はじめに
本稿では、アジア・太平洋人権教育国際会議で学んだことをもとに、同和教育を振り返ってみたい。国際的にいえば、この数十年重要な位置を占めてきた概念は、パウロ・フレイレが唱えた「被抑圧者の教育学」である。人権教育国際会議が改めて打ち出したのは、「被抑圧者の教育学」を発展させた「人権教育学」という枠組みである。どのような意味でそう指摘することができるのか。そのことを参考に、部落差別撤廃のための教育をめぐる諸概念についても見直すことができる。考えてみたいのはこの点である。
部落差別をなくすための教育に関する概念検討も含むため、ここでは、部落差別撤廃教育という概念を使うことをあらかじめ述べておきたい。部落差別撤廃教育という概念は、これまで社会的に広く使われたことはない。その意味で何らかの文脈に引きずられずにすむ概念としてこれを用いる。いいかえれば、部落差別撤廃に関わる教育のさまざまな概念、同和教育、部落解放教育、解放教育、人権啓発、人権教育などを相対化するためである。
最初にアジア・太平洋人権教育国際会議を簡単に振り返り、そこで学んだ事柄を列挙する。その上で部落差別撤廃教育に関わる諸概念を検討したい。
1 ネットワークが財産
さる1998年11月25〜27日、大阪を中心にアジア・太平洋人権教育国際会議が開催された。私はこの会議に組織委員会事務局として参加し、多くのことを得た。会議の内容そのものについては別に詳しい報告書が出される(1)。そこで、ここでは私自身が得たことを中心にまとめておく。
最初に、会議の概要を述べておこう。この会議には、200人を超える人びとが集まった。そのうち海外からの参加者は、40人程度である。参加者が活動している国や地域をあげると、アジア・太平洋地域では、オーストラリア、バングラデシュ、カンボジア、中国、香港、インド、日本、韓国、マレーシア、モンゴル、ネパール、フィリピン、スリランカ、タイ、台湾、ベトナムである。アジア・太平洋地域以外では、アメリカ、イギリス、イタリア、オランダ、スーダン、スイスといった国ぐにになる。参加者の立場は、国連人権高等弁務官事務所をはじめ国際機関の代表のほか、国際成人教育評議会といったNGOの代表など、さまざまである。事務局は、NGOと大阪府・市の自治体との共同で担われた。私も事務局のメンバーとしてこの会議の準備と実施にあたった。
こういう国際会議は、会議の場そのもので何かが決定されるということも重要だ。特に政府代表など執行責任や執行能力がはっきりした団体が集まっている場合には、その点は無視できない。しかし、多くの場合、決定事項そのものよりも、会議での出会いを通じてネットワークが広がっていくのが最大の果実である。特に今回のように、政府代表が中心でない会議においてはその傾向が強くなる。その意味では、会議の場は議論を闘わせる場所でもあるが、同時に参加者が共同で何かを行ったという実践共同体としての性格をもつことが必要である。
今回の会議では、海外からの参加者は会議場での議論もさることながら、会議以外の場でさまざまに活動を行った。大阪での会議が始まる前に、東京での専門家会議を始め、日本国内各地で会議へのゲストを招いて集会がもたれた。大阪での会議期間中の11月26日午後には、海外からのゲストは大阪府内各地8カ所に散って、それぞれの場所でワークショップやパネルディスカッションを開いた。それ以外にも、大阪会議の一環として、八尾市(24日)、大阪市生野区(26日)、大阪市西成区(27日)でフィールドワークが行われた。海外からの参加者の多くは、「忙しい会議だった」といっていた。
2 部落解放教育と人権教育をめぐる羅針盤を求めて
はじめにも述べたように、会議全体のまとめは報告書に譲るとして、ここでは私なりに得たことを中心にまとめたい。会議開催にあたって、私は、人権教育をめぐるアジア・太平洋地域の動きに関する感触を得たかった。昨今、日本国内では、人権教育をめぐる動きや議論がかまびすしい。この議論はどの程度世界的な動きにかみ合っているのか。この点を確かめたかった。特に人権教育と同和教育との関係や、参加型学習をめぐる評価について、人権教育とは何なのか、参加型学習とは何なのか、その点が定かでないままに議論が重ねられているように思えてならなかったからである。
この会議を通して共通認識として確認できた事柄も多い。
- 同和教育の原則から普遍化した「人権侵害の現実から深く学ぶ」「教育と世界変革のための社会的活動とを結合する」という人権教育の原則は、ほぼ参加者全体の賛同を得た。今後、この項目を含む人権教育の原則を世界に向かって発信していくことになる。
- この間日本でしばしば説明に使われてきた、人権をめざす教育、人権としての教育、人権を通じての教育、人権についての教育、という枠組みは、決して浮き上がったものではなく、国際的にもそれで十分通用する枠組みであることを改めて確認できた。
- 被抑圧者の教育から出発した教育運動は、人権の執行に責任を持つ職業者への教育や、マジョリティ(差別する側という側面)への教育へと広がっている。これが「被抑圧者の教育学」から、「人権教育学」への発展、「解放教育」という枠組みから「人権教育」という枠組みに力点が変わっていく意味である。
- さらに、人権教育を単なる教育実践としてとらえるのではなく、国民教育という枠組みを超えて、世界中のNGOをはじめとする人びとが共通に展開できる戦略ととらえるべきだということが、確認された。世界の教育運動は、人権教育という枠組みを通じて国民教育というこれまでの枠を超えた世界変革の教育運動に取り組むのである。
- 以上の共通確認を具体化するために、それぞれの参加者が具体的なフォローアップの活動を展開する。採択された大阪宣言をその道具として最大限活用する。
他の点も含め、共通点は、会議で採択された大阪宣言に集約されている(2)。
しかし、会議では、時間の関係もあるが、整理された結論よりも、出された問題提起の方が多かった。そして、問題提起が一致点以上に重要かもしれない。議論の中から私が受けとめたおもな問題提起は次の通りである。
- 同和教育の同和とは、日本が東アジアを侵略するときに使った同化と同じ意味ではないのか(特に韓国では、二つの言葉は発音がまったく同じである)。なぜそのような言葉を現在も使っているのか。
- 儒教などの伝統と人権の思想とはどのように関係するのか。特に、義務や責任と人権との関係を儒教などとの関連を意識しながらまとめなおす必要がある。それに限らず、それぞれの地域における土着の文化や伝統と人権とはどのように関係するのかを整理すべきである。
- ひとつの問題に根ざした教育運動は、いかなる論理で、またいかなるプロセスを経て多様な問題に取り組む幅広い教育運動となっていくのか。たとえば、今回の会議だけでも、インドのカースト差別がアジア各地に広がっているという仮説が改めて浮かび上がったが、私たちの視野が広がることによって、つながりが明瞭になる面がある。それ以外にも、さまざまな論理がありうる。
- 人権教育が単なる法律の条項についての知識教育ではなく、人間としてのあり方全般に関わる教育、「内なる変容」を求める教育であるならば、人間観と法律的視点をどのようにつなぐのか。とりわけ、ヨーロッパ的個人主義を土台とする人間中心の人権に対する見方と、アジア的「間人間」主義にたって自然との調和を大切にする人権に対する見方をどのように関連づけるのか。
- 「私たちが正しい」という原則的な思いと、「他者への寛容」という非排除的な意識との関係はどのように整理されるのか。NGOの運動は、ときとして原理主義的になって「自分達のみが正しい」と思い込んでお互いに対立したり、分裂したりしてしまうことがある。平和や人権を唱える人びとがなぜそうなるのか。それを克服するためには何が必要なのか。
これら一つひとつについて議論を重ねるとすれば、それ自体が一つの会議として成立する。それほどにそれぞれが重要な論点であると思う(3)。
3 日本という国に縛られるのはなぜ?
会議が開かれる前、この国際会議のことを紹介したときに返ってきたのは、ほとんどの場合、消極的な返事だった。国際会議というと、英語でペラペラと難しいことを話し合うという印象が強いようで、自分達との関わりが見えてきにくいということなのだろう。私もそうだったから、この点はよく分かる。しかし、これはとてももったいない考え方だとも思う。自分の変化を振り返って、この点について考えを述べておきたい。一見この文章の主題と関係ないように思われるかもしれないが、私の中では深く関わっている。今の段階で関わりが分からないという方も、少しおつきあい願いたい。
私が初めて海外での国際会議に参加したのは、1990年の国際識字年であった。インドネシアで開かれたASPBAEの「識字と平和教育」をテーマとする会議に参加したのである。それまでは、まったく国際会議など参加したいとも思わなかった。英語ができないというのもあるが、それ以上に、国際会議に参加しても得るものなどないと思っていた。
ところが、参加してみて得たものはたくさんあった。正確にいえば、自分がいかに物事を分かっていなかったかということが分かったということだ。いまから振り返れば、インドネシアで随分恥ずかしいことをしていた(4)。
その一つは、マレーシアで環境問題に取り組むジョーという参加者からバッジをもらったことだ。「環境を守りましょう」と訴えるそのバッジを私はありがたくもらった。しかし、日本に帰ってからあれこれと本を読んでみると、マレーシアなどで伐採される材木の半分は日本に来ている。「自分の事しか考えていない」日本の企業や消費者が、マレーシアの森林伐採を促し、そこに住んでいた人びとを森から追い出しているのだ。本を読みながら赤面した。彼は、そのようなことを訴えたくてバッジをくれたのだろう。私は、日本に関する自画像が自分で描けていなかったことを痛感した。
もう一つ、この会議で得たのは参加型の方法論であった。私は、会議といえば堅苦しいものと思い込んでいた。ところがその会議では、オーストラリアから来ていたクロンビーという参加者が、会議の進め方についてあれこれと提案して、各所で参加を大切にする工夫が加えられた。彼と話をして、オーストラリアの研究集会の持ち方も知った。3日間ぐらいの集まりがあったら、最初に来賓あいさつなどはなく、まずお互いの自己紹介から始まる。3人ずつに分かれて、模造紙一枚をはさんでお互いの自己紹介をそれに書いていく。45分ほどの話し合いの後、模造紙を会場の周りに掲示してみんなで見て回る。そうすることによって、お互いが知り合いになっていく。そういうやり方を知ってから、日本での集会の持ち方に一層不満を抱くようになっていった。
新しく知った中には、戦争や日本の侵略に関することがらもあった。日本企業の現地での経済活動に関することがらもあった。ストリート・チルドレンの姿などから、インドネシアの「貧しさ」と「豊かさ」を痛感した。そして日本に対する期待の大きさも知った。
現地組織委員会事務局のメンバーであったヘラさんという学生が、私たちをあちこちに案内してくれた。彼女のおばさんは日本人で、日本のことも知っている。彼女は、インドネシアのものごとの進め方は形式的で嫌だといっていた。けれども、インドネシアという国そのものは好きそうだったし、イスラム教も熱心に守っているようだった。
帰りの飛行機では、いろんなことを考えた。何よりも痛感したのは、飛行機から見る海には国境などどこにもないということだ。それなのに、なぜ自分は日本という国に縛られてものごとを考えていたのか。これはとても不思議に思えた。誰かがつくったに違いない。日本という枠組みでつねにものごとを考える。自分にとって疑うこともなかったような枠組みが、疑う余地の大いにあるものだと分かった。
日本国内では言語が同じだというが、これは明治以後強力にそういう政策が推し進められたためだ。共通の文化があるというが、これも言語と同じだ。あれこれと考えれば考えるほど、日本という国に縛られている自分があほらしくなった。
インドネシアに行く前、私の発想は、「目の前に大きな問題があるというのに、それを抜きにして海外の問題に取り組むとは何事だ」というものだった。いま私の率直な発想は、「人権というのは、目の前の人の権利も、遠くの人の権利も同じだという考え方なのに、目の前のことしかしない、考えないという人には、人権という言葉を語る資格がない」というものに変わっている。
3 同和教育への問いかけ
今回の会議をへて、改めて考えるようになったことがらの一つは、「同和教育」という言葉である。同和教育とはもともとどういう意味なのか。戦後の教育実践の中でそれはどのような意味を込められてきたのか。現在までなぜ同和教育という言葉を使ってきたのか。こうした点について再考する必要を感じた。
「人権教育のための国連10年」が始まってから、同和教育と人権教育との関係がずいぶんと問われてきた。私も機会がある度にこの点について書き、必要に応じて話させていただいた。この会議をへて、もう一度考えてみるべきことがらが出てきたように思う。いわば政治的力学という観点から同和教育と人権教育の関係をとらえ直そうとすることである。そのために、かんたんに同和教育という言葉をめぐる歴史を振り返ってみよう(5)。
同和教育という言葉が初めて使われたのは、1941年である。戦争遂行にあたって、国内で差別をしている場合ではない。国内のみんなが仲良くしなければならない。そのような趣旨で同和という言葉が使われるに至ったのである。この文脈から分かるように、同和教育ということばは、戦争や侵略を背景に日本政府によって使われはじめた。最初に使ったのは、運動体ではない。人権教育国際会議への韓国からの参加者が、同和教育という用語と侵略との一体性を指摘したが、それはこの範囲では正しいといわなければならない。
第二次大戦後、部落解放運動に再び集まった人びとはこの同和教育に必ずしも共感的ではなかった。部落解放全国委員会は、「従来行われてきたいわゆる同和教育を徹底的に再編成し、人民解放の精神に基づく民主主義教育の徹底によって部落問題の解決を促進するような教育内容を取り入れしめることが必要である」と主張している。つまり、運動体は当時同和教育には懐疑的で、民主主義教育の徹底を求めていたのである。
各地で部落差別をなくすべく教育に取り組みはじめた人たちも、必ずしも同和教育という言葉を使っていたわけではない。使われていた概念は、高知では福祉教育、和歌山では責善教育、岡山では民主教育、神戸では愛護教育などであった。
その後、各地で相次いだ差別事件とそれに対する運動を背景に、1952年になって文部省は「同和教育について」という通達を出した。これが戦後政府が広く同和教育という用語を使った最初である。さらに、1953年になって、全国同和教育研究協議会が結成された。全国協議会の概念がなぜ同和教育になったか、用語について議論があったのかどうかは定かでない。当時の文献による限り、全国同和教育研究協議会結成については部落解放運動に集う人びとも賛同し、後押ししている。一方、このときには文部省からも視学官が参加し、集会であいさつをしている。文部省の動きと全国同和教育研究協議会の結成という二つの出来事が戦後の用語の基本的動向を決定する要因になった点に間違いはなかろう。
さらに1965年に内閣同和対策審議会答申が出され、そこでも同和教育という概念が提唱された。これによって同和教育という言葉が各地の行政の間に浸透していった。いわば、内閣同和対策審議会こそが同和教育という用語を行政に定着させた最大の要因である。
このような政府の動きに対して、部落解放同盟は、同和教育を否定する見解を解放新聞に出した。解放新聞は、1966年11月15日発行の第367号において「部落を解放する教育の呼び名について―『解放教育』に結集しよう」という記事を掲載した。その記事で同和教育を拒否する理由として上げられているのは次の三点である。すなわち第一に、「同和」という言葉は部落の青年を戦争にかり出すためにつくられた用語だということ、第二に、戦後民主主義的な同和教育が進められてきたが、最近同和教育の名の下に、その原則である「運動との結合」を否定し、差別の根元的原因から目をそらそうとする融和主義的な動きが強められてきたこと、第三に、そのような同和教育との区別を明確にするために、目的に即した名称を付けるべきだということである。とにかくその記事では、以後解放新聞からは同和教育という言葉は排除すると述べられている。
このような動きをへて、1960年代後半から1970年代にかけては、同和教育と解放教育が入り乱れた時期だったということができる。1970年代なかばから共産党が同和教育不要論を提唱し始め、事態はさらにややこしくなった。単純化してしまえば、部落解放同盟に連帯するラディカルな人びとの側からは解放教育が提唱され、共産党からは民主教育さえしていれば同和教育はいらないと、そもそも部落問題に関わる教育をすること自体に反対が唱えられる。そんな中で同和教育という言葉を維持しようとした人びとは、そのような政治的に厳しい状況を受けとめつつもそれに流されてしまわずに、多くの人が結集し続けるように努力したといってよいであろう。
1970年代には、共産党系の人びとが部落解放同盟から出ていった。解放運動のさらなる分裂である。日教組運動では社会党系の人びとと共産党系の人びととの内部対立が激化して落ち着いた議論ができなくなっていった。そのようなもとで全同教にもその影響は現れたが、教育行政関係者を引き止め、両方の立場の対立が組織内での対立になるのをできるだけ抑制しようとする努力で、全同教の分裂は起こらなかった。いわば同和教育という用語を用いつつ解放教育に近い原則を明確化することによって教育実践の内実を育みながら教育運動の統一を維持してきた。同和教育という用語が部落解放同盟に関わる人びとからも以前に比べれば共感を持って受けとめられるようになった背景には、この70年代における全同教の努力があった。
その後同和教育という用語の位置を変えるできごとが、80年代に起こった。人権啓発という用語の位置づけが強まったのである。そのきっかけは1984年の地域改善対策審議会意見具申「今後における啓発活動のあり方について」であった。啓発活動や人権啓発という言葉も行政がおもに使い始めた用語であったが、そこでは部落問題からさらに広げて活動に取り組むという意味合いが込められていた。しかし同時に、これは部落問題を避け同和という言葉を避けることを意図して使われたという評価があった。そのように評価する人びとは、今度は同和教育という言葉に一層共感を示すようになった。
正確に述べれば、人権教育や人権啓発という用語はそれ以前から使われていた。例えば豊中市では、1970年から人権教育推進委員協議会という組織が結成され、市民参加で成人の教育活動が展開されていた。また、1979年には、人権啓発推進大阪協議会が発足している。これらの取り組みは、部落解放運動の要請を受けて、行政と積極的な市民の協力によって生まれたものである。さきの地域改善協議会による意見具申は、そうした動きを受けて啓発活動の推進を謳いながらも、運動との区別を重視したのである。
1980年代後半になると、自治体によっては同和教育という言葉を避けて地域改善対策教育という言葉を使うところまで現れた。その用語のもとでは、部落解放運動と距離をとることが重視されていた。
このように80年代に入って行政の間に同和教育という言葉を避ける傾向が強まったことも関係して、部落解放運動と結んだ教育運動を進めようとする人びとは、同和教育という言葉を肯定する傾向を次第に強めた。
1995年になって人権教育10年が始まり、1997年7月には、政府が行動計画を発表した。それと前後して、1997年3月に同和対策事業の裏付けとなってきた法律が期限切れを迎えた。ここにいたって、同和教育をめぐる議論は新たな段階を迎えた。
部落差別の実態を受けとめた行政の人びとは、同和対策事業が終了しても部落問題への取り組みが何らかのかたちで継続できる方向を探った。一方、部落解放運動の側でも、一般対策の充実をはじめ、何らかのかたちで部落差別をなくすための施策の継続を求めた。両者が教育の面で一致したのが、「人権教育のための国連10年」について行動計画をつくり、そのもとで何らかの施策を実施することであったといえよう。
各地で行動計画策定の審議会が設置され、実際に10年の行動計画がつくられるもとで、議論はさらにややこしさを増した。人権教育推進という方向性の中にさまざまな流れが流れ込んでいるからである。一方には、運動との結合を大切にした同和教育を継承し、それを人権教育の中でさらに発展させようという人びとがいる。他方には、「人権教育10年」を機に、教育と運動の分離を主張し、気持ちのもちようで差別をなくそうとする教育活動の普及を狙う人びとがいる。
1960年代から1970年代であれば、教育と運動の結合を重視する人は解放教育という概念を用い、そうでない人は同和教育を用いていた。つまり、使う言葉が違えば立場が違った。しかし現在では、部落差別撤廃教育からさらに教育運動が幅広く発展することを期待する人も、部落差別撤廃教育を抑制したい人も、ともに同じ人権教育という概念を用いている。しかも、同和教育という概念は、1970年代以前に比べると信頼度を高めている。
現在同和教育と人権教育をめぐって行われている議論の背景には、こうした歴史がある。ていねいな歴史的整理は他日を期すとして、以上のかんたんな歴史から、同和教育をめぐって検討すべき点を列挙してみよう。
- 同和教育や同化教育は、いずれも戦争や侵略と結びついて産み出された言葉である。端的にいえば、両方とも日本という国を前提として、その枠組みにとらわれて展開されてきた。その意味では、国民教育という大きな枠組みのもとに存在してきたといってよい。同和教育は、部落差別撤廃に向けられた、政治的立場としては保守的な人びとも賛同しうる概念であった。戦後はこの概念が軸に据えられたために、多くの人が関わりやすかった。さらに、1960-70年代にかけて同和教育がラディカルな立場からも批判され、保守的な立場からも批判されるようになった頃に、同和教育運動が「差別の現実から深く学ぶ」や「教育と運動との結合」、「底辺の子どもを中心にした集団づくり」などの原則を明確化し、運動の統一を守っていったため、多くの人からの信頼感が増した。
- 部落解放教育という概念は、部落差別をなくすことを明確な目標とした概念である。この概念は、マルクス主義的な社会変革と結びついて提唱されたこともあって、賛同する人が限られた。さらに、共産党系の人びとが1970年代になってこれに反対を唱えた。部落解放教育は、国の枠を超えたマルクス主義という理論を土台としているが、部落問題という日本固有の問題に取り組むという意味で、日本という枠の中にあった。
- 解放教育という概念は、部落差別の撤廃から枠を広げて、障害者・在日朝鮮人・女性など国内の他の差別問題も取り込む、あらゆる差別と抑圧からの解放をめざす概念となった。そこで重視されたのは、被抑圧者・被差別者の立ち上がりである。国際的にはパウロ・フレイレが唱えた被抑圧者の教育学と重なる内容をもっていた。
- 人権啓発という概念は、解放教育と相対する概念である。つまり、解放教育が被差別者の主体的立ち上がりを促す教育的活動を意味してきたのに対して、人権啓発は被差別者以外の人びとに対する学習支援活動をさしてきた。解放教育や人権啓発という概念は、いずれも言葉そのものとしては部落問題に限られてはいないが、部落解放運動以外の運動が弱いもとで、実質的には部落問題に焦点を合わせて発展してきた。
- 人権教育という概念は、被抑圧者の教育という段階を超え、国民教育という枠組みを超える概念として打ち出された。そこでは人権というグローバルな基準に基づいて、被抑圧者だけではなく、市民全般や、人権の執行に責任の大きい職業者への教育や研修が位置づけられている。もしも日本の保守的な人びとも含めて人権教育という概念に賛同が得られるのであれば、人権教育という概念は、部落問題について同和教育が果たしてきた役割と似た役割を演じることが可能である。可能であるといっても、それはあくまで可能性であり、現実になるかどうかは、すべてこれからの展開にかかっている。
すでに述べたように、人権教育には、被差別者の教育、市民教育、職業人教育、などが含まれている。同和教育も、暗黙のうちにこれら三つの人びとを含んでいた。その意味では、同和教育は、被抑圧者の教育学から人権教育学へという変化を包摂しえた。
いまひとつ、同和教育の特徴として上げられたのは、国民教育という枠組みのなかにあるという点である。この国民教育という枠組みは、同和教育は自分だけでは乗り越えることが不可能であり、人権教育と結びつくことによって、漸くその枠を超えられるというべきである。
さらにもうひとつ、今後を考える上で重要なポイントがある。それは、同和教育が部落問題に焦点を合わせた概念だということである。これまで同和教育という概念を軸に据えてそれほど矛盾が広がらなかったのは、部落解放運動とそれに連帯する教育運動の勢力が強く、それ以外の勢力がさほど強くならなかったという点に原因の一端があろう。今後どのような概念が中心になっていくかを左右する大きな要因はこれであろう。つまり、部落解放運動以外の人権運動や人権教育運動がどれほど精力的に展開されるかということである。
そう考えれば、人権啓発や人権教育という概念に対してこれまで向けられた疑問や批判の理由が整理できる。そこでは一方で、人権といいながら部落問題ばかりが中心になっているという批判があり、他方で部落問題を避けるために人権という言葉が使われているという批判があったからである。もしも、部落問題以外の取り組みが部落解放運動や同和教育運動と連携しつつ発展しており、それに対してもしかるべく予算や人が投入されていれば、このような批判はなかったであろう。
状況は変わりつつある。男女平等教育や、外国人教育が、それなりに発展してきている。だとすれば、部落解放教育とそれらが並立する状況が生まれ、それにふさわしく概念が設定されるようになる可能性がある。
これからは、新しい関係が成立しうる。人権教育を軸として、大きな傘がある。傘の骨の一本一本は、部落解放教育であり、男女平等教育であり、外国人教育である。それぞれの教育は、解放教育、すなわち被抑圧者が立ち上がるための教育としては成立しうるが、それぞれについて抑圧する側の教育を展望するとき、個別問題教育ではしかるべく発展しにくい。傘が傘であるためには、布を張る必要がある。その布にあたるのが人権教育としての市民教育や職業人に対する人権研修である。こうして教育運動は傘として完成する。つまり、この傘は、全体を覆う教育戦略であり、それが人権教育戦略である。
ここでの問題は、いかにすれば部落差別撤廃をめざす教育が人権教育戦略とともに発展を保障されるかということである。同和教育という枠組みを堅持することがそれを保障することになるのか。それとも人権教育という枠の中に部落差別撤廃教育の課題を盛り込むことが、それを保障することになるのか。同和対策事業という枠組みが行政にない現状で、同和教育という名称を関した事業には人と予算を付けにくくなっている。そのもとでこれを考えるのはきわめて難しい。
一つだけはっきりいえることがある。部落差別撤廃教育が人権教育という国際的な戦略の枠組みに合流することによって、国民教育という枠組みに縛られない教育運動が可能になるだろうということである。そして、国民教育という枠組みを超えたとき、部落差別撤廃に向けた教育運動の新たなうねりが生まれるだろうということである。
5 「狭き世界を知りしとき、広き日本に生きよ」
インドから来たICAE代表のラリタ・ラムダスさんは、「部落解放運動は、教育に始まり、教育に終わる」というフレーズに共感を表明していた。また、部落問題について学んで、それがインドのカースト差別とよく似ていることを直感していた。皮革業や清掃業は、インドにおいても被差別カーストの仕事とされているという。数千年前からインドにあったヒンズー教が日本にも伝わって、部落差別の誕生に関わったのではないか。それが彼女の抱いた仮説である。ラリタ・ラムダスさんのように、部落解放運動に共感を示す人も少なからずいた。
たとえば、同じインドから来たバグワン・ダスさんは、インドの被差別カースト出身者として、以前から部落解放運動への連帯を表明している。ダスさんたちは、自らのことをダリットと呼ぶ。ダリットとは誇りや尊厳のことである。スリランカのニマルカ・フェルナンドさんは、反差別国際運動の理事長でもあり、当然ながら部落解放運動との強い絆を述べておられた。オーストラリアのアボリジニ、リリアン・ホルトさんは、日本における反差別の教育運動とぴったり重なる意見をたびたび述べていた。解放運動と部落解放教育への共感が参加者の間に広がったことは、主催した側としてありがたい点だった。
しかし、はじめに紹介したように、今回のアジア・太平洋人権教育国際会議では、同和教育をめぐってかみ合った議論ばかりができたわけではない。かみ合いにくかったのは、どちらかといえば東アジアの人との間であったように思う。このことは深く考えさせられた。東アジアには、日本による侵略の歴史がある。国内で反差別の運動が全面には出ていない。従来重要だった人権問題は差別よりも政治的弾圧であった。儒教の伝統が強い。何よりも、これまで部落解放運動が十分に連携をとれてこなかったところではないか。
このような課題をいかに克服していくのか。東アジアの人に分かりにくい原因と東日本の人にわかりにくい原因は似ているかもしれない。いずれにせよ、今回の会議における教訓の一つは、東アジアの人びととの連携が急務だということである。
昔見た映画にこういうセリフがあった。「狭き日本をいでて、広き世界に生きよ」こういう親の遺言にしたがった青年は、エジプトをはじめ世界へ飛びたった。そして世界を彷徨った後、最後にもう一つの親の遺言に出会った。それは、「狭き世界を知りしとき、広き日本に生きよ」というセリフである。
今回の会議を通じて、部落解放運動や部落解放教育にとって、世界に連帯できる人が数多くいることは改めて確認された。問題の一つは、人権教育という広い枠組みであったにもかかわらず、残念ながら日本からの参加者は非常に限られたということである。特に人権教育の研究をしている人の参加が弱かった。問題のもう一つは、さきに指摘したように、東アジアの人びととの連携が弱いのではないかということである。「狭き世界を知りしとき、広き日本に生きよ。広き東アジアに生きよ」このことを改めて考えてみたい。
注
- アジア・太平洋人権教育国際会議実行委員会編集・発行『21世紀に向けた人権教育の挑戦―世界人権宣言50周年記念 アジア・太平洋人権教育国際会議報告書』1999年
- 「大阪宣言」については本誌本号の資料を参照されたい。
- 会議で出された論点や人権教育戦略について詳しくは、森実「二一世紀に向けた人権教育戦略の挑戦―アジア・太平洋地域の危機と変革のときに―」(アジア・太平洋人権教育国際会議実行委員会編集・発行、前掲書所収)を参照されたい。
- このときのインドネシアでの経験については、森実「インドネシアに集う」(『解放教育』第268号、1990年12月、83〜96頁)で報告している。
- 同和教育概念の歴史を整理するにあたっては、部落解放研究所編『部落問題事典』(解放出版社、1986年)、全国同和教育研究協議会編集・発行『全同教30年史』(1983年)、元木健・村越末男編『「同和」教育論ノート』(解放出版社、1980年)などを参照した。