はじめに 人権は現代世界のキーワード
人権保障なしに民主主義は成り立たない。人権尊重の度合いで社会の民主度が測られる時代である。中国、北朝鮮、ベトナムやいわゆる発展途上国の中には、いまなお国権を優先して国力の増大をはかろうとする政府もあるが、第二次大戦後の世界は大勢として、個人の尊厳をもとにした人権確立の発展史ということができる。ソ連・東欧の崩壊は、社会主義経済の行きづまりと人権が契機となった。米中関係はしばしば、人権をめぐって緊張する。日本のODA(政府開発援助)の実施条件にも、不十分ながら人権状況が考慮されている。
人権は現代世界のキーワードになりつつある。ジャーナリズムは鋭い人権意識なしに、内外情勢を的確に報道・解明・論評することも、現代社会の真実に迫ることもできない。しかも、現実は逆にマスメディアによる人権侵害が日常化していると指摘され、報道公害が批判されている。人権問題の重大さに、今の日本のジャーナリストたちはどれだけ自覚的であろうか。「マスメディアと人権」の歴史をふり返りながら、現状の問題点を問い直したい。
一 なぜマスメディアと人権が大きな社会問題になってきたか
私が共同通信の社会部記者としてジャーナリズムの世界に飛び込んだころ、「人権」は日常の記者活動のなかで、全くといっていいほど話題にならなかった。共同社会部は、一九五〇年代に「菅生(すごう)事件」と「徳島ラジオ商殺し事件」の二つのえん罪事件と取り組んで、その後二つとも無実の判決を勝ち取ったが、私自身をふくめ担当記者たちは「人権」など当時、誰も口にした覚えがない。ただ「これはおかしい事件だ」と疑問を持ち、少しでも真実を追求しようとしただけだった。「こんなことはけしからん」と素朴な社会正義感で動いただけで、人権意識など自覚的ではなかったように思う。
(「菅生事件」は一九五二年、阿蘇山の麓、大分県菅生村の駐在所の爆発で共産党員ら五人が逮捕され、大分地裁で有罪判決を受けた事件。実は現職警官が演出したことがわかり、警察が組織的にその警察官をかくまっていたのを、共同の私たちが東京・新宿でつかまえ、五被告は二審で無罪となった。徳島の殺人事件は一九五三年に起き、捜査当局に目撃証言を強要された店員二人の話をもとに、妻の富士茂子さんが徳島地裁で有罪判決、再審でえん罪が確定した時には、茂子さんは亡くなっていた。)
私の見るところ一九四五年以後、日本のマスメディアが人権問題に向き合わされたのは、六〇年代に被差別部落解放運動による糾弾闘争で「差別と平等」が大きな社会問題化したこと、八〇年代に殺人事件のえん罪判決が続出して事件報道にたいする批判が高まったこと、この二つが大きな契機となったように思う。
六〇年代末から男女差別への批判と摘発が強まったのも、アメリカのウーマンリブ運動からの刺激の一方、部落解放運動に大きく触発されている。七五年、国連の国際婦人年を機に「私作る人僕食べる人」のCMが、女性グループから「性別役割固定」の批判を受けて中止されたのは、その象徴的な出来事だった。
犯罪報道への批判が強まった八〇年代半ばには、一時期、五誌五〇〇万部のピークを迎えた写真週刊誌によるプライバシーの侵害も盛んに指摘され、「フォーカスされる」が流行語になった。事件容疑者の匿名・実名論議も高まり、週刊誌やテレビのワイドショーをはじめ、マスメディア全体が厳しい人権侵害批判を避けて通れなくなった。
こうして新聞も放送も雑誌も、人権を配慮せずにジャーナリズム活動することができなくなり、そのためのガイドライン作りや人権研修が広がった。さらに九〇年代になると、新聞大手各社内に法務担当セクションが設けられようになったが、この背景には、いわゆる「ロス疑惑」事件の三浦和義被告から訴えられた名誉棄損裁判で、マスメディア側の敗訴が続出した事情がある。
かつてマスメディアは、昔の侍のように、人びとの人権を切り捨てて平然とのさばっていた。そういう「侍の自由」が許されない時代がきた。日本社会の人権意識は、第二次大戦後この五〇余年間大きく前進した。いまなお問題は山積しているが、人権をめぐるマスメディアの態度は徐々に改善されてきており、日本社会の人権意識の向上を反映している。「マスメディアと人権」が大きな社会問題となった背景には、人権のために戦ってきた人びとと社会の変化がある。それを保障しているのは、日本国憲法である。
もちろん今も、人権を侵害されたまま泣き寝入りしている者は少なくない。マスメディアはしばしば「第四の権力」を誇示して弱者庶民の前に立ちはだかる。裁判に訴えるには金も時間もかかるうえ、勝訴しても賠償額は少ない。放送には九七年に「放送と人権等権利に関する委員会」(BRC)ができて、人権侵害の訴えを審査し、訂正など名誉回復処分をするようになったが、新聞・雑誌にはこの種の第三者機関ができていない。
こういう状況の中で、個人で二〇〇件を超える訴えを起こし、マスメディアを相手に裁判で徹底的に戦おうとしている三浦被告のような人間の出現は珍しい。マスメディアが驚き、脅威に感じているのは、この種の市民意識が日本社会に生まれつつある点ではなかろうか。メディアと人権をめぐる力関係は、新しい段階を迎えている。
二 マスメディアによる人権侵害の構図
人権侵害の構図としては第一に、マスメディアの社会的役割に対する自負心の過剰が指摘できる。「社会正義の実現に努めている」「日本の治安保持や犯罪抑止に役立っている」という自信である。
新聞・放送が犯罪事件の逮捕者に敬称をつけず、長い間呼び捨て報道を続けてきたのは、「逮捕されるような悪人は社会の敵」ときめつける社会正義観からきていた。勧善懲悪の思想をバックに、正義の守護者を自認するメディアとしては、当然の差別扱いだった。
「何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という、フランス革命の人権宣言第九条の法理は、軽視ないし無視されてきた。新聞も放送も一九八九年に呼び捨てをやめて「“容疑者”」の報道形式に変えたが、「推定無罪」の原則は適用せず、プレス・トライアル(報道による裁判)で社会的制裁を容疑者に加える状況は、あまり変化していない。えん罪判決がある度に、多くのマスメディアが、逮捕当時の報道ぶりについて多少の自己批判を見せるようにはなってきたが、やがてまた社会的関心をそそる事件が起きると、似たような報道ぶりに戻りやすい。
確かに「推定無罪」は司法の法理であり、そのまま報道に適用すれば、犯罪事件のほとんどは取り上げにくいことになってしまう。「裁判の結果を待って報じればよい」との主張もあるが、判決確定までには長い年月がかかる。しかし、犯罪事件の情報は社会防衛上「知る権利」の対象と考えられる要素があるので、報道のタイミングも軽視できない。とすれば「推定無罪」の理念を理解しながら事件の概要を抑制的に報道する道を選び、容疑者をそのまま犯人視しない報道様式を模索するほかない。
犯人視を前提に行われる「容疑者の横顔・人物像」などの報道は、以前に比べ慎重になってきたとはいえ、ワイドショーなどを中心にいまも横行している。松本サリン事件の河野義行さんを犯人扱いして謝罪しなければならなくなった教訓は、どこへ行ったのか。ここには、「社会正義の追求のためには、たまたま起きるミスには目をつぶっても仕方ない」という大局的正義感の自信過剰がみられる。こういう正義感では、「無実の者を一人でも入獄させないためには、犯人かもしれない九九人を見逃すことになってもやむを得ない」という近代法理は、無視されることになってしまう。
ワイドショーやタブロイド紙、雑誌などによるタレントなどのプライバシー侵害も、男女間のモラルをマスメディアが決めて、その基準で社会を裁こうとする姿勢からきている。当事者たちは、メディアに嫌われることを恐れる人気稼業のために、泣き寝入りの場合が多い。逆に、PRのための話題作りを狙うプロダクションの演出も少なくないから、一概にいえないとしても、離婚のうわさ話をもとに記者会見を強要する芸能記者たちの人権感覚は、もっと問題にすべきように思う。
タレントが敢然と提訴し、社会がそれを支持するような環境が醸成されなければならない、といつも考えさせられる。メディアのお陰で有名になったタレントは、準公人と見ることができるとしても、プライバシーは歴然とある。嫌がるタレントを追いかけ回して公共性のかけらもない私事を暴き立て、それが商売になっている日本社会の現状は、人権後進国といわれるべきだろう。パパラッチの存在が容認されるのは、公共性のある問題で政治家、官僚、財界人など、公人をターゲットにする場合だけである。
第二に、人権侵害の基本構造はメディアの商業主義にある。その点を重く考えなければならない。ワイドショーがこれだけ批判の対象になっても、あいかわらず、人権侵害のボーダーラインを行ったり来たりしているのは、高い視聴率を獲得するための競争からきている。人権軽視につながるテレビ・ドラマの暴力化の傾向も、女性の人権を蔑視する深夜番組や雑誌類のどぎつい性表現の横行も、放送は視聴率のため、活字メディアは部数を一部でも多く売るためにほかならない。
神戸の連続児童殺傷事件や和歌山のカレー殺人事件などで典型的に見られるような、数百人に上る報道陣の集中豪雨的な取材・報道も、激しい競争に勝つためであり、容疑者とその関係者ばかりでなく、被害者とその関係者の人権侵害を起こしている。事実や目撃者の証言類は、裁判で反対審問による公正な手続きを経てはじめて公式に確認されるものなのに、それを待たずに、警察のリークをそのまま確認された事実のように大きく報道する。さらに近所の人のうわさ話や未確認情報をもとに、いかにも犯人らしい容疑者像を作って詳しく報じたりするのも、センセーショナルな取り上げ方で、いかに読者・視聴者を引きつけるかの商業競争から生まれている。
特殊法人のNHKや社団法人の共同通信と徳島新聞を除いて、日本のほとんどのメディアは株式会社だから、利潤追求なしに経営は成り立たない。いくら言論表現の自由の旗を高く掲げても、赤字のまま何年も企業は存続しえない。そのことは明らかだが、どんな企業も人権侵害で商売をすることは許されない。しかも、憲法二一条が保障している「プレスの自由」は、ジャーナリズムとしての自由であって単なる営業の自由ではない。ジャーナリズムとしては、営業の自由を犠牲にしても人権を守る姿勢が求められる。マスメディアが商業主義で居直ることは、憲法理念からみて許されない。
問題は、「読者・視聴者が求めるから、メディアとしてそのニーズに応じないわけにはいかない」という弁明である。確かに「他人の不幸は蜜の味」とばかり、人権侵害報道を歓迎する人びとが少なからずいる。「面白くなければテレビじゃない」というのも否定し切れない。しかし「のぞき」は「知る権利」に含まれてはならないことも、近代市民社会の良識である。公器を自認するマスメディアなら、その社会的責任から商業主義を抑制し、公共性を優先させる決断が求められて当然であろう。少なくとも公共性と商業性を常に緊張関係におき、商業主義優位に陥らぬよう自戒しなければならないはずである。現状のようなメディアの振る舞いを許している日本社会は、まだ人権侵害に甘すぎる。
「人びとのニーズに応えるため」というとき、ニーズの形成過程にメディア自身が大きく影響している点を見逃すわけにはいかない。面白そうな情報で人びとの関心をかき立て、その拡大再生産で視聴率を取っているのがワイドショーの実態ではないか。そういわれて、どれだけ反論できるだろうか。テレビの視聴率競争には、メディアが自分の影を追いかけている面を否定できない。
「社会のニーズ」を人権侵害の口実に使うことは、許されるべきことではない。商業主義こそ人権侵害、俗悪ジャーナリズムの根源である。「俗悪番組に群がる視聴者こそ、人権侵害の応援団だ」という、一見物わかりのよいいい方に、私は組しない。
第三に、大勢に流されるメディアの画一集団主義が、人権侵害を加速する。「電線に止まっている鳥の群れが、一羽が飛び立つとみんな飛び立ち、一羽が戻るとまたみんな戻ってくるようなマスメディア」とユージン・スミスに形容されたような、パックジャーナリズムの実態はアメリカにもある。しかし、日本の画一主義社会が生んだジャーナリズムは、一段と主体性―個性に欠け、「みんなで渡れば怖くない」をモットーにしがちである。人権侵害を感じながらも、「他の新聞社、放送局がやっているから同調しておこう」という大勢順応に従いやすい。
松本サリン事件の被害者でありながら加害者扱いされた河野さんは、「日本のメディアは間違うのも謝りに来るのも、みんな一緒だ」と述懐していたが、あの事件の現場取材者の中には、河野さん犯人説に疑問を持つ者がいた。その疑問を押しつぶしたのは、東京からの情報だった。各社とも、警察庁情報に依存していればたとえ間違っても孤立しない、という判断からではなかったか。どこか一社でも、疑問を持った記者に独自取材を進めさせていれば、やがて河野さんにサリン製造など不可能と分かったに違いない。
それを許さなかったのは、動物が一頭走り出すと何千頭の仲間が同じ方向に突進するスタンピード現象だった。一頭だけ立ち止まってふり返れば、踏みつぶされてしまう危険がある。それに似た恐るべき状況の中に、今の日本の記者たちは置かれている。現場の記者一人ひとりだけの問題ではなく、新聞・放送の編集幹部がその気にならなければ、この種の報道結果の人権侵害は防止できない。この構造的な人権侵害の要因をどう除去するかが、現代日本ジャーナリズムの大きな課題である。
画一集団主義の克服には、多様性原則の確立で対応できる。その具体的な実現には、どんな問題についても少数派の意見、異端者と見られる人やグループの意見を黙殺しない姿勢が求められる。真実追求にはいろいろな事実や見方の集積による分析・判断が不可欠だが、個性確立が未熟な日本社会では、とかく多数派の意見、見方だけがまかり通り、そのことで社会の調和・秩序が保たれるとする観念が強い。
言論表現の自由は本来、少数派のための自由であることへの理解も弱い。人権を侵害される者は常に社会の少数派であることを考えると、日本社会に少数派尊重の原則を築くことがどれだけ重要か、明らかである。
欧州ではドイツやスウエーデンをはじめ多くの国で、弱小新聞を税金で補助してまで言論の多様性を守ることが制度化されている。多様性の原則は民主主義に不可欠であり、人権侵害の予防にも不可欠であることを強調したい。今日の少数派が実は明日の多数派になるのが、人間社会の歴史である。一六世紀に異端視されたコペルニクスの地動説が真理であることを今、疑う者はいない。今日までの人権侵害を合理化してきたのも、その時代、その社会の天動説・多数説にほかならない。
第四に、情報社会の発展による人権侵害の増幅が挙げられる。「メディア爆発」と呼ばれるほど、二〇世紀後半の情報社会の変容はグローバルである。オリンピックやワールドカップのサッカー試合のように、一〇億を超える全世界の人びとが同時にテレビ視聴し、インターネットで個人が世界中に発信できる時代である。娯楽や生活向上や国際理解に役立つ情報が瞬時に世界へ伝達され、地球市民としての連帯感を強める機能をもつ一方で、人権侵害の情報も迅速に大量に広範囲に伝達され、あっという間に被害が拡大、深刻化する時代である。
新聞や雑誌だけの活字メディア時代と違って、多メディア、多チャンネルのインターネット時代には、個人が情報にさらされる規模が飛躍的に増大する。意識的にせよ無意識的にせよ、結果的に差別を肯定、促進するような情報も高度情報社会では昔の数十倍、数百倍の被害をもたらす。
神戸の連続児童殺傷事件では、逮捕された少年の名前と写真がインターネットで流れた。ホームページを利用して被差別部落関係者や在日外国人を侮辱した匿名の差別通信事件も再三起きている。情報技術の発達は人権にとって確実に危険な環境を生み出している。デパートの顧客名簿や病院のカルテまで売り買いされているように、プライバシー保護意識も法制度も遅れている日本社会では、この点がもっと強調されてよい。
さらに情報社会の発展は、情報管理社会を出現させ、マスメディアの矛先がガードの固い社会的強者から弱者に移行し、人権侵害を加速させている面も見逃すことはできない。情報管理は権力を持つ当局者や大組織の手で強化されており、隠したい情報の秘匿とそれを隠すための発表情報の洪水という表裏両面で同時平行して進められている。官庁でも民間でも大組織ほど情報秘匿の壁を厚くしているので、メディアはその壁を突き破るために血を流すより、壁の薄い小組織や個人を標的にしやすくなる。
公共性の強い要人のスキャンダル摘発より、弱いタレントや犯罪容疑者などに取材・報道の目が向けられるのもそのためといえよう。「強きをくじき弱きを助ける」はずのジャーナリズム本来のあり方と反対に、水が低いところへ流れるような「水流ジャーナリズム」が、弱者いじめの人権侵害を加速している。その事実は、否定できそうもない。権力監視が弱まるのと人権侵害とは、裏腹の関係にあるということができるように思う。
三 いまジャーナリズムに強く求められること
今マスメディアの人間が取り組むべきは、人権意識の質の転換である。そのひとつは、無意識の人権侵害についての自覚をどう高めるか、といい換えてもよい。社会の一般的な常識ですぐに「人権侵害」とわかるような報道は、今ではほとんど見られなくなってきた。もちろん絶無になったとはいい切れないが、「一見明瞭な人権侵害報道」は、少なくとも新聞・放送の世界からなくなったと考えているマスコミ人は多い。しかし、長い間の慣れからくる無意識の差別、マンネリズムによる差別やプライバシー侵害はいぜん少なくない。
例として、毎年春秋の二回、計約九千人に対して行われる叙位叙勲の報道がある。故前川春雄元日銀総裁は、勲一等の内示を受けながら「人間に等級をつける勲章は好ましくない」として、ついに生前も死後も受勲を返上している。勲章は五種類で勲一等から八等まで計二八階級もあり、政治家や財界人をはじめ、心ある人で反対、辞退してきた者は、宮沢喜一元首相をはじめ決して少なくない。にもかかわらず、新聞・放送の扱い方はいつも大々的で、毎回、特集頁を組む新聞も多い。
典型的な人間差別に目をつぶり、受勲者の喜びの声をはじめニュースとして大きく扱うことに、メディアは何の疑問もないかのようである。それどころか自社のトップの叙位叙勲の等級を一つでも上げてもらおうと、工作に狂奔するケースが目立つほどの内情である。概して新聞人より放送人が熱心である。
等級は「宮中席次」を表すもので、天皇との距離を意味する差別であり、天皇制が日本社会の人間差別の根源であることを端的に示している。この点から、叙位叙勲報道は現在の差別秩序を保持するキャンペーンとの見方も生まれるが、私の知るかぎり「世間の常識に従っているだけ」で、ほとんどの場合、疑問を持たない無意識の差別報道といえるように思う。ここには現代ジャーナリストの人権感覚のレベルの低さが露呈しているが、私自身も現役時代、その点に無自覚だったことを告白せざるを得ない。そういうムードの中でジャーナリストは仕事をしてきたといえるように思う。
叙位叙勲制度は明治時代に創設されたもので、一九六四年に生存者叙勲を復活するに際し、皇室指南役の小泉信三は等級に反対したといわれたほど当時から問題があったのに、およそマスメディアは批判したがらない。内定段階で断る人の話も、ほとんど報じない。
もうひとつ無意識の性差別を指摘したい。金融危機報道の中で見られた「長銀マン募る不安」(九八年九月一九日読売東京版社会面トップ見出し)や「サラリーマン減税」(各紙、各放送局)のような用語の問題が分かりやすい。この時期、私は東京と神奈川で「女性とメディア」をテーマにした会合に参加して、この言葉使いに対する女性たちの批判を再確認した。女性の中にも「言われて初めて気がついた」という人が少なくなかったが、男性「マン」が長銀社員を代表し、一般の勤労者を代表して使われていることに、何も感じてない人は多い。
人権に神経をつかって「差別語リスト」を作り、厳しく注意してきた日本のマスメディア内でも、まだ特別問題化していない用語のようである。つまり校閲のチェックにひっかからない言葉である。しかし、アメリカをはじめ国際的な「マン語追放」運動が広がって、「チェアマン」(議長)を「チェアパーソン」に、「オンブズマン」まで「オンブズパーソン」に代えるような用語変革が進んでいる。日本でも共同通信が九一年、写真要員に女性を採用するに当たって「カメラマン」の職名を廃止し、「写真記者」としたように、「マン語」が通用しにくくなってきている現実が生まれている。
古代英語では「マン」が「人」全体を表現してきた歴史の影響もあるようだが、一七七六年の米独立宣言も、それを受け継いだ一七八九年の仏革命の人権宣言も、「人」は男性名詞だった。フランス革命の「人および市民の権利宣言」に対しては、当時すでに男女平等の立場から「女性および女性市民の権利宣言」も個人的に発表されたが、提言した女性オランプ・ドゥ・グージュは、革命政府と対立してギロチンの露と消えている。
一九四八年に国連が世界人権宣言を作った時も、議長になったエレノア・ルーズベルトの草案には「all men are created equal」と書かれ、インドの女性代表から異議が出て、「men」は「human beings」に書き換えられたという。これらのエピソードを知ると、近代市民革命は性差別のまま民主主義社会化を進めており、男性支配社会が生んだ用語をはじめ、無意識の性差別が今日まで温存されてきた背景の根深いことがわかる。
「時の人」の新聞記事などに典型的に見られるように、男性なら業績本意なのに、女性の場合には容姿・服装から子どもや夫、料理のことなど家庭関係に触れることが多いのも、報道の二重基準を示すもので、平等ではない。男女役割の固定化は、ドラマやCMでもなお日常化している。特別減税についての政府広報で「うちは四人家族、何に使うか迷っているの」とエプロン姿の女性タレントがいうのもそのひとつ。夫と妻に子ども二人が標準家族、家計をやりくりするのは妻、という形で男は仕事、女は家庭の観念を定着させる。
性の商品化については、ポルノの氾濫に対する批判が世界的に高まっているように、「わいせつの問題」から、子どもや女性の人権侵害として見直す動きが強まっている。商品広告に商品の機能と全く無関係な女性のビキニ姿などが「アイキャッチャー」(人目をひくためのもの)として使われているのも、今や問題視されている。
ジャーナリストは、昨日までの慣行を漫然と続けるマンネリズムが人権侵害を追認、加速していることを厳しく問い直すべき時である。差別に鈍感な日本社会の現実を反映しているに過ぎない、との弁明は許されない。
人権意識の質で取り上げるべきもうひとつの問題点は、人権に注意する結果が報道・論評に萎縮作用を起こし、ジャーナリズムとしてやるべきことをやらずに、安全運転と保身にばかり気を使うようになっている点である。人権尊重のガイドラインを作り人権研修を進めることが、まるで社会から批判を受けないよう防衛するためのメディアの保身策になってしまっている。「何々をしてはいけない」という後ろ向きの「べからず倫理」が横行し、「ジャーナリズムとして今やるべきことは何か」を追求する意欲が減退している。
ジャーナリズムの社会的役割は、第一に権力の監視であり、米欧では「ウオッチドッグ」=番犬と位置付けられている。その番犬が居眠りしていたり、権力者のペットになり下がってしまうのでは、プレスの存在価値は否定される。第二に環境への監視機能も、地球規模で重要性を強めている。第三には、社会正義の実現があげられる。えん罪や人権侵害の摘発はマスメディアにとって義務とさえいえる。第四に公共情報の正確迅速な伝達がある。社会の「知る権利」に応えるメディアの使命である。第五に議題設定も重要な任務である。社会がいま何をみんなで議論すべきかについて、当局者にリードされることなく、ジャーナリズムの見識で問題提起しなければ、世論は操作されてしまう。
以上の情報活動は公共性の強いものだが、さらに第六として、人びとの生活の質の向上に役立つべき私性の強い情報活動の役割りもある。娯楽から教養ものまで個人としての人間生活を豊かにするための情報提供である。
こういうジャーナリズムの役割を二の次にして、人権侵害のないことをジャーナリズムの目標のように位置づけるのは、本末転倒である。人権尊重はジャーナリズム活動の前提であって、目標であってはならない。ここ数年、マスメディア内の人権論議は、あまりに防衛的、消極的過ぎる。日常、積極的に権力と立ち向かい、前向きな人権報道をしているジャーナリストなら、時に用語などでフライングをすることがあっても、理解を得られるのではないか。社会の底辺の人権侵害を大胆に摘発すべきだし、私人の人権には細心の注意を払っても、公人の不正摘発にはもっと果敢に取り組むべきである。
人権をジャーナリズムの自由と対立する厄介者かのように考えるのは、事実誤認も甚だしい。権力と戦わず、社会の不正義に目をつぶり、やるべき事をサボる口実に「人権侵害しないため」というのでは、ジャーナリスト失格である。確かに人権侵害のないように注意する報道人は増えてきた。だが、同時にジャーナリストとしてのやるべきこと、できることをしないで、平穏無事な日々を過ごしている人間が増えているのでは、ジャーナリズムの退廃、堕落である。
後ろ向きの「べからず倫理」から前に進む「攻める倫理」へ、「守りの人権報道」から「攻めの人権報道」へマスメディア関係者は人権意識の質を転換しなければならない。社会の側もまた、ジャーナリズムに対して、人権侵害のないことを求める段階から、あるべき人権社会の実現にむけての理念追求と、そのための積極的な日常の努力を厳しく要求すべき時ではないかと思う。