講座・講演録

部落問題・人権問題にかかわる講座情報、講演録を各カテゴリー毎にまとめました。

Home講座・講演録>本文
2003.10.29
講座・講演録
部落解放研究126号より
1999年2月28日発行

人権教育と政治教育
-「参加型学習」がめざす「市民意識」の形成とは-

阿久澤麻理子

一 「参加型学習」導入に対する問題提起

  ここ数年、人権教育・啓発の方法論として「参加型学習」を導入する現場が増えている。教師(講師)から学習者への一方的知識の伝授ではなく、多様なアクティビティを通して、学習者が経験から主体的に学ぶことをめざす「参加型学習」普及の背景には、同和問題を中心とするこれまでの教育・啓発が直面してきた問題――内容や形式の画一化・重複によるマンネリ化、あるいは「差別はいけない」というタテマエの繰り返しによって、学習者の「またか」意識や反発を惹起してきたこと――を乗り越えたいと望む教員や啓発担当者の思いがある。

  しかしながら一方で、単に「楽しいから」という安易な動機が、「参加型学習」のマイナス効果を拡散していることも気にかかる。「楽しいから」は「深刻な問題を避けて通りたい」という意識の裏返しであることが少なくない。とくに、同和対策事業を裏付けてきた一連の『特別措置法』が期限を迎えた一昨年から、同和対策事業の終了=同和教育や啓発も終了、という意識が強まり、同和問題を直接取り上げる学習を避けようとする傾向が少なからずみられる。

  これが、テーマはともかく「参加型学習」形式で講座をやりさえすれば人権教育を行ったことになる、という意識を生んでおり、「参加型学習」が差別や抑圧の現実に直接関わらずに済む、簡便な学習方法として利用されるという、本末転倒の現象を引き起こしている。

  問題は、日本における「参加型学習」が、なぜこうした活用のされかたをするのか、ということである。筆者は、「参加型学習」があまりにも方法論に偏重してとらえられ、その本来の意義――民主主義の価値とルールを尊重しつつ社会に参加し、その変革をめざす主体を形成すること――が十分に理解されていないためであるととらえている。

  「参加型学習」を取り入れたイギリスの「ワールド・スタディーズ」が、政治教育から大きな影響を受けていることは、日本においてあまり知られていない。「アクティビティを行ってから、参加者の発言が増えた」「体を動かすことで参加の実感が深まる」といった現場の評価がいぜん多いことからもうかがわれるように、教室や会場をうまくはこぶための方法論として「参加型学習」が評価されており、これによって社会参加・社会変革をめざそうという意識はきわめて弱い。

 そこで本稿では、「参加型学習」の背景にある社会参加・社会変革の理念を明らかにするために、イギリスにおける政治教育を取り上げ、「参加型学習」や人権教育との関連を探りたい。

二 民主主義と社会参加―ジョン・デューイの教育実践

 イギリスの政治教育を取り上げるまえに、民主主義と学校との関係を論じ、今日における「参加型学習」の原型ともいえる実践を最初に行った人物の一人として、アメリカのジョン・デューイ(一八五九〜一九五二)に注目したい。都市化が進み産業構造が急速に変化しつつあった一九世紀末、デューイは学校が果たすべき役割を追求した。

  かつての子どもたちは、地域社会の人間関係や家庭での仕事の手伝いを通じて(生活の現場である「家庭」と「労働」の場は、工業化以前の時代には一致していた)、自分と社会との関係を学ぶことができたが、社会の急速な変化によって、家庭から職場が切り離され、人びとが工場労働者として働くようになると地域や家庭に従来あった教育的機能は急速に失われていった。

  にもかかわらず、学校はこうした社会変化を受容しようとせず、旧来通り知識や技術の一方的伝授に終始していることをデューイは批判し、学校が子どもと現実の社会をつなぐ場となることをめざしたのである。こうした彼のアイディアはシカゴ大学付属小学校「ラボラトリー・スクール」で実践に移されたが、その一つが「協同作業」の導入である。これは、一般社会において大人が仕事として行っていること(園芸、料理、織物、製本、印刷など)をカリキュラムに取り入れたものであった。

  子どもたちは手作業と試行錯誤を体験することで、答えを与えられるのではなく主体的に知識を獲得し、競争ではなく協力的な人間関係のありかたを学んだ。また、「仕事」とは、個人が自分の個性・能力を活かし、社会に関わる場でもある。デューイが学校に「仕事」を持ち込んだのは、子どもらが自分と社会の関わりを考えるきっかけを創出するためでもあった。これがおそらく、「参加型学習」とよばれている方法論の原型であろう。

  こうしたデューイの実践は、人権教育との関わりの深い三つの主な領域に影響を与えたと筆者はとらえている。一つめは、教育学の領域において、教師から学習者への一方的な知識伝授のスタイルを強固に維持してきた学校教育を、学習者中心、経験中心へと転換させたことである。こうした教育観は、M・モンテッソーリやA・S・ニールらに引き継がれた。

  第二に、ファシリテイティブな人間関係と学習者の主体性を重視する理念は、C・ロジャースを経て、グループ・ダイナミクスに基づく人間関係トレーニングを発達させた。そして第三が、政治教育や社会運動の領域である。プラグマティズム(実用主義)の哲学者であるデューイにとって、観念や知識は、現実の社会に生起する問題の解決や、社会状況の改善に役立ってこそ、意味を持つものであった。学ぶことで社会に関わることを促そうとした彼の教育理念は、非常にアメリカ的である。なぜならば、多様なバックグラウンドをもつ人びとを「アメリカ市民」となし、その社会参加を促すことでのみ、アメリカ社会が成立しえたからである(1)。デューイがめざしていたのは、民主主義社会の担い手としての、市民意識を育むことであった。

三 人権教育の「土台」としての政治教育―イギリスを例に

ワールド・スタディーズにおける「行動主義」とプラグマティズム

  日本においては、「参加型学習」を導入したカリキュラムとして知られているイギリスの「ワールド・スタディーズ」も、こうしたデューイの教育理論に深く根ざすものである。世界における現実の諸問題を知識として学ぶだけでなく、解決をめざす主体の形成に力点を置いたカリキュラムの開発をめざして、「ワールド・スタディーズ・プロジェクト」が一九七三年に発足した背景を考えたい。

  そこでまず、ワールド・スタディーズにつながる戦後人権教育の歴史を振り返りたい。第二次世界大戦後の欧米諸国にとって、人権教育における最大の課題は、人種差別思想の克服であった。人種差別が植民地支配や侵略を正当化し、第二次世界大戦の惨禍をもたらしたことへの反省から、戦後の国連、なかでもユネスコは人種差別の不当性を訴え、正しい知識を普及させる努力を行い、また国際理解の必要性を訴えた。しかし、その知識中心で理想主義的な取り組みに対しては、一九六〇年を契機に、批判の声があがるようになる。

  批判は、長く欧米の植民地とされ、ようやく独立を実現した第三世界諸国からのものであった。彼らは欧米先進国に対して、「第三世界の現実にこそ目を向けよ」と主張した。人種差別によって侵略と植民地支配が肯定され、そして植民地における労働力確保のための奴隷貿易が数百年間にもわたって行われてきた結果、第三世界は社会的・経済的発展に多くの問題を抱えていた。

  このような現実を無視して、反人種差別や国際理解は語れない。こうした問題提起を受けて、欧米諸国は第三世界の諸問題を解決するために開発援助を開始し、さらに自国の市民に対しては「開発教育」――第三世界の諸問題についての教育――を始めた。「ワールド・スタディーズ」も、こうした歴史的経緯を経て、世界の諸問題を学ぶカリキュラムとして発足したものである。

  被差別・被抑圧の当事者からの問題提起を受けて、その「現実」に目をむけることから始まった教育・啓発の経緯は、同和教育の歴史とも共通する。しかしながら筆者がとくに注目するのは、「開発教育」やそれに続く「ワールド・スタディーズ」が、あくまで問題解決のために行動する主体の形成をめざし、そのための態度や技能の育成を強調した点である。こうした「行動主義」の根底に、デューイのプラグマティズムとその流れをくむ政治教育の影響が存在するのである。

政治教育に対する伝統的批判

  さて、民主主義を築くための長い歴史のあるヨーロッパでは、どこの国でも政治教育が順調に行われてきた、とわれわれは考えがちである。しかし、イギリスにおいて、政治教育が正式に認められたのは、第二次世界大戦後のことであった。イギリスでは、伝統的に学校教育に政治を持ち込むべきではない、という考え方が根強く、いわゆる「エリート」と「アンダークラス」への教育は暗黙の了解によって分離され、「エリート」にはリーダーとしての資質を養う一方、「アンダークラス」はリーダーに追従するように「隠れたカリキュラム(hidden curriculum)」が機能していた。

  また、政治教育は子どもには難しすぎるし教え込みになる、とか偏向している(政治教育を要求するのは、社会主義者である、というイメージが根強く存在した)といった意見、あるいは学校は確立された知識だけを教えるべきで、政治的論争のテーマとなるようなことは扱うべきではない、という見解が一般的であったことに加えて、政治教育によって民族主義が強まり、イギリス社会が分裂することへの恐れ(ウエールズ、スコットランド、アイルランドに加えて、英帝国支配下の国ぐにの存在が念頭にあった)も政治教育を回避する要因となった。

  こうした政治教育に対するマイナスの伝統が転換したのも、第二次世界大戦によってであった。民主主義とはその社会の構成員が自ら決定し、かつ、その決定に従うという自己支配の概念であり、市民は政治権力の主体であると同時に支配の対象でもあるという、一種のパラドックスを内在する(2)。したがって、構成員たる市民が決定に参加することを怠れば、一方的に支配を受けるだけの、独裁的政治となんら変わらない。ヒトラーを生み出したことへの反省が、誰もが政治に対する判断力を持ち、参加するべきであるとの価値観を強化し、政治教育の必要性を認める契機となった。

  このような政治教育のコンセプトを具体的化したのが、バーナード・クリックである。クリックはIn Defence of Politics(一九六二)を著し、政治とは政府や政治家など専門家のもので自分の日常生活には関係ない、という政治観を人びとが乗り越え、政治が日常的なアクティビティとなりプロセスになる必要があると考えた(アクティビティやプロセスという用語が、政治的行動との関わりで使われていることに注目されたい)。そのためには、政治の主体となるべき人びとがエンパワーされ、参加するために必要な技能を身につけねばならない。

  そうした技能の一つとして提起されたのが、「ポリティカル・リテラシー(political literacy)」である。「政治的状況を読みとる力」の意であるが、クリックによると、その定義は「何が政治的な議論の的になっているのか理解しており、その議論の参加者がどのような信念をもっているのかも認識しており、議論の参加者が他の人びとにどのような影響を与えるのかも理解しており、他者の誠意や考え方を尊重すると同時に、効果的な方法でなにかを試みようとする資質(3)」である、とされる。

政治教育のナショナル・プログラム化(一九七四〜七七)

  イギリスにおける政治教育が大きく前進したのは七〇年代のことである。クリックの「ポリティカル・リテラシー」を中心コンセプトとして、一九七四年に政治教育は正式にナショナル・プログラムとなり、学校における政治教育はようやく市民権を得るに至った。シェフィールドをはじめとする地方教育委員会の中には、専門アドバイザーを設置したり、学校・教員むけにガイドラインを設定するところもあり、またロンドン大学などは政治教育専門の研究者を置き、ヨーク大学などでは教員むけに政治教育のコースを開設するなどの広がりが見られた。

  ヨーク大学のイアン・リスターは、この時期の政治教育の普及が、イギリスの学校教育におけるネガティブな伝統を以下のように変えたと評価している(4)。

  第一に、政治の概念を幅広い日常生活に広げたこと、第二に、知識として政治組織や体制を学ぶのではなく、現実に生起する問題や議論の対象となっているような事柄を学習内容として取り上げるようになったこと、第三に、こうした問題を解決するためのスキルや行動が強調されるようになったこと。また第四に、問題解決は力関係の所産であってはならない。現実の政治的対立を受容し解決するには、合理的かつ寛容でなければならない。そこで、「自由」「寛容」「公正」「真実と理性の尊重」といった「手続き的価値(procedual value)」が重視されるようになった。また、第五に、民主主義を学ぶのであれば、クラスの環境こそ民主主義的でなければならない。民主主義的環境を通して(education through democracy)学ぶ、という考え方が広められた。

  これらはいずれも、今日の人権教育の概念とも共通するものである。また、政治教育のナショナルプログラム化は「ワールド・スタディーズ・プロジェクト」の発足とも時期的に重なっており、その理念や方法論にも大きな影響を与えたことはいうまでもない。

  ワールド・スタディーズも、世界に生起する具体的な諸問題を取り上げ、その解決をめざすことを基本に、カリキュラムが組み立てられている。まず、社会で議論の対象となっているような事柄を学習するには、生徒自身の内面的な価値観の形成が重要である。そのために、生徒が自分自身や自分のもつ価値観を知り、これを分析・表現できるよう「価値教育」を重視する。

  また、個人の内面に働きかける教育と同時に、問題を生み出している社会構造を把握・理解するための知識――知識には命題的知識(ある事柄を知っていること)と実際的知識(どうするべきかを知っていること)とがあるが、後者の発達が重視される――と、政治的技能――地域、国家、国際的なレベルでの意志決定に影響を与える能力――の育成が重視された。また、これらを獲得するための手法として、体験的アクティビティが開発され活用されている。

  しかしながら、現実の社会に関わり問題解決を志向する政治教育の理念が、ワールド・スタディーズを実践していたすべての教師によって、十分に理解されていたわけではないことも事実である。ダグ・ハーウッドが一九八二〜八三年に小学校の教員を対象に行った調査結果によると、多くの教師が子どもにとって政治的教養を得ることはそれほど重要ではないと考えており、政治教育に関連するワールド・スタディーズの「態度」目標(たとえば、民主主義の原則と手続きを学び、より公平な世界の実現のために行動すること)は、「まあまあ重要」だという程度にしか受けとめていないことが明らかになった。ベドフォード高等教育カレッジのジョン・ハックルは、こうした状況を憂慮し、以下のように記している。

  「もっと開かれた教室の中で体験的な授業を通して子どもを解き放ってやりたいと願いながらも、何から何に向かって生徒を解き放とうとしているのか気づかないままでいる教員が多い。そうした教員のつくるカリキュラムは政治的な事柄に拠るよりも心理学的な基盤に基づいていて、その結果、現実の世界で抑圧を引き起こし自由を妨げている社会構造にはほとんど注意を払わないような学習活動を教室で繰り広げることになる(5)」

  日本における「参加型学習」導入をめぐる問題を考える上でも、示唆に富む指摘である。

不況とバックラッシュ――「苦難と停滞」の時期(七〇年代後半〜八〇年代)

  さて、オイルショック後、とくに七〇年代後半から不況が深刻化し始め、いわゆる「ニューライト」が勃興し始めた頃と時を重ねて、平和教育をはじめ、政治教育やワールド・スタディーズに対する批判の声が高まり、こうした教育は「苦難と停滞」の時期を迎えることとなる。

  不況による福祉国家の行き詰まりが市場経済優先主義を生み、教育における行政的権限が後退すると、ワールド・スタディーズに対する教育省予算も一九七九年に打ち切られた。また、ナショナリズムの強まりとともに「平和教育を含むカリキュラムは悪い学校の印」(D. Anderson, 1982)とか、「ワールド・スタディーズは第三世界主義者の偏向教育である」(R. Scruton, 1985)といった批判が相次いだ。

  しかしながら、こうした右派からの批判だけが停滞の要因ではなく、これらに十分に反論しえない弱さがワールド・スタディーズにあったことも認めねばなるまい。先のハックルの指摘とも重なるが、リスターは、政治的リアリズムを欠き、学習プロセスばかりが重視されて内容が空疎化した七〇年代の新しい教育運動を、「目的ばかりが壮大で、中身が貧弱」と批判した。

  あまりにも大きな理想を掲げ、自己評価や批判の手段を持たなかったことも問題であった。リスターはまた、プロセス重視の方法論は重要だが、アクティビティは使われすぎで、人を操作するような(manipulative)傾向すら生じたと述べており、その批判は手厳しい。

  こうした停滞の時期を経験したものの、八〇年代イギリスにおいては、開発、多文化、人権、環境などの諸領域における教育運動が再び活発化した。また、これらを包括する概念として、ワールド・スタディーズにかわって、より普遍的な用語として「グローバル・エデュケーション」が使われるようになったが、世界の現実の問題を取り上げ、「参加型」の方法論を重視する基本理念は共通している。なお、ヒックスやリスターらが、これら八〇年代の教育運動を基本的に評価しながらも、ワールド・スタディーズに対するものと同様の問題提起を続けていることをつけ加えておきたい。

  また、さらに九〇年代に入るとイギリスでは「シティズンシップ・エデュケーション」の用語が頻繁に使用されるようになったことが注意をひく。EU統合にむけて、ヨーロッパ共通の市民意識を高めようとの意図もあろうが、人や地域の地球規模での相互連関がいっそう強まる今日、地球規模での社会参加と変革をめざす市民意識の形成が重視されていることのあらわれといえよう。

四 ふたたび、日本における人権教育・啓発について

  このようにイギリスにおける「参加型学習」は、プラグマティズムの思想を基盤とし、政治教育と深く関わりながら発展してきた。一方、日本においては、これまでの教育・啓発を転換することへの期待ばかりが先行し、社会参加、社会変革の方法論として理解がなされていない。もちろん、学習プロセスを重視するアクティビティは、これまで「差別はいけない」と繰り返し続けてきた教育・啓発にとっては大きな転換であり、魅力でもある。しかしながら、こうしたプロセスが現実の社会における行動に結びつかなければ、「参加型学習」はただのゲームや非現実的な疑似体験となり、批判に耐えうる力を持たないまま、早晩すたれてしまうのではないだろうか。

  政治教育の基盤をもつイギリスですら、新しい教育運動が「現実離れ」を起こすことを憂慮し、社会の現実に立ち返ろうとする声が繰り返し上がっている。それは市民が社会参加を怠れば、民主主義が後退することへの危惧ともいえよう。また、リスターはこうした傾向を乗り越えるために、具体的な問題の解決をめざして「限られたことであっても、実行可能なことに着手する」よう提案している。日本の教育・啓発にとっても、重要な提起として受けとめたい。

  私たちが今、「参加型学習」の導入によって問われているのは、民主主義や社会参加という理念が人権と不可分であることを理解し、これを私たち自身の中に定着させられるか、ということである。「参加型学習」を通して、誰もが、自分がどのような市民になることをめざすのか、今一度、自問してみる必要があるのではないだろうか。

ディーイによる教育理論の影響



(1)デューイは民主主義に基づく市民参加を論じるさい、多様なマイノリティの存在に対してはあまりに楽観的であったことをつけ加えておきたい。彼は人種、宗教、文化習慣のちがいは容易に混合し、新しい文化ができると考えていた。

(2)日下喜一『現代民主主義論』勁草書房、一九九四年、九頁。

(3)B. Click and A. Porter, Political Education and Political Literacy, Longman, 1978.

  なお、クリックの「ポリティカル・リテラシー」は、同時期、第三世界の識字教育に取り組み、『被抑圧者の教育学』を著わしたパウロ・フレイレの「意識化(Conscientization)」のコンセプトとも共通する。クリックもフレイレも、ともに学習者のエンパワーと行動を重視したことが注目される。

(4)I. Lister, Human Rights: A Case for Political Education, Paper presented to the Conference of the History Teacher's Association of Australia, the Social Education Association of Australia, the Geography Teacher's Association of South Australia, in Adelade, July 1986.

(5)ジョン・ハックル「政治教育から学ぶこと」、D・ヒックス、M・スタイナー編『地球市民教育のすすめかた ワールド・スタディーズ・ワークブック』、明石書店、一九九七年、四三頁。(原題:Making Global Connections, A World Studies Workbook, 1989)