国際人権規約のこれまで
1948年12月10日に世界人権宣言が国連で採択され、66年12月16日に経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(以下、社会権規約)と市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下、自由権規約)と自由権規約選択議定書が採択されました。
そしてその10年後の76年1月3日に社会権規約、3月23日に自由権規約と自由権規約選択議定書が発効し、それを受けて同日に大阪で国際人権規約発効記念講演会が開かれたところから日本での国際人権規約批准推進運動が本格的に始まりました。そしてその後、78年5月30日に日本政府は社会権規約と自由権規約に署名し、79年6月6日国会承認、同21日批准書寄託、8月4日の公布を受けて、9月21日に日本国内で両規約が発効しました。
更に89年12月15日には、自由権規約第2選択議定書(死刑禁止議定書)が国連で採択され、91年7月11日に発効しました。これにより現在の締約国は社会権規約149、自由権規約152、自由権規約選択議定書104、第2選択議定書52となっており、日本はどちらの選択議定書も批准していない状況です。
憲法と国際人権規約との関係
そもそも日本でどのように条約が締結されるかについては憲法に規定されている通り、内閣に条約締結権があります。そして憲法は外交関係の処理に関する権限も内閣の権限として認めています。つまり条約と一言で言っても、一般に条約の締結といわれるような内閣に締結権の認められている条約と、外交関係の処理として結ばれる条約の2種類があります。
前者の条約がどういうものかというと、それは即ち国会の承認を必要とするものです。いくら条約締結権が内閣に認められているとはいえ、立法権を有する国会の権限を侵害することはできません。そのため国際人権規約もまさにそうですが、国会の立法権に関わり、内容が直接国民の権利義務に関係する条約は国会での承認が必要となっています。また国の財政権に関する内容を含む条約、あるいは政治的に重要また重大な意味を持つ条約も国民の代表である国会の承認が必要とされています。名称はどうであれ、この3点が内閣に締結権が認められた国会の承認を必要とする条約です。
一方、先の3点に当てはまらない条約は外交上の処理として、内閣が国会の承認を得ずに単独で締結しています。従って人権に関する条約は全て国会の承認を得なければならないということになります。
では国会での承認といっても何を承認するのでしょうか。具体的には条約を政府が翻訳した公定訳と呼ばれるものと正文(日本の場合は英文)が国会に提出され、場合によっては日本語訳が間違っていないかが議論されることもありますが、主として公定訳を見ながら条約の締結を承認するかどうかについて議論することになります。
しかし裁判で国際人権規約を根拠に争う場合に、公定訳ではない別の日本語訳が提出されることもあります。なぜなら過去に政治的な問題から公定訳が替えられたことからも分かるように、内容の解釈によってあえて「誤訳」することがあるからです。国連の人権委員会では英語の正文を基に英語で議論されているのに対して、私たちは、翻訳された文章を基に日本語で議論しています。しかし本来は正文を議論するべきであって、この違いによってごまかされないように注意することが重要です。そしてこれが条約の国会承認における問題の1つだといえます。
条約の正文と日本語訳とのズレ
日本は1978年に社会権規約と自由権規約に署名(調印)していますが、日本が条約に署名するときにはどういうことがなされているのでしょうか。政府が条約に署名するということは批准することへの意思表示であって、その時点で関係機関とのおおよその調整はでき、批准のめどが立った段階であるといえます。条約は、外務省が主要な官庁として作業や調整を行っていくのですが、その間に内閣法制局と翻訳についてのやり取りも行っています。つまり内閣法制局との協議によって、日本の法制の中での訳(言葉)が決められていくのです。しかしここで両者の間にズレが生じてしまっており、それは語学的なミスというよりも意図的にズレの生じる表現を選んでいるという問題があります。
例えば社会権規約は第8条で労働権を規定しているのですが、その(2)の部分が公定訳では
「この条の規定は、軍隊若しくは警察の構成員又は公務員による1の権利の行使について合法的な制限を課することを妨げるものではない」
と書かれていますが、この訳が正しいのかという問題があります。このように「公務員」という枠でくくってしまえば全ての公務員が含まれてしまうわけですが、正文にある英語の意味からすると一般職も含めた全ての公務員の権利を縛るのではなくて、いわゆる幹部が意味されているのです。恐らくこれは日本の法制の建前の中で公務員全体に網を掛けるためにこの訳が採用されたのでしょう。
日本政府の3つの留保と1つの解釈宣言
また日本は条約の署名に際して3つの留保と1つの解釈宣言を附しています。例えば解釈宣言では
「日本国政府は、結社の自由及び団結権の保護に関する条約の批准に際し同条約第9条にいう『警察』には日本国の消防が含まれると解する旨の立場をとったことを想起し、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約第8条2及び市民的及び政治的権利に関する国際規約第22条2にいう『警察の構成員』には日本国の消防職員が含まれると解釈するものであることを宣言する」
としています。これはかつてILO条約の批准に際して大変不評だった「消防職員を警察に含む」という解釈宣言との整合性を持たせるために社会権規約でも同様の解釈を示していて、これは解釈という名の留保と言えるかもしれません。
このような条約とそれ以前からの法制との整合性の問題に関しては、条約に合わせた新たな国内法の制定や改正、条約そのものを法律として扱うという方法が取られます。あるいは条約と国内法の間に明白な矛盾はなくても将来には抵触する恐れがあり、それが非常に多岐に渡っている場合には一旦条約を批准して、後は国内の発展に任せるという方法も取られています。実は国際人権規約の場合がこれに当たるのです。つまりこの25年間、国際人権規約に関して国内法の手当てを行ってこなかったので、この間の発展がどうであったのかについての議論は非常に大きくまた重要です。そこで1988年に国際人権法学会が設立され、憲法や条約の中の人権規定が豊かになるような学際的な人権に関する議論、あるいは国際人権に関する訴訟をバックアップする議論などが行われるようになってきたのです。
日本政府の委員会審査への対応
さて次に委員会による国別報告の審査についてですが、社会権・自由権の両委員会とも日本への最終見解で肯定的な側面と、懸念すべき事項・勧告を示していて、それに対して日本政府も意見を表明することが認められています。委員会による「社会権規約日本政府の第2回審査報告(1998年6月)」の最終見解に対して日本政府は、「先のILO条約の労働権云々について、日本は留保・解釈宣言を附しているのだから条約法上正しい」と主張しています。また社会権規約第7条(d)に規定される「公の休日についての報酬」に拘束されない権利、同第8条(d)に規定される同盟罷業をする権利(国内法で保障された部分は除く)等を留保していますが、「批准に際して留保しているのだからそれについて委員会がとやかく言うのはおかしい」と日本政府は主張しています。
確かに国際法上、日本政府の主張は正しいといえるでしょう。しかし法的にはそうですが、その上で委員会は規約の趣旨を国内で実現する方向を取るように政府に求めているのです。これに対して日本の国会でも留保をやめる決議も出されていますが、それは国内の運動を慰める程度のもので実質的な効果は現時点では現れていません。ですから今後NGOはこれらの点を追求していくべきだと思います。
同様の議論のすれ違いは他にもあります。自由権規約は第6条で「1.すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される。何人も、恣意的にその生命を奪われない。2.死刑を廃止していない国においては、死刑は、犯罪が行われた時に効力を有しており、かつ、この規約の規定及び集団殺害犯罪の防止及び処罰に関する条約の規定に抵触しない法律により、最も重大な犯罪についてのみ科することができる。この刑罰は、権限のある裁判所が言い渡した確定判決によってのみ執行することができる」と規定しています。
これを基に委員会は、日本政府に対して条約は死刑廃止の方向を示しており、死刑を摘要する犯罪を減らすよう勧告しているのです。これに対して政府は世論が死刑を認めているという統計数字で対応しています。しかし委員会はこの分野における政府の役割として、世論によって政府が動かされるのではなく世論を形成する役割があるとしています。従って日本は規約を批准しているのだから第6条の精神も受け入れており、そのため日本政府は死刑廃止に世論・政治を向けていく条約上の義務があると主張しています。このように日本政府は両規約に批准してからの25年間に法律を制定してこなかっただけでなく、規約人権委員会が両規約の示す方向性の実現を指摘しているのに対して、法律論や逆方向にある世論をもって対応してきたのです。
最終見解と一般的意見の性質
委員会の最終見解には法的な拘束力はありません。しかしその法的性質をどう捉えるのかということは、この条約をどう捉えるのかということに通じるといえるでしょう。例えば社会権規約は第2条で締約国の義務として
「立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成するため、自国における利用可能な手段を最大限に用いることにより、個々に又は国際的な援助及び協力、特に、経済上及び技術上の援助及び協力を通じて、行動をとることを約束する」
と規定し、その方向性を示しています。自由権規約でも同じく第2条でその方向性は示されています。確かに最終見解そのものに法的拘束力はありませんが、これらのような法的拘束力を有する条約上の義務に対応して指摘しているのですから、規約の第2条を根拠に委員会の最終見解にも法的拘束力があるといえるのではないでしょうか。
また国別審査の際に委員会から出される一般的意見については法的拘束力の有無を問うべき性質ではありません。ただ一般的意見とは委員会での議論によって出された見解であって、これを根拠にして様々な事柄が委員会で決定されています。従って人権委員会の公的見解であり、広い意味での判例になりつつあるといえるでしょう。つまり条約の解釈権限は各締約国にあるわけですが、決して無条件に解釈して良いわけではなく、条約の方向性に即したものでなければならないのです。例えば裁判所が言うように日本国憲法が全ての人権をカバーしているとしても、規約委員会の考え方はその内容を豊富にしているのだから、最高裁はその考えに沿って判例を変更すべきだということです。ですからこの一般的意見は各国の裁判所が条約を解釈する際の最低限のガイドラインになるといえます。
質疑応答
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