こもりぼうこう
わたしの父は、兄が十六才、わたしが九つの、五人の子供をのこしてしにました。母は、五人の子供をかかえて、あすのしょくじにもこまる一家でしたので、学校へもあまりやってもらえず、朝から夜まで、もりとしごとのれんぞくでした。ぼんまえには、よそのいどあらいをしたり、また、子もりにいったりしました。ひのくれになると、みんなが父母と、しょくじをしているすがたをみるたびに、ああ、うちにもお父さんがいたらなあとおもい、なきました。
ある夜、ふと目をさますと、母が、ああ正月がくるのにお金もなし、もちもつけず、にしめもたかれへんといっているのをきき、わたしは母にお金がないのかといいながら、いままで母にないしょでしごとをしてためていたお金を、みかんの木のしたの、つぼにいれてうめていた三月分のお金を母にわたしました。そのとき、「このお金どないした。まさか人のものをとってきたんとちがうやろな」ときかれ、しごとをしたことを しゃべったら、しかられるとおもい、だまっていたので、母に こんなはずではなかったのにといって ひどいめにあいました。
そのとき、となりのおじさんが、「どないしたんや」といって、はいってきて、「このお金は、うちで仕事したお金やがな」といってくれましたので、お母さんは、「そんなら そうやといったら、おこらずにすんだのに」といいました。そうして、そのお金でお正月をすることになりました。
一月十日から母は、とまりがけでびょういんのかいほうに、七日目になると、いちどかえり、また七日目にかえりするのが六ヶ月もつづき、妹や弟に、夜になったら、お母さんとこつれていってとなきつかれ、わたしもしまいになきたくなりました。でも、わたしは、なくことはできません。妹と弟によくいいきかせ、つぎの日、母のいるところへつれていきました。母にしかられ、妹と弟をつれてかえり、そのときだけは母のいないさびしさに、私もそっとなきました。そして、母がかえってきました。
そうして、私は、よそのもりにいったり、また、おおそうじのてつだいにいったり、いどあらいに行ったりしてきました。また、畠の水いれにいったり、むしろあみをてつだったりしてきました。学校へいっても妹のびょうきのため、きゅうけい時かんに 家にかえり、妹のおしめをかえたり、火ばちに火をいれたりし、川でおしめをあらい、ほして、学校にかえると、時かんにおくれ、せんせいにしかられ、たたされて、べんきょうをする時かんがありませんでした。
そのとき、岡山からきた山本うきじせんせいがこられ、いつも時かんにいないので、山本せんせいが私のうしろからついてきて、私がおしめをかえているまに火をおこしてくださいました。そうして自転車にわたしをのせて、学校へつれてかえってくださいましたので、すこしはべんきょうができてきましたが、せんせいのお父さんがなくなられたので、岡山へかえってしまわれ、私も家のつごうで、二年生のとちゅうで学校へいけなくなりました。
それから、こもりぼうこうにいきましたので、じもわすれてしまいました。
かいかんで、しきじをやりだしたまえのことです。病院にいったとき、「ところとなまえを、かいてください」といわれ、私は「じがかけませんので、すみませんが かいてください。」とたのみましたら、かんごふやまわりの、みんなの人から、「いまどきの人に、じのしらん人はない」といって、わらわれました。その時ぐらい、かおから火のでるくらい はずかしいおもいをしたことはありません。
そうして、しきじにいきたし、夜はいけないし、こまっていました。そんな時、村井茂せんせいにはなしましたら、「昼でもいいからきたらよい」といってもらい、わらをもつかむおもいできてみると、かいかんのみんなのせんせいも、よくおしえてくださるので、たいへんうれしいです。
わたしは、ともだちもさそい、いっしょにくるようになりました。そこで、かいかんでは、お昼のしきじきょうしつをひらいてくれました。わたしは、よくわすれますので、せんせいに、きょうはことわられはせんかと、しんぱいしていますが、せんせいは、そんなかおをもせず、いっしょうけんめいにおしえてくださいますので、ここまでになり、心から、なみだのでるほどうれしくてたまりません。
(『うち、字かけたんよ』部落解放同盟中央本部編、解放出版社、1984年3月、より)
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