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2007.09.20


宵待草の思い出

阪口惠美子


 敗戦の色濃く残る一九五四年に、泉南郡多奈川町立多奈川中学校に国語の教師として着任した。多奈川中学校は、南海本線淡輪園駅(現在の岬公園駅)より支線(多奈川線)の終着駅(多奈川駅)から徒歩で一〇分ほどの所にあった。多奈川駅の駅舎の屋根が、機銃掃射を受けたままになっていた。多奈川線は、支線というより引き込み線といった感じがした。

 多奈川駅前の道路は広く石畳で、昔ながらの八百屋、下駄屋、魚屋、雑貨屋が並び、戦前までは映画館であったという建物が精米機を並べて米屋を営んでいた。

 多奈川中学校は、なだらかな坂の上にあって、木造の一階建てで二棟並んでいた。運動場からは、大阪湾が一望できた。土地の人びとは、この辺りの海を昔から「鯛の浜」とも「菜の浦」(惣菜が豊富にとれるという意味)とも呼んでいた。

*

 教師になって二年目、一年生を担任することになった。クラスの中に、Yちゃんという女の子がいた。五月に入って、Yちゃんが欠席するようになった。一日二日は気にならなかったが、三日四日も続くと心配になりだした。当時、他の学年では出席簿に氏名があるのに、まったく学校へ姿を見せない生徒も何人かあった。年輩の先生は「もう二〇歳位になっているだろう」と話していたのを不思議な気持で聞いていた。なぜ、卒業しないまま二〇歳になってしまったのか。そして学校はなぜ、毎年そのまま生徒の氏名を残しているのか。考えているうちに暗い気持になっていった。

 私は、Yちゃんの家庭訪問をすることにした。病気なのだろうか。怠けなのだろうか。家事都合ならばこんなにも長く休まないだろうし、一体、親は何を考えているのだろうか。中学校へ入学したばかりの同じクラスの生徒たちは、何もかもが珍しく楽しくて仕様がないという風なのに、自分の子どもを、こんなに休ませるとは。と、あれこれ考えながら、放課後、Yちゃんの家を訪ねた。

 湾になった港の表通りの裏に、物置長屋のような家を三つに仕切った一つがYちゃんの家であった。「ご免下さい」と家の中に入ると五月晴れの外の明るさと対象的に、窓のない一間の家は暗く湿っていた。目を凝らしてみると、部屋の隅に風呂敷包みがいくつも積み重ねられていて箪笥らしいものは見当たらなかった。

 Yちゃんが、小さな女の子をおぶって出てきた。青白い顔であった。病気でなかったことに安心した私は、登校を促すために、中学校での勉強の大切さを話した。Yちゃんは下を向いたままであった。学校で見せる明るい表情とは異なっていた。Yちゃんは登校できない事情を小さな声で、ぽつん、ぽつん、と話してくれた。

 お父さんが石山で足を骨折して入院していること。収入のなくなったお母さんは、日本語もわからず、どうして生活していけばよいかと途方にくれ、心の病になって入院してしまったこと。そのため一歳半になる妹の面倒をみなければならなくなったこと、を無表情で話してくれた。そして最後に「学校へ行きたい」と小さく言った。

 私は迂闊だった。生徒が学校を休むということは、「病気」でもなく「怠学」でもなく休まねばならないとてつもなく大きな理由のあることを、この時初めて知らされた。Yちゃんの両親は朝鮮から日本へつれて来こられたのだった。

 現在の関西電力株式会社火力発電所のある所は、戦中、川崎軍需工場があったということを知った。私が初めて多奈川駅に降りたとき、多奈川線が引き込み線のような感じを受けたことも、田舎にしては進路は広く石畳であったことも、Yちゃんの両親をはじめ、多奈川に多くの朝鮮の方が住んでいることも、すべて軍需工場に関係していることがわかってきた。

 そして、敗戦と同時に川崎軍需工場が閉鎖されたため、Yちゃんのお父さんたちは生活の糧を求めて、堺市の臨海埋め立て用の石を切り出している多奈川の石切り場の労働者になっていた。足を骨折して入院した後の生活は、当然、Yちゃんのお母さんの肩にかかってくるが、日本語のよくわからないお母さんには働くところがない。生活苦と心労が重なっての入院で、近所の人たちに取り押さえられながら去って行く母をYちゃんが、どんな気持で見送ったのだろうか。

 同じ年の秋の始め、運動場の隅にあるクローバーの上で、私はクラスの七・八人の女生徒と放課後遊んでいた。Bちゃんという小学生のような小さな女の子に、何気なく「お父さんは?」と尋ねた。するとBちゃんは、きっと私を見て「〇〇に殺された」と答えた。私は、ごく日常的な会話のつもりだったが、Bちゃんの言葉には怒りと悲しみがあった。

 Bちゃんの両親も、Yちゃんの両親と同じように朝鮮から連れて来られていた。敗戦後、Bちゃんのお父さんは法律で禁止されている「ドブロク」を造り、生活をひさいでいた。それが「暁の襲撃」と、当時の新聞にも掲載されたが、春の早朝寝込んでいるところへ警官の一斉手入れがあり、その時、Bちゃんのお父さんが射殺されたということである。

 私は、これまでYちゃんや、Bちゃんのような生活の中にいる人と出会ったことはなく、この子どもたちを抱え込む価値基準を持たないで教師になったということを改めて認識させられた。私はYちゃんが登校できるようにはたらきかけた。間もなく妹を連れてYちゃんが登校するようになった。妹の機嫌の良い日は、中学校の隣にある保育所で頚かってもらえた。Yちゃんが登校できるように学級のみんなも理解し協力した。時々、小さな中学生が一人ふえる日があって気楽な楽しい学級ができていった。

 この二人の女生徒との出会いが、その後の教師としての私のあり方に大きな影響を与えた。私は子どもたちのどんな小さな変化をも見逃さないようになった。

*

 私には宵待草にまつわる悲しい思い出がある。私が和歌山県立粉河高校を卒業したが、当時、家には、長兄は満州から復員していた。日本赤十字社の従軍看護婦であった姉は、ジャワ島から奇跡的に引き揚げていた。学徒動員で、明石から和歌山の住友軍需工場にかわっていた次兄も帰っていた。だから私が高校を卒業したといっても両親からみれば、まだほんの子どもでしかなかった。

 母は、年頃の息子や娘のために和歌山市内にある「闇市場」で服等買って来ると、長兄や姉は「内地がこんなことだから日本は敗けたのだ」と言って頑として母の苦労を受け入れようとしなかった。このように敗戦後の社会の混乱は経済的だけでなく、精神的にも個人の家庭を苦しめていた。

 私は、高校の国語の先生の紹介で、粉河町のある店に就職した。四ヵ月ほど勤めたある朝、今までうっ積していた気持ちが一度に出て来てどうしても勤めに行く気になれず、粉河駅を降りたものの店とは反対の方向に歩き出し、紀ノ川の河原に出てしまった。河原には背丈ほどに延びた宵待草が生い茂り可憐な薄い黄色の花びらに朝露を受けて、しっとりと河原一面を覆っていた。

 私は、なぜ毎日がゆううつなのだろうかと、自分の気ままな気持を見つめようと一人だけの時間をもった。宵待草の中に寝ころんで花の上の露が朝の光の中に消えていくのを眺めながら、どんなに考えてみても自分自身を掴むことができず止めどもなく涙が流れ、時間ばかりがすぎ、自分一人がとりのこされていくようで、とても仕事へは行けなかった。カツと照りつける太陽の下で母がつくってくれた弁当を食べる頃は、どうしようもなく惨めだった。この曰から勤めに行くことをやめた。母にいくらわけを聞かれても、自分でも答えが見つからなかった。母は悲しがった。

 一年の空白の後、両親に内緒で大学を受験した。

 教師になって、YちゃんやBちゃんと出会う中で、私の宵待草の悲しさの根っこが二人の子どもたちの生い立ちの根っことつながっていることを感じた。一人の人間が生きていくということは、個人的な力をはるかに越えた政治的な要因や社会的、歴史的な要因によって大きく左右されているというととがみえてきた。Yちゃんが学校を休んだ理由には、とてつもなく大きな背景があったのだ。私の高校卒業後一年間の悩みは、戦争の苦しさから立ち上がろうとする家族一人ひとりのあがきによるものであったのだ。

*

 中学校に名前だけを残して、姿を見せないまま二〇歳になっている生徒たちは、どうしているのだろうか。

 数年前、岬町立多奈川小学校在任中の時の事である。四〇歳過ぎの二人の女性が、おずおずと校長室へ来られて、小学校の卒業証明書を希望された。就労のため最終学校の卒業証明書を持って来るように雇用主から言われたということである。

 普通、最終学校といえば少なくとも義務教育終了の中学校である。多くを話したがらない二人の様子から、名前だけを残したままの中学生と同じ境遇の人たちではないかと察した。その途端、ずっしりとした重いものが私を締めつけた。

 小学校の卒業者台帳を調べてみたが、そこには二人の名前が記載されていなかった。これは何かのまちがいではないかと内心慌てながら丹念に調べた。その間、二人は小さくなって座っていた。何度見直してもやはり記載されていなかった。二人の女性は、ますます小さく固くなって「私たちは、卒業していないのです。先生ならお願いできると思って……。」と言った。聞けば、現業職員として臨時的な採用に必要な書類であるという。

 この二人は小学校を卒業していたとしても、三〇数年が経過した今、小学校の卒業証明書を持参させることの意味は何なのだろうか。私は、教育委員会に連絡をした。同和対策室を通じて、卒業証明書は不用との返事が返ってきた。

 今年は、国際識字年である。学校へ来られなかった生徒たちは、名前だけを残して、一定の年数が経過すれば法的に名前すら消されて処理されてしまう。母校を持たない子どもたちは、中年以上になって社会の隅で、今も卒業証明書提出に脅えながら生業を立てているのだろうか。

(一九九〇年一月)

阪口惠美子(さかぐち えみこ)

 一九五四年、多奈川町立多奈川中学校に着任。七三年、岬中学校同和主担。大阪府教育一委員会泉南教育事務所指導主事、社会教育主事、多奈川小学校教頭、同校校長をへて八八年より岬町立岬中学校校長。八九年より大阪府同和教育研究協議会会長。『講座中学校国語科教育の理論と実践』(有精堂)の第四巻「文学的文章1(小説、戯曲)」執筆。

出会い-私と部落300万人-(1991年3月19日発行)より