「個人依頼の99%が部落民かどうかの調査だった」と
一冊3万円でと大企業にダイレクトメール
「部落地名総鑑」の存在が明らかになったのは、1975年のことだ。大阪府連に送られてきた匿名の手紙によってその存在が明らかになった。
企業防衛懇話会(理事長・京極公大)なるものが、企業の人事担当者に「特殊部落の所在地(全国五六〇〇部落)」の「旧市町村名→新市町村名、部落の大字名、部落の小字名、部落毎の世帯戸数、従事職業」を書いた『人事・特殊部落地名総鑑』を特別頒布価格3万円で送付する、というダイレクトメールを送りつけてきたのである。
ダイレクトメールには、戸籍の公開制限は「国民の得られる利益を甚だしく失わせるもの」であり、「これらの人々(部落民のこと−引用者注)の採用が果たして妥当であるかどうかということは、封建時代のイデオロギーとして残されたものであり問題ではないとすますことが出来るでしょうか」と公然と部落差別を煽った。
また、当時の八鹿高校闘争をあげ、「リンチ事件が発生して社会的な問題となっています」と反部落民感情を煽り立てている。
中央本部では府連とともに事実関係を究明しながら、<1>就職の機会均等を奪い、採用から排除<2>差別意識を利用した営利目的であり、大企業を中心に販売している点も許しがたいことを指摘し、行政責任の明確化と就職の機会均等の保障▽企業防衛懇話会への糾弾▽購入企業の明確化と企業の差別性の追及を求める声明を75年12月に出した。
各地で糾弾闘争がすすめられるが、このなかで「差別はなくなりつつある」という日共=「全解連」の主張に反対し、水平社創立メンバーの1人である阪本清一郎さんが大阪での糾弾会に参加。「悪質な差別文書を購入した企業の責任は重大である」と企業責任を追及した。
こうしたなかで、新左翼組織の逮捕者3000人の名前、本籍、生年月日と部落の所在地をセットにした第3の「地名総鑑」の存在も明らかになった。
77年3月には、購入企業103社を集め中央糾弾会ももたれた。また、77年5月の「地名総鑑」発行者への確認会で、Tはつぎのように興信所の実態を明らかにした。
Tは1941年に岡山工兵隊に入隊。人事係の助手をした。軍隊では入隊者名簿に筆の頭で丸印をつけ、一目で部落民だとわかるようにしていた。丸印をつけられた部落兵士は無条件に、装工兵に組み込まれ、皮靴、スリッパ、バンド、弾入れなどの皮革製品の修理をさせられた、など軍隊での差別の実態が語られた。
そして、65年頃始めた興信所では、個人依頼の99%が相手が部落民かどうかの調査だ、とのべた。「血が交じると困るので、それだけをとくに念入りに調べてくれ」「チョット違うかどうか」とか「最近やかましくいってるあの方じゃないか、調べてくれ」などといってくる、という。そのさいには、戸籍を3代前までさかのぼって調べた、と答えた。
企業の依頼は信用調査と人事調査に大別できる。人事調査では企業の大半が新規採用者の身元調査を複数の興信所を使ってやっている。主眼は、新規採用者が部落出身かどうか。幹部に採用するさいには、1年ほど前から5社くらいの興信所を使って徹底的に身元調査を、再度おこなうのが通例。
Tは「地名総鑑」の基礎資料には「労働問題研究所」から入手した資料をもとにした。資料は旧住所しか印刷していなかったので、国会図書館の地図や町村合併の記録などを利用して作成した、ことを明らかにした。
地名総鑑の購入企業、発行者はじょじょに解明されるが、その後も居直りつづけたままの作成探偵社も存在する。
法務省が事件終結宣言を1989年に出したが、これまで現物を確認できるもので9種類があり、この間の兵庫での行政書士による身元調査差別事件で「地名総鑑」の存在が再度明らかになってきている。
「地名総鑑」30年の経験と成果、課題を再度点検し、悪質な差別身元調査の根絶への方途を、多くの人びととともに、示していく必要があるだろう。
つぎに、その後の経過を見ていく。
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