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一九七三年の一月から数ヵ月ないしは二~三年間は、私にとっては衝撃的な日々の連続であった。激動の時期であったといえるかもしれない。 この年の一月一三日、私が勤める北九州大学に当時、非常勤講師として来講していた先生が、大学人の閉鎖性、独善性を「特殊部落」という言葉で比嗽した。「差別を差別としてとらえる目」をもっていた学生がいた。この発言が大学全体の問題となったのは当然である。 だが、当初の私は、この発言を差別発言とすら思わなかった。私が生まれ育ったのが、朝鮮の釜山であったことが理由の一つであったかもしれない。その後、東京での生活が一〇年続いたことも一つの原因であろう。幼いころ、部落差別と直面したことが全くなかった。けれども、今にして思えば、最大の理由は、現に差別があるのに、それを避けてきた私の怠慢さである。 一九五七年四月に北九州大学に転じた私は、間もなく被差別部落をこの目で見た。だが、それからの私は、ひたすら部落差別を避けて生きてきた。社会学を専攻し、日本社会の分析を試みていた者が、差別の現実に故意に目をつむっていたのである。それが大人の知恵とすら思いこんでいた。 差別発言をした先生に来講を委嘱していたのは、私が所属する学部であり、私も糾弾学習会に出席することになった。「発言に気をつけねば。多少の勉強をしておかねば……」と思い、付け焼き刃的に本を読んだ。同和対策審議会答申をはじめ数冊の図書を精読し、知識的には多少の「ものしり」になっていた(であろう)私に問われたのは、部落問題の知識ではなかった。人間としての生き方であり、教育者としてのあり方であった、と私には印象づけられている。 「一人の人間として当然のことだが、特に教育に携わる者の一人として、つくづく問題に対する理解と認識が欠如していたことを恥ずかしく思い、自分に憤りさえ覚える。うまく書くことはできないが、素直に自分自身に問いつめてみたいと思う。そして、部落差別の実態を学ぶことによって、自分のあり方、生き方を考え直したい」と会場で書いたノートが、今も私の手元に残っている。 糾弾学習会は自分の生きざまを問い直すきっかけになった、私には忘れられない体験であった。 * 今から思えば無謀としかいいようがないが、一九七三年四月から、部落問題にまったく無知な私が中心になって、被差別部落の実態調査を始めた。 大学の先輩である大阪市立大学(当時)の上田一雄教授に、調査票の原案らしいものをもって相談に行った。例えば、雇用労働者の勤務先の業種や職場での仕事の種類は、国勢調査の大分類をそのまま適用するのが当然だと思っていた。被差別部落と全体との格差を明らかにするのには最適の方法と考えていた。 ところが、上田先生はそれを否定された。「借り物の尺度や既成の分類概念を用いて、差別の現実を隠蔽してはいけない」「部落をして自らの被差別的現実を語らしめるという即物主義に立たなければいけない」と注意された。言葉としては分からぬことはないが、具体的にどうすべきか、容易に理解できなかった。 上田先生から福岡県同和教育研究協議会会長(当時)の林力先生を紹介された。林先生は私たちの調査の話を聞いて、即座に「それは怖いことですね……」と言われた。「せっかく真面目に勉強しようと思っているのに、水をさすようなことを言わなくても……」と思いながら、その意味がよく分からなかった。 私の調査は、両先生の言葉の意味を考えることから出発したといえる。部落問題の解決をめざして、被差別部落大衆の立場に立って問題を考え、分析する必要性、謙虚に部落差別の現実に学び、現象を深く掘り下げる重要性などを自覚させてくれた両先生への感謝の念は消えない。 生まれて初めて被差別部落を訪れ、調査について話し合い、部落のなかを案内してもらった。そこで、何回となく戦燥に近いものを覚えた。「本当にここに人が住んでいるのだろうか」と思った住宅があった。「もしここが火事になったら、どんな被害が起きるのだろうか」―密集した住宅の間を、傘をさして通れないような三尺道路が迷路のように走っていた。 コンピューターから打ち出されてくる数字に私は驚いた。学校にまったく行ったことのない人がいた。小学校の途中で働きにでた人がいた。失業率は高く、曰雇い仕事をしている人が多い。生活保護の受給率は高く、健康を害している人が多い。調査結果のほとんどすべては、私の常識をはるかに超えるものであった。 「こんな現実があってよいはずはない」―部落差別の現実は、私の中に残っていたささやかな正義心をよび起こした。部落問題への取り組みが、私の仕事の中で次第に大きな比重を占めるようになった。 * 差別の現実は厳しく、重かったが、部落の人たちは明るく、心豊かであった。小学校一年生一学期しか学校に行っていない母親が、おくどさん(かまど)でごはんを炊きながら、火吹竹で地面に字を書いていた姿が忘れられない、と告白した青年がいた。この人は四二歳の今年の春、大学を卒業した。母親の姿に学ぶことの大切さが胸に刻まれたのである。 第一次の実態調査が終って、反省会をもった。五〇〇円の幕の内弁当と一本のビールで、調査に協力してくれた何人かの部落の人といろいろ話し合った。その会が終了し、ある人がいすを座ったときの状態のまま退室しようとした。隣りの人が小さな声で「おい、いすをちゃんとテーブルの下に入れていかんと……」と注意した。一瞬私はハッとした。注意された人が開き直って、トラブルが起きるのではないかと恐れた。末川博先生は「日本人は自分のミスなどを指摘された時、素直に受け止めず、弁解したり、反発する」と言われた。私にもその傾向がないとは言えないからである。 だが、私の耳に入ったのは次の言葉であった。「本当やな。おれたち指導者からちゃんとしていかんとな……」。そして、イスをテーブルの下に入れて退室した。 注意された人は、私と同じ年齢である(一九二七年生まれ)。小学校三年生の途中で学校に行かなくなったという。字の読み・書きを覚え、私たちの調査に協力するようになるため、どれだけの努力をしてきたのだろうか。当時五〇歳に近かったこの人の行為は小さなものであり、気づいたのは私一人かもしれない。しかし、小さいとはいえ、私にはいつまでも忘れられないでき事である。 被差別部落の実態と部落の人たちの生き方が、私の目を少しは開かせてくれたのである。 * 私が部落問題にかかわるようになる直前、一九七二年の夏、二一歳の女性は、自ら尊い生命を絶った。愛し合い、同棲した青年が、部落出身であることを理由に、差別したためである。 アパートの部屋をしめきり、ガス栓を開いた女性を思うと胸が痛むが、女性の死の報に接した青年は、涙一つ流さず、「被害者はおれの方だ。あの部屋には月賦の支払いがまだすんでいないおれの洋服がかけてあった。死ぬのなら人に迷惑をかけずに死ねばよいのに、あいつはおれの洋服を焼いて死んだ」と悔んだ。ガス爆発をし、焼死した彼女の死を悼むことなく、洋服が焼けたことを悔んだ青年は、戦後民主主義を標榜する社会で育った。 お悔やみに行った中学校の先生たちに、おばあさんは「うちの孫を教えたのは先生やね。孫を殺したあの人を教えたのも先生たちやね」と、ぽつんとつぶやいた。地球より重い人の生命を奪って何の反省、悔悟の情も示さない青年を教えた教師に対する鋭い批判であった。被差別部落に生まれた孫が、差別に負けずどう生きるべきか、だれ一人としてそれを話し合わなかった教師集団への限りない叱責の言葉であった。 おばあさんのつぶやきを聞いて、「心臓に五寸釘を打たれた気持ちがした」と思い、同和教育に真剣に取り組むようになった先生がいたが、教育に携わる私にも、この言葉はたとえようもなく重く響いた。 差別に負けず明るく努力している人たち、差別の現実を放置できず懸命に取り組んでいる人たち、私の生き方を変えた多くの人たちに、私は心からなる感謝の念をもっている。 (一九八九年六月) |
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小森哲郎(こもり てつお) 一九二七年生まれ。一九五〇年、九州大学文学部卒業。一九五七年から北九州大学勤務。 出会い-私と部落300万人-(1991年3月19日発行)より |