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2003.10.29
講座・講演録
部落解放研究126号より
1999年2月28日発行

インターネットによる差別の扇動

浜田純一(東京大学社会情報研究所)

はじめに

  ここ数年の間に見られるインターネットの成長は、実に著しい。日本の状況を見た場合、インターネットに接続される国内のコンピュータ端末数は、一九九四年の約四万台が、九五年に一〇万台、九六年に二七万台、九七年には七三万台、そして九八年にはおよそ一〇〇万台と、急速な伸びを示している。インターネットの実際の利用者は、今日ではすでに一、〇〇〇万人に上るとする統計もあるが、こうした成長は、おおむね世界的な動向にも沿っている。

  このような状況は、人びとの表現の自由にとって、また社会の情報環境の高度化にとってきわめて歓迎すべきものである。ただ、同時に、そうした情報流通の拡大と容易さが、人権にとってきわめて深刻な害悪をもたらしている側面があることも、見逃せない。とくに、差別表現をめぐる領域においても、インターネットをはじめとするコンピュータ・ネットワークの利用が、きわめて悪質な事例を生み出しているケースがあり、早急に取り組みが必要な事態が生じている。ここでは、インターネットあるいはパソコン通信上で生じているいくつかの人権侵害の事例を取り上げながら、問題の現状と、対応の方向について、若干の考察を試みておきたい。

一 コンピュータ・ネットワークの社会的機能

  コンピュータ・ネットワークの世界で、いちはやくポピュラーになったのは、パソコン通信であった。日本国内では、パソコン通信の会員数は一九九〇年代に入って急速な伸びを示すようになり、一九九一年の統計では一一五万人であったのが、一九九八年には単純合計で八〇〇万人を越える状況になっている。パソコン通信では、メールのやりとりのほか、電子掲示板、会議室などのフォーラムでの書き込みやチャットによる議論、データベースの活用などが、可能である。

  これに対して、一九七〇年代から発展してきたインターネットは、最初は専用線による利用が中心であったために、利用者は、研究機関や企業などに限定されていたが、パソコン通信のプロバイダー(接続事業者)がインターネットへの接続サービスを提供するようになったことから、電話回線を経由することで、一般の人びとにもインターネットの利用が急速に普及することになった。

  そして、このインターネット上では、パソコン通信のようなメールのやりとりだけでなく、一種のテレビ会議機能や、しばしば「ホーム・ページ」という表現が用いられるWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)の機能が普及してきたことによって、インターネットは人びとにいっそう身近なものになってきた。この機能を提供しているWWWサーバの数は、この数年間で爆発的に増大しており、一九九八年には世界中で一〇〇万に達しているのではないかと推測される。

  かつては、このようなコンピュータ・ネットワークの利用は、専門家あるいは「おたく」の世界の現象であった。つまり、ごく限られた範囲の人びとだけが、きわめて専門的に、あるいはマニアックに、そうした機能を利用しているに過ぎなかった。そういう意味では、こうした新しいメディアの影響力は、比較的に限られたものであった。しかし、今日のように利用が一般化してくると、インターネット上で人権にかかわる問題が起きる場合には、社会全体で真剣に取り組むべき必要が生まれてくる。つまり、インターネットは、きわめて限られた情報空間における井戸端会議のようなものではなく、新聞や放送ほどではないにしても、公共的な性格をもつ身近なメディアに成長してきているということを、今日の問題を考える前提としておかなければならない。

二 いくつかの人権侵害例

 最初に、コンピュータ・ネットワーク上で行われた人権侵害的な表現について、いくつかの具体例を取り上げておきたい。

  一つは、パソコン通信上でおきた、名誉毀損事件である。これは、理屈として、インターネット上でも発生しうるものであるし、事件として表面化しないまでもこれに近い事例は潜在的には数多く存在するものと思われる。この事件は、ニフティ・サーブというパソコン通信ネットワーク上のフォーラム(電子会議室)への書き込みの内容をめぐり、事実無根の中傷で名誉を傷つけられたと主張する女性会員が、ネットワークを運営するプロバイダーであるニフティ・サーブと電子会議室の管理者(システムオペレーター=シスオペ)、そして書き込みをした会員、の三者を相手に、損害賠償を求めた事例である。その書き込みでは、この会員に対する中傷が繰り返されており、パソコン通信上で行われた名誉毀損が訴訟として本格的に争われた初めてのケースとして、注目を集めたものである。

  この裁判では、プロバイダーやシスオペは、かりに名誉毀損が成立しても、責任は書き込みをした会員が負うべきであり、パソコン通信のサービスを提供していたプロバイダーやシスオペにはない、という主張を行った。しかし、一九九七年五月に出された東京地方裁判所の判決は、結論として、プロバイダーや問題のフォーラムを管理していたシスオペにも責任があるという判断を示している。

  すなわち、書き込まれる発言内容の常時監視や積極的な探知といった重い作為義務をシスオペに負わせることは相当ではないとしつつ、名誉毀損的な発言が書き込まれていることを「具体的に知ったと認められる場合には、…必要な措置をとるべき条理上の作為義務があった」とし、また、ニフティ・サーブにも使用者責任を認めている。

  この判断が意味しているのは、まずは、あるパソコン通信の電子掲示板やフォーラムに名誉毀損的な表現が書き込まれた場合、それによってただちにプロバイダーの責任が問われるわけではない、ということである。プロバイダーは、パソコン通信で流される情報についてすべてチェックすることは、求められていない。

  しかし、他方で、誰かから「この書き込みは名誉を傷つけている」といった指摘があったとき、内容をきちんとチェックし、必要に応じて削除するなど、適切な対応をとらずにそのまま放置したような場合には、責任を問われることがある、という考え方でもある。これは、商業プロバイダーのケースであるが、たとえば、大学や企業などについてネットワークを管理する者の責任が問題になる場合にも、この論理が援用される可能性があると考えられる。

  また、プライバシー侵害の場面でも、コンピュータ・ネットワークは深刻な事例を提供している。一九九八年の夏に、神戸の連続児童殺傷事件で犯人とされた少年の名前や顔写真がインターネットを通じて流れたことは、大きな話題になった。少年事件の場合には、本人と推知できるような情報を報道してはならない旨の少年法六一条の規定が設けられているが、罰則がついていないこともあってか、報道機関の多くは自粛したにもかかわらず、インターネット上でこうした情報が瞬時に広く流通するという状況がもたらされた。また、いやがらせで女性の実名や電話番号を男性を誘う文章をつけて、ネットワーク上の伝言板や掲示板に掲載したというケースもある。

  プライバシー侵害の別の例では、差別事件の性格をあわせもつものとして、きわめて卑劣なケースがいくつか報告されており、その一つが、比較的最近に、朝日新聞(一九九八年一〇月一九日付朝刊)でも取り上げられている事例である。それは、ある人の家に突然、「俺はこのたび貴様が江戸時代における特殊部落民だという事実をつきとめた。この秘密を日本中に暴露宣伝されたくなければ、即金で五〇〇万円持って来い」という内容のハガキが送りつけられたという事件であり、そのハガキの追伸には、「『日本中に暴露』というのは誇張でも何でもない。インターネットを使えば日本中どころか世界中に貴様の暗い秘密を宣伝できるという事を忘れるな」と記されていたと伝えられる。

  たしかに、インターネットという道具を使えば、手書きや普通の印刷のようなメディアではできないほど、はるかに大規模に、人のプライバシーを暴き立てる情報を流すのが容易に可能であることは間違いない。この事例は、インターネットが、プライバシー侵害や悪質な差別など、人権侵害にきわめて深刻な形で悪用される可能性を示している。

 広い意味で人権にかかわる問題として、インターネット上の表現についてこれまで一般的によく話題にのぼってきたのは、性に関する有害表現である。インターネットは、家庭からでも自由にアクセスでき、また、誰でも簡単に情報を載せられるということもあって、青少年に有害な性表現やわいせつ表現物のやりとりに利用されるというケースが、世界的に見られるようになっており、それぞれの国で対応に苦慮している現状がある。わいせつ表現物の頒布などについては、インターネットであろうと印刷メディアであろうと、ただちに規制対象となる(刑法一七五条)わけで、すでに日本でもいくつか、インターネットによるわいせつ映像の頒布に関する有罪判決が出されている。

  比較的最近の警察庁の統計によれば、国内で個人的に開設されたホームページがほぼ四〇万あるうち、いわゆるアダルトホームページの数が約一万四千ということで相当の割合を占めており、こうしたホームページ上でわいせつ表現物を流したということで検挙される事例も急増している。検挙された被疑者の就業別内訳を見ると、会社員が半分近い数字を占め、さらに公務員・学生・主婦なども入っており、このことは、インターネットでは、家庭からも簡単に映像を送ることができ直接顔を合わせずに商売をすることが可能であるためごく普通の人でもこの種の営利行為を簡単に行いやすいということ、いわば違法行為を犯す心理的・物理的ハードルが低いということを意味しているといってよいであろう。

三 ネットワークの特性と被害の深刻さ

  これらの人権侵害の事例が共通して示しているのは、ネットワークが持っている特有の性格によって、通常のメディアによる以上に深刻な被害を、ネットワークが生み出す可能性があるということである。

  何より、インターネットやパソコン通信は、非常に広範な伝達力を有している。印刷物などで名誉毀損や差別的な表現がなされたときにも確かに重大な被害を与えるが、印刷物は、あくまで物理的に雑誌や図書が運ばれていかなければ伝わらないという性格のメディアである。これに対してインターネットは、電気通信のネットワークによって、一瞬にして世界中に情報を伝えることができるという、きわめて伝達力の強いメディアである。

  たとえばホームページは世界中に無数に存在するために、人権侵害的な情報を掲載しても簡単には人びとに伝わらないように見えるが、最近は、ネットワーク上の情報についての検索システムが非常に発達している。また、「リンク」という方法で、関連するテーマについてのホームページを連続的に参照することができるようになっている仕組みも、利便性の反面で、悪質な情報を広める手助けをしているものと考えられる。

  第二に、インターネットには、容易な発信という特性がある。インターネット上では、家庭からコンピュータを軽く操作するだけで、自分の伝えたい情報を自由に世界に向けて発信できるということは、誰でもが表現の自由を手軽に享受できるようになったという意味では、この自由の歴史の上で革命的なことである。しかし他方で、たまたまの思いつきや一時的な感情、不満のはけ口という形で、無責任な情報を発信することになる危険性も非常に高くなっている。

  たとえば、ある主張を行いたいためにビラを配るとかデモ行進をするという場合には、通常、表現に対する一種の覚悟ないしは確信のようなものが必要である。すなわち、何かを表現したいと考えるとき、実際にその思いを行動にうつすには、いろいろな物理的・精神的なバリアーを越えなければならない。そして、そうしたバリアーを越えるだけの覚悟が十分にできたときにはじめて情報を発信するというのが、これまでの表現のやり方であったが、インターネットの場合はそうしたバリアーが非常に低いということが指摘できるであろう。このような、表現に対する責任の軽さによって、興味本位の差別意識がネットワーク上で再生産されていく構造が、しばしば見受けられる。

  このバリアーの低さということにも関連して、さらにまた、インターネット上での表現についての事前チェックの困難性という問題がある。これは、ある表現に問題が含まれているときに、他人がどこかの段階でチェックするという仕組みが、インターネットやパソコン通信の場合には働かないということである。つまり、個人が書き込んで、自分がいいと思えばそれで表現を送ってしまい、一瞬後で冷静になって後悔しても、もうそれは取り消しができない、ということである。

  従来の新聞・雑誌や図書、あるいは放送などの伝統的なメディアであれば、ある表現が行われるまでに、複数の人で内容を検討するという仕組みが一応機能している。しかし、インターネットによる表現は、印刷メディアをしばしば凌駕するような強力な伝達力をもつにもかかわらず、そうしたチェック機能がほとんど働かないというのが、ごく一般的に見られる状態である。

 このほか、印刷メディアや放送メディアの場合は、基本的にプロの専門家によって表現内容が制作される。そこでは、いろいろな限界はあるにしても、プロフェッショナルとしての一定の責任感や倫理感、さらにいえば、あまり問題のある表現が多いと社会的批判によって売れ行きや広告収入に影響するという経営的な考慮もあって、自主的な規制が自然に働く余地がある。

  これに対して、ネットワーク上の表現においては、営利には関係のない趣味的な表現も多く、また、営利目的の場合も、マス・メディアのように大きな一般市場を必ずしも相手にしているわけではないために、そうした自主規制はきわめて働きにくい条件にある。

  ネットワークの三番目の特性としてあげられるのは、インターネットやパソコン通信の世界では、「表現の匿名性」が非常に強いということであろう。パソコン通信業界の中では、一種の自主規制として、実名でなければメールを送ったり書き込みをすることができないとしているケースもあるが、そうでないプロバイダーも少なくない。すぐ後に述べるように、発信者についても「通信の秘密」の保障が及ぶと考えられてきていることが、こうした匿名性が維持される背景になっている。

  また、インターネットの場合を考えると、あるコンピュータ端末から情報が送られたという、その機器の特定は比較的容易にできるとしても、企業や大学の中など、ひとつのコンピュータを複数の人間が使っている場合には、誰がその情報を流したかは特定できないケースもある。また、ネットワーク上での情報発信の痕跡を意図的に分からなくする技術も、コンピュータのマニアックな世界では比較的容易に用いられることがある。こうした匿名性というものが、ネットワーク上における人権侵害を増加させる大きな要因になっていることは、否定できないであろう。そこで、つぎに、この表現の匿名性という問題について、もう少し考えておくことにしたい。

四 表現の自由・通信の秘密との調整

  憲法二一条には表現の自由が保障されているが、その中に「通信の秘密は、これを侵してはならない」という規定も設けられている。さらにまた、電気通信事業法三条には「検閲の禁止」の規定があり、四条では、「電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密は、侵してはならない」とされている。

  この「通信の秘密」については、何より、通信の内容についての秘密ということはもちろんであるが、その趣旨としてはより広く、「通信について、その内容および通信にかかわる一切の事項を見聞したり、知りえたことを他に漏らすことを禁止することである」、と一般に理解されてきた(伊藤正己『憲法(第三版)』三二七頁)。そして、発信者の匿名性は、これまで通信の自由を確保する上で重要な意義を持つとして、「通信にかかわる一切の事項」の一部をなすと考えられ、実務上も、この匿名性を保護する運用・解釈が行われてきている。

  この考え方をそのまま延長していくと、パソコン通信やインターネット上でのメールや書き込みなどの場合にも、誰が発信しているかについて匿名性が守られなければならないという理屈になる。このため、プロバイダーは、これまで、パソコン通信で送られる情報によって名誉毀損など人権侵害の問題が起きた場合でも、情報発信者の名前を特定公表することについては、消極的な立場をとってきた。

  しかし、加害者が特定できなければ刑事的な訴追もできないし、損害賠償の裁判も提起できないという意味で、匿名性は責任追及の有効性の問題と密接に関連している。先に触れたニフティ・サーブの名誉毀損事件の際も、ニフティ・サーブが、名誉毀損とされる表現を書きこんだ会員の名前を被害者に対して教えなかったために、裁判による救済を求めるのに手間取ったという状況があったと伝えられる。こうしたことから、匿名性という問題は、インターネットと人権という問題の解決のあり方を考えていく場合、きわめて重要なポイントになる。

  こうした事情を考慮すれば、ネットワークの世界での表現には匿名をいっさい認めない、という極端な考え方もありうる。確かに、ネットワーク上の人権侵害を徹底的に排除するためには、表現の匿名性を否定することはきわめて有効であろう。ただ、この場合に表現の自由の保障の観点からも、十分な検討をくわえておかなければならない。

  この自由の保障ということを歴史的に考えてみた場合、表現の匿名性は、自由な表現を確保するために非常に重要な役割を果たしてきたからである。たとえば政府を批判しようという時に、常に実名でなければいけないということになれば、当然に表現を自粛するという結果をもたらすことが少なくないであろう。日本で戦前に制定されていた新聞紙法、出版法、さらに戦時体制の強化に伴って制定された不穏文書臨時取締法などは、表現の責任者(発行者、印刷者など)を明示させ、それによって責任追及を容易にすると同時に、出所のわからない、一種の怪文書が出回ることを未然に抑止しようとした法律であった。

  こうした仕組みを設けることによって、反政府的なあるいは社会の秩序を乱すような出版物や文書等が容易に流通することを押さえようとしたのである。日本の戦前に限らず、ヨーロッパでの表現の自由の歴史を見ても、表現の責任者の明示を求めることで、社会に流通する情報の内容に事実上の抑圧を加えることが行われてきた。

  このような歴史を考えると、表現をネットワークで行うときに常に実名でなければならないという規律を設けることは、ネットワーク上での自由な表現活動を抑制する危険を多分に含んでいる。また、この場合、いまの自分の職業や年齢、住んでいる地理的な場所、そういうことから離れて自由な発想と感覚でさまざまな人とコミュニケーションができるということも、ネットワーク上の情報流通の大きな特徴であることに、注意しなければならない。

  表現は実名でなければいけないということになると、そういう自由闊達さが奪われてしまう危険性もおおいにありうる。また、権力をもつ者に対する批判、あるいは社会的な問題について発言したり、社会に存在する不正義を告発するということが困難になるという問題も生じるであろう。したがって、ただ表現に実名を要求するということだけですべて解決がつくわけでなく、別の形の問題がここに生じてくるのであり、ネットワーク上における人権を守るための表現規制は、こうしたジレンマに常に伴われている。

  こうしたジレンマに対処する一つの方法は、ネットワーク上の情報流通の過程で重要な位置を占めるプロバイダーに、一定の役割を期待することである。

五 プロバイダーに対する規制の試み

  コンピュータ・ネットワークの世界では、プロバイダーが「ボトル・ネック」の位置を占めている。すなわち、インターネットやパソコン通信は、無数といっていいほど多くの人が利用しているため、誰がどこでどういう情報を発信しているのかをパソコン端末の部分で個々に掴まえることは、しばしば困難である。

  しかし、多くの人びとの間で流通する情報は、その流通の過程でプロバイダーのところでいったんまとまる形になるためにインターネット上の表現が人権侵害の問題を引き起こす状況に対処しようとする場合、このプロバイダーの部分に着目してコントロールを加えることが考えられるのである。

  こうした試みは、たとえば、アメリカで制定された通信品位法の規定やドイツのマルチメディア法の規定の中に見いだすことができる。日本でもさきに引いたニフティ・サーブ事件東京地裁判決の中でも、類似の考え方が示されていた。また、ネットワーク上の性的情報の流通に対して、最近、風俗営業法の改正で一定の規制が設けられるようになったが、その中でもプロバイダーに対する規制が盛り込まれている。

  すなわち「自動公衆送信装置設置者」、つまりプロバイダーは、その記録媒体に営利目的の事業者がわいせつな映像を記録したことを知ったときは、その送信を防止するため必要な措置を講ずるよう努めなければならない、とするものである(同法三一条の八第五項)。わいせつな映像がネットワーク上で送られるとき、その映像を送り出している人間を捕捉することは、時間も手間もかかる。そこで、そういう映像はいずれにしてもプロバイダーを通じて送られるから、そのプロバイダーのところでまずは押さえてしまおう、という考え方である。

  このように、プロバイダーの部分に着目した法規制が一部で動きはじめているが、プロバイダーの側でも自主規制によって、こうした規制の広がりに対応しようとする動きがみられる。たとえば、プロバイダーたちで構成されている電子ネットワーク協議会では、一九九六年二月に、「電子ネットワーク運営における倫理綱領」を作成した。

  そこでは、言論の自由、人権の尊重、公序良俗の尊重、著作権、名誉・プライバシーなどの人格権について配慮する、といった基本理念が掲げられており、それらを守るためにネットワークの管理・運営を徹底するという趣旨で、基本理念に反するような行為が行われた場合、ネットワークに加入している会員に対してどのような処置をとるのかなどについて規約を設定する、あるいは、問題がある情報が流された場合の対応窓口を明確化し管理体制を整備する、さらにまた、啓発活動を徹底するといった基本的な規律が定められている。そして、こうした基本方針を受けて、各プロバイダーにおいて、それぞれに会員規約が作られている。

  また、政府の側では、一九九七年一二月に郵政省の「電気通信サービスにおける情報流通ルールに関する研究会」が「インターネット上の情報流通ルール」についての報告書をまとめている。そこでは、インターネット上での違法・有害な情報の流通が社会的に問題視されるようになってきているという現状認識を語り、対応の方法について検討がなされているが、基本的には、すぐなにか新たな法的対応をとるよりは、プロバイダーによる自主的な対応にまずは期待するというスタンスでまとめられている。ここでもプロバイダーの役割が、問題解決の中心にすえられているのである。

 ただ、問題の本質的な解決のためには、やはり情報発信者そのものをいかに捕捉するかという課題を避けて通ることはできないであろう。それは、表現の匿名性という伝統を再検討することにつながってくる。

六 情報発信者の捕捉の試み

  情報発信者の捕捉という考え方は、ごく限られた範囲ではあるが、先に触れた風俗営業法改正の中にも示されている。すなわち、「映像送信型性風俗特殊営業」、つまりいわゆるアダルト映像を電気通信で伝達する営業であるが、こうした営業を営もうとする場合には、あらかじめ公安委員会に届出を義務づけることで、広告規制やわいせつ映像の送信規制、あるいは一八歳未満の者に対する営業禁止規制などの実効性の担保を図っている。

  たしかに、こうした一連の規制は、営業者に対する規制であって、個人の趣味による送信や海外からの送信に対しては、働かない。ただ、当面とりうる手法として、営業者という限られた範囲ながら、情報発信者の捕捉というアプローチがとられていることは、注目しておいてよいであろう。

  こうした対応は、伝統的な風俗営業規制の類推が可能であったからこそなしえたものであり、それをさらにすすめて、より一般的に情報発信者を捕捉しようとする試みは、匿名性の原則についての再検討という大きな課題につながってくる。この点は、さきに述べたように、憲法上の問題があると考えられるものの、最近は、こうした見直しに肯定的な議論も登場するようになっている(たとえば、多賀谷一照『行政とマルチメディアの法理論』一八九頁以下、を参照)。

  また、さきに触れた郵政省の「電気通信サービスにおける情報流通ルールに関する研究会」報告書の中でも、「発信者情報開示(匿名性の制限)の検討」という項目が掲げられており、ここでは、「公然性を有する通信においては、通信の秘密として保護すべき利益と当該通信によって被害を受けた者の救済の利益との比較衡量により、一定の要件の下で適正な手続きに従って発信者を特定する情報を開示することを可能とする手段を設けることを検討すべきである。一対一の通信においても、一定の場合には同様に開示が認められる余地があり、そのための要件や手続きを検討すべきである」という考え方が示されていた。

  こうした動向を背景として、一九九八年一一月に出された、同じく郵政省の「情報通信の不適正利用と苦情対応の在り方に関する研究会」による「電気通信サービスの不適正利用に係る発信者情報の開示についての考え方」においては、匿名性の制限がより具体的な形で示されている。すなわち、そこでは、電気通信事業者などとは別に公正・中立な第三者機関である「不適正利用対策機関」を設置するものとし、ネットワーク上で名誉毀損など権利利益の侵害が発生した場合には、被害者からの申立てに応じ、適正な手続きを経て被害者に発信者情報を開示する制度が検討されている。

  この提案は、被害の認定などに一定の困難が予想され、また、憲法上の議論をなお煮詰める必要があるとは考えられるものの、従来の形式的・一律的な匿名性保護の考え方に大きな修正をくわえるものであり、ネットワーク上の違法な表現に対する責任追及とその予防に、有効に働く可能性をもつものと考えられる。

七 差別表現に対する対応

  以上のような考察を前提におきながら、インターネットにおける差別表現の問題について考えておきたい。

  差別表現と呼ばれるものは、大きく分けると、差別的な考え方を主張する場合、たとえば被差別部落の人たちや在日朝鮮人などを取り上げて侮辱的な発言を繰り返すというケースがひとつあり、もうひとつは、被差別部落の所在や被差別部落の出身であることなど、プライバシー侵害にも関わる情報を流すというケースがある(以下に取り上げる諸事例については、たとえば、「コンピュータネットワークと差別表現」を特集した、「部落解放」一九九八年一月号を参照)。

  いずれも、実質的に見れば、差別の扇動という効果をもちうるものであるが、ここでは一応の区別をしておくこととし、前者の差別の主張ということでみると、パケット通信やパソコンネットあるいはインターネットのニューズ・グループ、電子掲示板・伝言板などで、悪意にみちた主張の書き込みがしばしば登場している。たとえば、ある自治体の職員の名前を騙って、電子掲示板に差別的な書き込みをした事例があり、その内容は、生活保護者を誹謗し、「川筋だの炭坑上がりだの部落だの朝鮮だの」というかたちで侮辱をくわえているものであった。ここには、悪質な差別というものが、いろいろな種類の差別意識と基本でつながっていることが端的に示されていると同時に、ネットワーク上では、このように発信者の名前が騙られ、偽のメールアドレスが使用されるという深刻な問題の生じることが示されている。

  こうした場合の責任追及は、おそらく民事的な手法では、限界があろう。このほか、優生思想をベースに、障害者差別、部落差別、女性差別などの表現にみちた、「大和民族を守る会」を自称するホームページについて、部落解放同盟からの申し入れにより、プロバイダーによって削除された例などもある。

  また、後者の差別情報に関する事例では、さきに紹介したケースのほか、パケット通信や草の根パソコンネットの電子掲示板・伝言板に、「部落地名総鑑」のネットワーク版ともいえるようなデータが悪意で提供された事例がある。ネットワーク上の電子的なデータは、先に述べたように、入手が容易であるとともに、たとえば地名データをチェックする時に素早く検索ができるという点、また、データのコピーや頒布がきわめて簡便である点も大きな特徴である。こうした特徴は、被害を増大させる要因になりうるであろう。

  差別表現については、すでに従来から、なんらかの規制が必要ではないかとする議論が行われてきたが、ネットワーク上でそうした表現が行われることでより深刻な状況が生み出されている今日、現実をきちんと踏まえて改めてこの問題に取り組む必要がある。ネットワーク上の問題を考えるに先だって、差別表現の規制に関してこれまでどのような議論がなされてきたかを、簡単に整理しておきたい。

  議論のとっかかりとなるのは、日本も批准している人種差別撤廃条約の中の、四条a項(「人種的優越または憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の煽動、ならびにいかなる人種または皮膚の色もしくは民族的出身を異にする人びとの集団に対するあらゆる暴力行為またはこれらの行為の扇動、および人種差別に対する財政的援助を含むいかなる援助の供与も、法律によって処罰されるべき犯罪であることを宣言する」)、b項(「人種差別を助長し扇動する団体ならびに組織的宣伝活動およびその他あらゆる宣伝活動が違法であることを宣言しかつ禁止し、ならびにそれらの団体または活動への参加が法律によって処罰されるべき犯罪であることを認める」)である。

  日本は、表現の自由の保障との調整ということを理由にアメリカと同じく、このa項、b項の批准を留保しており、従って、条約のこの部分に関しては、そのまま国内法で受けて何か法律を制定しなければいけないということにはなっていない。しかし、それがもたらす被害の重大さから、従来より、差別表現に対しては、刑事罰をもってしてもなんらかの対応を取るべきではないかとする議論が行われてきた。実際、ヨーロッパの多くの国ぐにやカナダなどでは、このa項、b項に示されているような規制の仕組みが設けられている。

  たしかに、一言で「差別表現」といっても、いかなる内容の表現を処罰の対象として絞り込むかは、大変難しい問題である。この点を考慮して、差別表現規制を刑事罰を伴う形で設けるべきであるとする場合にも、漠然と差別表現を処罰するということではなく、「ことさら」になされる差別の煽動、あるいは差別の意図をもってする侮辱などに規制対象を限定して考えるという議論が、一般的に見られるものである。もっとも、この場合でも、刑事罰の対象とすべき悪質なものと、あえて刑事罰を加えるほどではないものとの線引きが難しい、という議論はありうる。

  たしかに、表現の自由に関わる規制については、漠然とした文言は表現活動に萎縮効果を生じるおそれをもつことから憲法違反であるとする考え方が学説上有力であり、線引きの明確性はとくに強く求められるものである。また、差別表現の本当の解決のためには、刑事罰を与えるよりはむしろ教育・啓発が必要であるという主張も見られる。さらに、刑事罰を設けたところで、罰則としては実際上、せいぜい罰金ぐらいにしかならない可能性が強いために、あえて刑事罰を設けても抑止力に限界があるのではないかとする議論もある(こうした議論については、内野正幸『差別的表現』が、詳しい検討を行っている)。

  ただ、まず、線引きが困難という議論については、少なくとも現在の日本の裁判所が採用している、この点についての判断基準のレベルを尺度にするならば、それほど説得力のある主張にはなりにくい。たとえば、公安条例でデモ行進の規制のための遵守事項として「交通秩序を維持すること」という定めがあり、その違反には罰則が課せられる例について、最高裁判所は、その義務内容が具体的でなく立法措置として著しく妥当を欠くとしながらも、「通常の判断能力を有する一般人」の理解において判断可能であるとして合憲性を認めた例がある(徳島市公安条例事件、最高裁昭和五〇年九月一〇日大法廷判決)。

  このほかにも、表現の自由にかかわる規制法規で、かなりあいまいな文言でも裁判所で合憲性を認められている例が少なからず存在する。こうした事例と比較した場合、差別表現の規制についてのみ、線引きが困難であるから認められないという議論は、説得性を欠くように思われる。また、抑止力の限界論にしても、たしかに結果は罰金程度ですむかもしれないにしても、刑事罰が加わるということの心理的効果、あるいは警察の関与を受けるということのもたらす抑止効果は十分大きいものがあろう。また、刑事手続きの中では、裁判所の令状を求めることが可能になるため、さきに匿名性に関して触れた問題もある程度の解決がなされうる可能性がある。

  こうした意味で、差別表現に対する規制を設けることが、ただちに表現の自由に反するとか、合理性を欠くとかといい切るには、躊躇すべきものがある。とくに、これまでのメディアと異なり、ネットワーク上で差別的な表現が流通する場合には、表現の容易さ、匿名性、流通する範囲の広さ、情報を入手することの容易さなど、すべて考え合わせたとき、やはり従来の表現形態以上に深刻な被害をもたらす可能性が高く、それゆえに規制の必要性は強いと考えられる。なかでも、早急な対応が必要と考えられ、また構成要件として絞りやすいのは、ネットワーク上での「差別情報」の流布であろう。

  たとえば、被差別部落の所在や人の出身地などの情報をネットワーク上で流す行為のもたらす被害は、取り返しのつかない深刻なものがあり、一般的な差別の主張より直接的で重大な被害を関係者に与える可能性が高い。また、加害行為の明白性、あえて表現を認めるべき利益が存在しないことの明確性といった点でも、規制の根拠づけはより容易であると思われる。これらの諸点を考慮するならば、差別情報をネットワーク上で流通させる者に対しては、刑事罰を課してでも効果的な抑制手段が必要であるという議論は、それなりに説得力を有しうるものと思われる。

  いうまでもなく、確信犯的な差別表現に対する責任追及には、事実上の限界も少なくない。そうした表現行為にあっては、海外のプロバイダーを利用することにより日本の法規制を免れようとしたり、ホームページのアドレスや利用するプロバイダーを頻繁に移動したり、偽名や架空IDの使用、さらには情報発信について自分のネットワーク上の利用の痕跡を消すという技術的テクニックも用いられることがある。

  しかし、国連でも「インターネット上の人種主義」への対応が真剣に議論されているところであり、こうした責任追及の事実上の困難さは、ここで人間の尊厳にとって、もっとも重要な価値が問題になっているということ、そして「インターネットによる差別の扇動」は、従来のメディアによる差別表現以上に重大な害悪をもたらすことを人類共通の認識として、確認しておくべき意義を否定する理由とはなり得ないであろう。