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2007.10.30


真の「出会い」に

大西 巨人


 「部落問題との出会い」というのは、本誌編集部から与えられた題である。「出会い」とはずいぶん含蓄のある言葉であるが、目下の場合においては、一人の人間と他者なり物事なのとの関係が過去におけるその「出会い」から現在まで続いている(のみならず発展している)という前提の上でのみ、初めて有意味であり得るはずである。一人の人間(たとえば私)が、他者なり物事なり(たとえば部落民某なり特定部落問題なり)に、むかしひとたび「出会った」が、その後は現在まで無縁ですぎた、というのでは、この場合においては、ついに無意味であろう。現に本誌旧号における「出会い」のページ下方には、「人には、それぞれ部落問題に目覚める〝出会い〟がある。」云々の文章が印刷せられていて、それは私の如上見解の正しさを裏付けている。

 しかし、それならば、「部落問題との出会い」というような題で何かを書く資格が私にあるとは、私は、なかなか考えることができない。なるほど、私は、以前、それも幼年のころ、「部落問題に出会った」と言えば言うことができるであろう。とはいえ、私は、それから現在まで、私が「部落問題」とどのような関係を保ってきたか、私が問題解明解決のため(言うに足るほどの)何を為してきたか、と省みると、内心忸怩たる物を覚えて、とても「部落問題との出会い」というような晴れがましい題で何かを書くことはできにくくなる。

 それにしても、私は、かつてひとたび私が出会った「部落問題」に細々とながら(曲がりなりにも)関心を今日まで持続してきた(本業文学の上で問題解明解決にいくらかなり役立ちたく長らく念願してきた)のであるから、その幼時における「出会い」のことなどを、私は、思い直してせめて書くのである。

          *

 さて、その「幼時における『出会い』」に関する私の説明には、のちに私が―主として私の母から、また次に私の父方の伯文から―聞いたことが混じっていて当時のでき事についての純然たる「私一己の記憶」ではない。私は、なにしろそのころ三歳くらいの幼年者であって、事の委細(実情ないし実相)を極めて不十分にしか理解することができなかったにちがいなく、後日だんだん事件の経緯や意味やを承知したのであったろうから(父は、直接そのでき事については、終始あまり私に語らなかった)。

 大正後期(一九二〇年代前半)のそのころ、私の一家(父母と私との三人)は、北九州の某町(連隊所在地)に住んでいた。私には姉一人、兄二人、妹一人が生まれたものの、いずれも当歳かで死亡した由であって、結果として、私は、いわゆる「一人っ子」になった。それら同胞に関する記憶は、―妹に関しても―、まったく私にない。父と母とは、同年の再婚者同士であった。そういう次第で、私が生まれたとき、すでに両親は、ほぼ四〇歳に達していた。

 父は、国語および博物の教師として、その町の農学校と女学校とに兼務した。父は、小柄であったとはいえ、武道の心得(柔道三段、剣道四段)を持っていた。また父は、山狩り、川狩りが好きであって、そのころはその町の近くのM河(中くらいの河)へ、たいてい夜間よく投網による川猟に行った。テボ(魚籠)と提灯とをたずさえた母と私とが、何度かそんな父のお供をした。

 ちょうど伯父(父の姉婿)が、筑後(福岡県南部)の某市から泊りがけで来ていて、梅雨期のその雨の夜、伯父と父とは、連れ立ってM河へ川猟に出かけた。夜が更けるにつれて、雨は、ようやく激しくなった。

 当夜遅く(たぶん一一時半ごろ)、―もう私は、床の中で眠っていて、まだ母は、夜なべの針仕事かをしていた、―表の門扉をたたく拳の音と「須賀しゃん、須賀しゃん、……。」と母の名(須賀野)を喘ぐように連呼する男の声とが、雨音を通して母に聞えた(その物音人声によって私も目覚めたのであったらしく、門扉の無気味な音と切迫的な呼び声とは、現在までずっと明らかに私の記憶に残っている)。

 そこで母が玄関を出て門扉を開くと、血まみれの伯父が、気息奄奄として門柱に縋っていた。それから、隣り近所も、騒ぎになった。父は、自家から三、四〇〇メートルの地点、雨中の路上に(そこまでは、よろけつつも、やっと来て)倒れていた。父は、七個所(頭部、上膊部、腰部、大腿部など)に深手を負って、伯父は、三個所(頭部、上膊部)に父のよりも浅手を負った。

 当夜も、その後しばらくも、なぜそんな刃傷沙汰が生じたのかは、父にも母にも伯父にも、まして隣り近所の人びとや巡査やにも、わからなかった。やがて次第に判明した経緯ないし顚末を、私は、以下に整理要約して記述する。

 事件当日から二〇数日前のこと、その地の招魂祭が行なわれて、街上は、軍人や民間人やの群れで賑わった。連隊の成り上がり古参中尉が、一軒の茶店の床几に腰掛け、酒肴を飲食していた。そこに、一人の青年(被差別部落民P)が、通りかかった。因循固陋な差別思想の持ち主であった古参中尉は、青年Pが被差別部落民であることをかねてより知っていた上に、そのときずいぶん酔ってもいたので、柄のない所に柄をすげるような因縁をPに付け、差別的言辞を浴びせ口ぎたなくののしって、そのあげく数回なぐった。

 青年Pの兄Qは、半やくざであって、体格もよく、草相撲の大関級の力を持っていた。Qは、古参中尉の暴言暴行をPその他から聞き知り、大いに慣懣し、ひそかに報復の機会を狙った(Qの実弟Pおよび弟分二人も、同様に仕返しのおりをうかがった)。

 古参中尉も、川猟好きであって、よく投網持ちでM河に行っていた。私の父も、かなり立派な口髭を蓄えていたが、古参中尉も、おなじであった。Qの弟分の一人が、M川土手の宵闇の中で私の父(の口髭)を古参中尉(の口髭)と見あやまって、Qへ注進した。そこでQとPと弟分二人の計四人は、復響の目的をもってM河へ向かった。かくて人違いによる刃傷沙汰となったのであった。……

          *

この事件が素材である挿話を、私は、私の作品『神聖喜劇』第一部「絶海の章」に書いている。むろんそれは、仮構作品の仮構挿話であるが、これまで私が記述した事件のそのあとについては、右挿話が簡潔に説明しているので私は、必要該当部分を左に引用する(これは、一人の作中人物が事件の概容を他の作中人物に話して聞かせている所)。

 ―兄の部落民が、白鞘の大刀一振りを腰に帯びておった。ただし彼も、必ずしも初手から斬るの殺すのというつもりじゃなく、腕力に自信はあり、味方は弟に手下二人の四人ではあり、さんざんぶんなぐるなり踏んだり蹴ったりするなりしておいて、引き揚げるという方針だったらしい。ところが、四人が二人に襲いかかったとき、松濤さん(私の父が主要なプロトタイプ)の手で、真っ先に総大将の兄が紫川の土手から水中へ投げ落される、続いて手下の一人も土手に放り出される、姉婿さんが弟の部落民をようやく組み伏せ、松濤さんがも一人の手下を取りおさえて相手方の正体を突き止めにかかっておったところに、川から這い上がって忍び寄った兄が、松濤さんの背後からその首筋、肩先、二の腕、背中、腋の下など六箇所に斬りつけ、これも土手下から起き上がってきた手下が、松濤さんの俯せに倒れた躰の後頭部を下駄でめった打ちにした。姉婿さんも、頬、肩、手と三箇所を斬られなさったが、すでに人違いに気づいておった弟ならびに一人の手下が逆上気味の兄を懸命に制止し、さて四人は闇に紛れて遁走しました。

 ―なるほど。

 ―この事件の特色もおもしろみも、実は主にこのあとにあるのです。しかし思わず話しが長引きましたから、犯行後下手人たちの動静、証跡の欠如、それにもかかわらず彼らが犯人であることの次第に明らかになった経過、闇討ち後二ヵ月にして下手人連の検束および自白が直接には実に松濤さん本人の力によって成就されたいきさつ、その他はすべて割愛して、以下ほんの要点だけを述べましょう。松濤さんは、部落民四人の不心得を厳重に戒め諭された上で、しかし彼らを司直の断罪から極力庇い通してやられただけでなく、不当な差別蔑視的言動について部落民に陳謝することを例の古参中に尉に要求された。そのため松濤さんは、とうとう聯隊に乗り込んで、聯隊長とも談判されることになる。これは、あとあとまで語りぐさになったほどのたいそうな強談判でしたな。とどのつまり某古参中尉は個人として部落民に謝罪する。聯隊長は、今後その種の差別行為がきっとあるまじきことを聯隊全員に訓示する、という成り行きで、やっと一件は落着しました。いやはや、聯隊長、聯隊副官も某古参中尉も、松濤さんの気力にはだいぶ辟易の体でしたわ。

 ―なるほど。

 Qは、そののち足を洗った。彼は、私の父を敬愛するようになって、私の家にもしばしば出入りをした。そしてQは、私の家の雑事を手つだったり私と遊んでくれたりした。

 おおよそ以上が、私における「部落問題との『出会い』である。その内容充実のために(「出会い」をいよいよ真の「出会い」たらしめるために)、私は、今後とも努力精進しなければならぬ。

(一九八六年四月)

大西巨人(おおにし きょじん)。

一九一九年生まれ。九州大学法文学部中退。戦後、『文化展望』編集者をへて文筆業に専念。
代表作に部落問題を鋭く描いた『神聖喜劇』全五巻(光文社)。最近作として『天路の奈落』
『地獄変相奏鳴曲』(講談社)、評論『観念的発想の陥葬』(立風書房)など。

出会い-私と部落300万人-(1991年3月19日発行)より