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2003.11.13
講座・講演録
部落解放研究126号(1999.02.28)より

イギリスの教育改革と
日本の「参加体験学習」についての若干の考察

堀久美子(英国国立レディング大学院生)

はじめに 鳥取県人権文化センター・研究員としての経験から

 鳥取県は、これまでの同和問題啓発の実践を生かしながら、人権への認識を高めるより全体的な方向性を模索し、また、行政的な縦割りのあり方を越えた柔軟で、さまざまな人びとの関わりを促す中核機関として、1997年、鳥取県人権文化センターを設立し、人権を自らのものとして考える力を育むための「参加体験学習」を導入している。

 「これまでどんな人権・同和研修を受けてこられましたか?」鳥取県人権文化センターが委託を受ける県職員、市町村職員などを対象とした研修で筆者がこれらの人びとに尋ねた際、「ビデオ(同和地区の結婚問題をテーマにしたものなど)を観て、感想を話し合った」、「講師の話を聞いた」というのが圧倒的な回答であった。県職員に対するこれらの研修は、年2回、各2-3時間が義務づけられており、「昨年はどんなことを学ばれましたか?」という問いにも、前述の感想と同じものか、「昨年ね……」と曖昧な声も聞かれた。公的職務を遂行するものとして、人権に関する理解は当然必要とされるのだが、曖昧な答えを彼らの個人的責任、非積極性のせいだと決めつけ、批判することはできない。従来の人権・同和研修が彼らに「差別はいけない」という知識・印象以外のものをあまり残していないとすれば、それは、今後の人権教育・啓発が考慮すべき重要な課題を含んでいるからである。

 これまでの人権啓発は、対処法的・画一的で内容や方法論への十分な考察を欠き、啓発を受ける個人の人権に対する認識や理解がどうであるのかということに耳を傾けないまま、「差別はいけない」というメッセージを伝達するのみに終始しがちであったことも事実なのである。

  近年、人権教育・啓発の場に積極的に導入されている「参加体験学習」は、鳥取県の「人権・同和研修」での実践においてもこれまでの知識を伝達する形式から、具体的な人権についての問題を受講者自身が考え、話し合う場への変化として受講者のアンケート調査結果から肯定的にとらえられているといえる(1)

 しかし、時間的・空間的制限がある中でこれらの研修が、議論はするものの納得のいかなさを残したまま終了したり、「目新しく、楽しいけれども何か曖昧」、「(厳しい差別の実態からの)現実逃避のゲーム」などの批判もなされる。これは本来このような学びのあり方が創り出されるベースとなった教育改革の思想が充分に理解されず、「参加体験学習」が単に輸入された一定の教授法としてのみ考えられることに一つの理由があるのではないだろうか。

 以下では、日本で導入されている「参加体験学習」がその多くのアイデアを得たといえるイギリスの教育改革を例に(2)、その思想的背景と長所・短所を踏まえ、今後の発展性について若干の考察を述べたい。

1 第二次世界大戦後のイギリス教育改革・歴史的背景

  1940年初頭、戦後を見越したイギリス政府は、よりよい社会の構築と安定のため、共和国制確立による対外的影響力の保持、そして「福祉国家」確立による戦前からの社会問題であった貧困・高失業率・劣悪な健康状態などの克服を政治的変革目標とする。当時の保守・労働党連立政権は、教育の拡大普及は福祉国家実現の重要な柱であると合意し、「1944年教育法」が制定され、全ての子どもに中等教育を保障した。教育内にも強く存在していた社会階層差を是正し、教育の機会均等化を進めるとともに、帝国主義・自民族中心的な偏見を取り除き、大きく変化した国際政情に合わせ多文化理解を深めるための教科内容の変革が始められる。

  その後70年代からの経済不況は、さまざまな社会的不安定要因の増加、特に若年層の失業率の高騰は人びとに未来への希望を失わせ、福祉国家をめざす政治の効力と利益に対し不信感をつのらせることになる。不況は80年代に入り一層深刻化し、79年の労働党から保守党サッチャー政権への移行を機に、政治は保守的で経済主導型の傾向へ、そして福祉施策の縮小と民営化推進による、「小さな国家」の時代を迎える。

   社会改革が叫ばれ、教育をとりまく環境も予算縮小により厳しさを増したこの時期、教育を「“良い”労働者」をつくる手段とすべきであるというものと(3)、社会改革のためにも国民の「政治的能力(4)」を高め、民主的社会の構成員としての自覚を持った個人を育むものとすべきである、との意見の分離がみられる。前者は施策レベルで、後に全国統一教育課程を定めた「一九八八年教育改革法」の制定による教育の画一化と能率化をはかろうとするが、後者は主に教育現場において、民主主義的過程を重視し、必要な知識と政治的技能を身につけた積極的な市民を育む政治教育の開発をはじめ(5)、社会とのつながりを意識したより総合的な教育改革を進めていく。

2 学習者中心の主体性を育む教育をめざして・思想的背景

 前項でみた複雑化する社会に対応し、その構成員の一人としてそのさまざまな側面に参加し、変化を促してゆく力を養うこと、すなわち、“民主的な社会を構成し、それを担う自覚を持った個人”を育むという目標を実現するために教育は、平和教育・国際理解教育・開発教育・環境教育・人権教育・そしてそれらを包括するものともいえるグローバル教育(6)、など多くの社会的課題を取り入れた学習を発展させていく。

 伝統的な教育が「教師が教えることを生徒は学ぶ」、どのような知識を伝達するかという指導者中心の教えであったのに対し、これらの改革的教育では、学習者を中心にその学びの過程が個人の主体性を育み、能力を引き出せるものであるかどうかという学習のあり方を重視する。これは社会的課題に対応し、よりよい未来を選択する判断力や思考力は、知識をただ与えられ、覚えることだけでは得られず、学びの場の主人公として積極的に学習に参加し、課題に対して模範的回答を求めるのではなく、まず自ら考え、探求し、その時点での自らの考えを組み立てていく体験を通して育まれるとされるためである。また、グローバル教育が主張するように「相互依存が高まる世界に生きる個人として、責任ある生き方をするのに不可欠な知識・技能・態度を身につけるための学習(7)」は、社会的事実と情報の選択や分析を含めた知識・自尊心や寛容性、協力などを表せる態度・人間関係や識別力、想像力をもち変動する社会に対応するための技能の三つのバランスを保った修得による全人格的な成長と、現実社会を知り、未来を考える「生きる力」を養うことをめざす。

 学習者主体の学びとその学びの過程―どんな方法で、そしてどんな環境・雰囲気のなかで学びが行われているか―が重要視されることは、それまでの伝統的な教育において主流であった知識の伝達という教え方がその言外にマイナス効果として伝えたもの(隠れたカリキュラムと呼ばれるもの)は、権威的であり、学習者にともすれば受け身的態度をもたらしたことに対する批判でもある。これらの新しい教育では、指導者は学びを促す人・ファシリテーターであり、学習は個人の自発的な好奇心や経験から課題を追求し、学びの前後における自己の内的変化、発見や気づきを確認する一連の過程そのものととらえられる。そしてこの学びは個々の学習者が自らと周囲の環境全体とのつながりを自覚し、自他の責任と権利を認め、協力的で肯定的な環境の中で最もよく達成されるのである。

 さらに、「学ぶ」という過程は常にとても個人的でユニークなものであり、画一的な教え方は、それぞれ一人ひとりのニーズや学びにそぐわないことがあることもこの新しい学習の中では考慮されることから、日本の人権教育に「参加体験学習」として導入されているようなさまざまな手法が(8)考え出されていく。伝統的教育で行われた知識量による学習の統一は、その中では測り得ない人間の多様な能力や潜在的可能性を無視する、人権を尊重しているとはいいがたい環境を創り出しかねないからである。さまざまな方法・アクティビティーの導入が、全ての学習者がそれぞれの個性を生かし、伸ばせる機会をできるだけ増やす要素である、いい換えると、方法そのものがこの教育のめざす、個性や自主性、自己肯定感を尊重し、民主的な他の人びととの関係や協力を重視する環境を大切にするといったものをよりよく伝える教育力をもつ、あるいはその目標達成のために不可欠なありかたなのである。

3 教育改革への批判と評価

 伝統的な伝達を中心とした知識重視の教育に対して、学習者主体の活動と経験による学びを志向する教育改革は盛り上がりを見せるが、1980年後半から、1で述べた教育の画一化をめざす政策的方針との乖離から批判が行われる。特にグローバル教育をはじめとした教育改革に対する批判として(9)、以下の5点が主として挙げられる。

  1. 複雑な社会問題や人権侵害など論議を呼ぶ課題について学ぶことにより、子どもたちにマイナスな事実を多く見せつけ悲嘆や虚無の感情をもたせ(自分には何もできない、どうしようもないなど)、人類史上のプラスな発展への言及が少なかったこと。または逆に、問題を単純化してとりあつかうことにより、その解決が現実よりもずっと易しいと思わせたり、“第三世界(至上)主義”などの偏った意識を持たせてしまう可能性があったこと。

  2. 世界へのつながりや相互依存性を重視するあまり、学習者の日常とかけ離れていると思わせる可能性があったこと。

  3. グローバル・世界的な視野や多様性を強く志向することにより、全体の相対化が行き過ぎ、問題解決能力の減少や問題の並列化を起こしやすくなったこと。

  4. “民主的・参加型”の手法により、その過程・プロセスの結論として、さらなる対立や納得のいかなさを残したまま学習が終了することがあること。また、学習過程は重視されるが、内容・知識の確実な修得への検討が足りないこと。

  5. 手法や目的は開発されたものの実施された後の成果に対する評価や調査がほとんどなされてこなかったこと。

 全体性への配慮や多様な問題を扱うことは、課題の過大・矮小化を招きやすく、また、参加・体験を中心とした個人の学びの過程への注目などによって、結果として現れる価値観の相対性は、問題解決能力の減少や次へのつながりを曖昧にしがちにする危険性は指摘されている通りである。しかし、これらの批判を留意しながら、方法的改善と発展を考えていくことが今後必要といえる。先に述べた1988年教育改革法(この法は教え方を限定していないため)以降の教育改革の影響に対する調査では、すでに現場に普及していた共同作業や課題学習などさまざまな参加体験的な手法を使った自主性をみいだす教育環境が、より体系だった知識の獲得と共存しているとのデータもだされている(10)

おわりに イギリス教育改革が日本の人権教育・人権啓発に示唆するもの

 既存の価値観や知識を伝達することに終始せず、それらを受信する側、すなわち学習者である個人が学ぶことを重視し、個人の自主性を養う教育のあり方としてイギリスの教育改革の中で育まれてきた参加体験的な学習は、これまでの「情報は豊か、けれども行動に乏しい(information rich, action poor(11)」という偏りを招きやすい従来の人権教育・啓発のあり方を再考する機会を与えたといえる。人権が尊重されるよりよい社会を築くという目標を達成するために人権教育は、全ての人が何を守り、何を変えていくべきかを考え、話し合えるような環境を提供するという役割も担う。そのためにも、「参加体験学習」といわれる学びのあり方が、日本の人権教育において目新しい教授法や一つの定型として使われるのではなく、人権問題を主体的にとらえ、状況の変革・問題解決に私達一人ひとりがむかっていく力を育むもの、そのために私たちが拠り所とする人権という概念をどのように、どんな方法によって自らのものにしていけるかを考える際に、この「参加体験学習」にみられる思想から得るところは多いと思われる。

 今後の「参加体験学習」による人権教育の発展を考える際には、これまでの同和問題学習を中心に行われてきた日本独自の人権教育の成果と課題整理を行うと同時に、人びとがこれから何を学んでいく必要があると考えているのかという「人びとの声を聴くこと」、そして、人権教育によって私たちがめざす社会とは、どんな姿であるのかを再確認することが、出発点の一つになると考えられる。

 これまでのように現状に対する批判やアンチテーゼとしての「差別はいけない」といったメッセージを伝達するだけでなく、人権に関する学びは、それらを通して社会の構成員である個人一人ひとりがどんな望ましい未来の社会を創っていけるのかを考える機会でもある。

 また、個々の「参加体験学習」の場がもたれた後、参加者全員による振り返りの時間を持ち、その学びの過程全体への配慮や周囲との協力はどうであったか、学びの前後における個人の価値観や知識・技能・態度といった内的変化、そしてそこで学ばれたことと今後の課題を明確にすることが大切である。これは学びをその場で終わるものではなく、現在進行形の過程としてとらえ、これからの課題を再確認するとともに、その学びの場の一員としての自分の権利と責任を意識し、自他の肯定感情を高め、常に周囲の環境と自身の関係や影響を考えられる態度を養うことである。さらに、これらの個々の学習の評価と同時に今後、人権教育の場において「参加体験学習」の導入がどのような効果を生み、影響があったかを客観的にみる調査も必要となってくることと思われる。

 現在、大阪市北区にあるNGO「地球市民教育センター」では、この「参加・体験型」学習などの導入・実施に対するアンケート調査が行われており、その分析結果が一つの指針となるものとして注目される。

 イギリスにおける人権教育のオピニオンリーダーであり、筆者の大学時代の恩師であるI・リスターは「人権について学ぶこと」・人権に関する知識の修得と「人権のために学ぶこと」・人権を守り、行動するための技能の修得と同時に「人権の尊重された環境の中で学ぶこと」・人権を尊重する態度を重視し、体系的なアプローチの必要性を指摘している。日本の人権教育および人権啓発がその学習のあり方そのものの枠組みを再考し、より包括的な取り組みを進めていくためにこの「参加体験学習」の導入が一つの手がかりとなっていくことが今後期待される。


参考文献

  • Dufore, B. (ed.). (1990). The New Social Curriculum. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Lister, I. (1986). Human Rights: A Case for Political Education. Conference Paper. York: University of York.
  • Pike, G. & Selby, D. (1988). Global Teacher, Global Learner. London: Hodder and Stroughton.


  1. アンケートでは、研修内容・進め方への評価、こういった形の研修への今後の参加希望、そしてどんな人権に関する分野に関心があるのか等を尋ねている(この集計結果は研修単位ごとに受講者に返され、一つの学習構成の一応の終了としている)。平成10年度11月までに行った研修のアンケートによると、「参加・体験型学習」による研修の参加希望の有無の質問に対し(回答数1,929)として、「参加したい」約21%(275)、「どちらかといえば参加したい」約60%(796)、「どちらかといえば参加したくない」約16%(217)、「参加したくない」約1%(18)、無記入約1%(13)という結果が出ている。

  2. 国際理解教育・資料センター編訳(1991)『ワールド・スタディーズ 学びかた・教えかたハンドブック』めこん、などが代表的なものといえる。
     なお「参加体験学習」の考え出されてきた経緯は教育分野の中でもジョン・デューイの「ラボラトリースクール(実験学校)」における既存の知識記憶ではない実作業から学習者が主体的に知識を得るというものや、パウロ・フレイレの「対話学習」における非抑圧者の抑圧的状況の意識化を対話を通じて、主体的に気づき、社会変革の力に繋げていくというものをはじめ、その源流と見られるものは多い。本来はその取り入れられた経緯全般を外観すべきところであるが、紙面の都合上、本論文では特にイギリスでの動きとそこからの影響に限定する。

  3. これは当時の日本や韓国の経済発展の理由の一つが知識重視の画一的教育にあると見られたことが一つの要因とされている。「東をみよ(Look East)」というかけ声で、低迷する経済打破の一環として、教育は自主的市民よりも一定能力を持つ労働者を育てることに貢献することが期待された。この時期その「東」である日本が画一的教育のもたらしたさまざまな弊害への反省から個性を養う教育を模索し始めていたという動きは皮肉ともいえる。

  4. ここにおける「政治的能力」とは、国政だけでなく広く学校・社会集団・日常生活などさまざまなレベルにおける人びとの活動と決定過程への主体的で民主的な参加を促すものと考えられる。

  5. Lister, I. (1987) Global and International Approaches in Political Education. in Harber, C. (ed.) Political Education in Britain. The Falmar Press: London

  6. グローバル教育とその先駆であるワールドスタディーズの発展過程・理論・教科内容については、1990年半ばにヨーク大学国際グローバル教育センターで助手として活躍した岡崎裕氏の三論文:岡崎裕・中川喜代子、「ワールドスタディーズと人権教育」『奈良教育大学紀要』第43巻 第1号、1994年:岡崎裕、「英国における国際教育の理論――World Studiesの目標・内容・方法」『国際理解』第26号、1995年:岡崎裕、「ワールドスタディーズの成立と展開――イギリスにおける国際教育小史」『国際理解教育』創刊号、国際理解教育学会、1995年にその詳細にわたる紹介と考察がなされている。
       また、同センターに客員研究員として活躍された大津和子氏もグローバル教育の枠組みを体系的にまとめている:大津和子、「地球市民を育てるために――新しい開発教育としてのグローバル教育」、『新しい開発教育の進め方』9-30頁

  7. Fisher, S. & Hicks, D. (1985). World Studies 8-13: A Teacher's Handbook. Essex: Oliver & Body. p24.

  8. 手法の類型に関しては大阪府同和教育研究協議会編『わたし・出逢い・発見』1996年、『わたし・出逢い・発見パート2』1998年、また岡崎裕、「国際理解教育における参加型学習方式に関する考察」『国際理解』29号、1998年、帝塚山学院大学国際理解研究所などを参照。

  9. ワールド・スタディーズ、グローバル教育をはじめとする新しい教育に関する批判の主なものとして、Mullard, C. (1982). The Problem of World Studies in a Multicultural Society. World Studies Journal, Vol.4, No.1: 13-18.
     Scruton, R. (1985). World Studies: Education or Indoctrination?. London: Institute for European Defence & Strategic Stadies.などがある。
       マルクス主義・第三世界至上主義などの刷り込みであり、教育に政治思想を持ち込むべきでない、などの彼らの批判に対し、グローバル教育の主たる提唱者、G・パイクとD・セルビーは、彼らの思想的保守性、伝統的教育のあり方という一つの思想の押しつけ、調査のあり方の一面性を指摘し、反論を試みている:Pike, G. & Selby, D. (1986). Scrutinizing Scruton. World Studies Documentation Service. York: University of York.

  10. Vulliamy, G. & Webb, R. (1993). Progressive Education and the National Curriculum: findings from a global education research project. Educational Review: Vol. 45, No.1, 21-41.

  11. Starkey, H. (1991) Preface to Part 1, in Starkey, H. (ed.). (1991). The Challenge of Human Rights Education. Council of Europe: London: Cassel. p. 16.

*2003年11月現在、堀さんは財団法人 人権教育啓発推進センターに所属されています。