてのCSRが抱える問題性

インドのCSRはコミュニティ開発(社会貢献)の取組みが中心であり、教育、健康、生計手段の確保、エンパワメント(技術開発や起業支援など)などの分野である。インドでは、国営企業は純利益の3%をCSR活動に支出するよう義務化されている。一方、民間企業の場合は、純利益の2%をCSR活動に支出することが奨励されているにとどまり義務化はされていない。しかし報告自体は義務化されており、結果、民間企業の約70%以上はCSR活動へ支出しており、CSRに関する基金を設立する形で対応している。

 インド型CSRが進められる一方で、使用者団体は国際的なCSRへの対応の必要性を感じているようである。産業界はインドの景気後退に対する危機感を強めるとともに、インド企業がもはや「インド企業」ではなく、国外での売上が拡大し多国籍化している現実を確認する。そしてグローバル市場で競争力を得るためには、グローバル市場に参加するためのライセンス、すなわち国際的なCSRガイドラインを意識した活動をしなければならないという。

 このような背景のなかで、FICCIが会員に対するセミナーや情報提供で優先的に取り上げているガイドラインが、2011年の政府ガイドラインおよびISO26000であるという。政府ガイドラインは、インド企業だけでなく、インドで事業を行う多国籍企業も対象としており、その第5原則が「ビジネスは人権を尊重し促進する」と人権に関する原則になっている。インド憲法だけでなく、世界人権宣言や国連「保護・尊重・救済」枠組といった国際的な人権CSRを基礎としたものであることを明確に記載している。

一方、政府ガイドラインおよびISO26000では、女性差別や障がい者差別といった世界共通の課題を取りあげるが、各国ごとに特徴を持つ具体的な人権問題については指摘していない。そこで「研修のなかではどのような具体的な問題を取り上げているのか」と質問したところ、インド国内法または国際法が直接対象とする問題、例えばインド国内法で禁止されている子どもへの暴力やRio+20で取り上げられたリプロダクティブヘルス・ライツなどである。ゆえに、ダリット問題は、「2011年ガイドラインやISO26000に具体的に記述がない」からそれほど取り上げていないとの回答であった。

 

(2)「インド産業のための倫理綱領」の現状把握

インド国内人権機関である国家人権委員会は、ICSMに委託する形で「インド産業のための倫理綱領」の作成に着手している。なぜインド国家人権委員会がインド企業の人権方針のひな形となるような倫理綱領に取組み始めたのか。この問いに対し、国連枠組および指導原則の人権理事会の承認、そして国内人権機関が企業問題に対して果たす役割を確認したエディンバラ宣言を反映した動きではないかと考えていた。今回ICSMのトップであるBhattacharya博士と面談のなかで明らかになったのは、倫理綱領の開発は、博士が商務大臣と法務大臣に倫理綱領の必要性を提案、その後法務大臣が国家人権委員会に話をもっていき開発することになったとのことであった。

倫理綱領の枠組を考えるにあたり、ISCMは、鉄鋼、電力、建設、製紙、金融、繊維など20業種の国営および民間企業を対象に737人から協力を得、データを収集するとともに、経営トップ、中間管理職、従業員、ステークホルダーそれぞれと協議を行った。この調査から見えるインド企業の現状として、90%を超える企業が経営倫理やCSRに関連する戦略や方針をもっているが、このうち50%がこの戦略や方針を従業員に対し普及できていない。また、インドでは工場用地を確保する際の住民の強制移住(移動)、補償などリハビリテーション、再定住が問題となっているが、この問題に関する方針があるかという問いに対し、54%の企業が問い自体に難色を示したという。また調査対象の全企業が定期的なレビューを通じて問題が特定された場合に問題解決の手続があると回答したが、実際に運用している企業は2社のみであった。

調査を基に提案された倫理綱領は12の項目からなり、人権については、強制移住(移動)、ジェンダー、宗教、年齢、ダリット差別を盛り込むほか、インクルーシブやステークホルダーマネジメントといった課題も含んでいるとのことであった。報告書および倫理綱領の草案は国家人権委員会に提出済みであるがまだ公開されていないとのことで、今回の面談では前述の調査についての概要のみ共有できた。

 

おわりに

 冒頭に述べたように、今回の視察では、①人権CSRにおいてダリットのような進出先の問題への対応をどう位置づけるべきか、②インドの人権CSRはどの程度進捗しているか、の2つの問いを意識した。

 ①について、マルチ・スズキの事件は、ダリット差別、非正規雇用の賃金差別、非正規雇用の声を反映する労働組合など、インド社会を反映した事件であり、バリューチェーン・マネジメントの観点から、企業は現地法人任せの人事・労務マネジメントでよいのか、という疑問を提示した。なかでも、ダリット問題は、ダリットがインドの総人口の22%に及ぶ現状からも、インドに進出した企業は必ずや対応を求められるものである。インドの使用者団体が企業に対しダリットへの積極的差別是正措置に取組むよう奨励していること、インクルーシブを推進するためのチェックリスト開発に関心を示している現状を、インドに進出する日本企業はどのように見るのか。一方で、「世界市場に参加するためのライセンス」として国際的なCSRガイドラインが重視されるなか、「具体的に記述がない」ことを理由にダリット問題が研修のなかであまり取り上げられない問題をどう考えるのか。人権CSRとして、例えばインドで事業展開を行っている企業にはインクルーシブを推進するためのチェックリストの活用を勧めるなど、ローカルな人権課題への対応を具体的な形で明示する必要性を感じた。

 ②インドにおける人権CSRの進捗については、CSRの法制度化が進むなかで、2011年政府ガイドラインや倫理綱領の開発など、「コミュニティ開発から人権CSR」へという社会的圧力が生まれてきている。このような社会的圧力を生み出すのは、ステークホルダーの人権CSRへの関心を基礎としているわけだが、視察において「人権CSRガイドライン」への高い関心および評価を得たことも発見であった。人権CSRガイドライン紹介後、ICSMでは好評を得るとともに共同研究の提案があったり、ILOインド事務所での非公式会合においてはダリット問題を盛り込んだインド版「人権CSRガイドライン」を作成する作業部会を設置してはどうかとの提案が出たりした。このような人権CSRへの関心は、自国のCSRと国際的なCSRの間のギャップをいかに埋めるか、人権の視点を経営のなかに組み込んでいくか、というガイドライン作成の問題意識をいくらか共有することができたからであろう。

 今回の視察から得た考察を、今後の研究化活動、特に人権CSRガイドラインの改訂に活かすとともに、インドのダリット問題を対象にインクルーシブな企業活動を推進するためのチェックリストの開発に活かしていきたい。


 

1 Ministry of Corporate Affairs, Government of India, “National Voluntary Guidelines on Social, Environmental & Economic Responsibilities of Business” (2011).

2 “Press Statement”, Murti Suzuki Workers Union (MSWU) (July 19, 2012)

3 IMADR「カースト・部落差別の撤廃」www.imadr.org/japan/decent/(as of August 12, 2012)参照。

4 “Message from Manesar”, The Hindu (July 23, 2012)

5 ダリットの大半は派遣労働者として企業に努めている。賃金格差については、派遣労働者の平均月給は7000ルピー程度で、デリーではとても生活ができない額だという