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2007.12.07

親鸞を介して

鈴木 祥蔵


 何がキッカケで部落解放の仕事に関係するようになったのかとよく聞かれるのですが、私にとって、決定的な劇的なキッカケというようなものはありませんでした。一つ一つの小さなしかし深い意味を持つ人との出会いというものが、積りつもって次第に私の仕事の中心に部落解放の仕事が位置づいてきたというのがほんとうでしょう。

 私にとって深い意味をもつ出会いというのは幾つもあります。しかし、振り返ってみるとやはり最も重要なものが私の心の中で尾を引いていて、それが部落問題に出会ったときに積極的に部落問題を自分に充分に引きつけて、真面目にそれに取り組む態度を私にとらせることになったことに気づくのです。

 その一つは、第二高等学校入学を契機にお会いできた当時の校長阿刀田令造先生との出会いです。

 私は一九三九年に仙台の第二高等学校(旧制)に入寮したのですが、私の従兄が入学していたせいもあって、道交寮という寮に入ることにしました。当時の高校は全寮制度であって、新入生は全員入寮が義務づけられていたのです。二高には、三つ寮がありまして、明善寮、忠愛寮、道交寮の三つです。そのうち明善寮は全員入寮の普通寮であり、忠愛寮はキリスト教関係の寮であり、道交寮は仏教寮となっていたのです。

 私は別に仏教を求めろという動機でその寮を選んだわけではないのです。しかし、一年生の一学期を終了して夏休みに生家に戻ったとき、非常にショッキングな事実にぶつかったのです。

 私の母が嫁に来たときにもって来た箪笥の引出しをあけたときに一冊の小冊子が出てきたのですが、そのタイトルは「玉砕余韻」というものでした。表紙をめくると、二高の帽子をかぶった青年の写真があり、下に、内池亀七君の名がかかれてありました。次の頁には故内池亀七追悼号とあって、黒枠をつけた遺書がのせてあり、そのあとに恩師、友人、先輩、後輩などたくさんの人たちの追悼の文章がのっているのです。

 内池亀七というのは、私の母のすぐ上の兄で、私からいうと伯父に当たる人です。その亀七が第二高等学校三年の卒業前に自殺してしまったのです。彼は忠愛寮(キリスト教関係)に入寮していたのですが、ある曰、友人たちと松島にポートを漕ぎにゆき、仙台まで戻ってある「そば屋」で夕食を共にし、友人たちを帰したあとでその「そば屋」のテーブルの上に遺書を残し、仙山線の枕木の上にねて、機関車にひかれてしまったのです。

 彼の遺書の冒頭は「灯(ともしび)の光は強ければ強いほど、その影は濃くなる」という文句からはじめられています。この文句が暗示するように、今まで自分が生きてきたのはあまりにも幸福すぎたので、これからの世の中をみるとその影が真暗で、とてもこの幸福を持続することはできそうもありません。ただただ暗黒にしか見えないのです。どうぞ先立つ不幸をお許し下さい、という内容のものでした。

 亀七は相当の秀才であったようです。その死を悼んで先生たちの文章や友人たちの文章は、一様にその才能の開花をまたずに散っていったことをひどく惜しむものばかりであったのです。玉のように見られ、玉のように大事に育てられたその玉が一瞬にしてくだけ、そのときの音がなお多くの人びとの心の中に響いているという意味のこの「玉砕余韻」の一文字一文字を、私は食い入るように読んだのでした。

  それからです。私の想念に亀七というこの私の伯父の考えがぴったりとはりついてしまったように離れないのです。

  日本の旧満州(今日の中国の東北地区)への侵略はもうはじまっていましたし、軍国主義が大手を振って国中をかけまわっており、人間の生命は国に捧げられてはじめて値打ちがでてくるのだというような言説が幅をきかしてきておりました。

 私が第二高等学校に入学してはじめて手にして夢中で読んだ本は、岩波文庫の中に入れられていたジャン・ジャック・ルソーの平林初之輔訳の『二ミール』でした。次にドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』、そして夏休みに入ってトルストイの『戦争と平和』を読みはじめていたのです。

 そういう私であったので、「玉砕余韻」の衝撃は大きかったのです。私の目の前の世界は、一瞬にして暗黒へと変化してしまったような気がしはじめたのです。そして「高等学校で学ぶということの意味は何であるのか」を考えはじめて、「無意味だ」という結論に達したのです。九月のはじめ、私は寮からすぐ近い二高の校長の阿刀田令造先生のお宅を訪問して、退学届と退寮届を出して郷里(生家)へ帰ってしまったのです。

 帰るとき、先生は大して理由も聞かずに、「まあしばらく考えてみるがいい、これでも読んでみるか」、そう言って一冊の小冊子を私にくれました。

 荷物をまとめて家に帰ったら、父親は怒りはじめる、母は泣きはじめる、兄弟たちが口々に私を非難する、私は家におれないような状況で、毎日山へ登って考えにふけっていたのです。三日ほどしたある日、石に腰かけて、何の気なしに、阿刀田先生がくれたパンフを洋服のポケットからとり出して読むともなしに見ていると、ふと次のような文字が飛び込んできたのです。

 「佛道を習うとは、自己を習うなり、自己を習うとは自己を忘るゝなり 自己を忘るゝとは万法に證せらるゝなり 万法に證せらるゝというは、自己の身心および他己の身心をして、脱落せしむるなり」

 私はこの言葉をくりかえして読んでいるうちに、私がいま第二高等学校に入学して六ヵ月、その学校を去ろうとして小我を立てようとしている、それが如何にも恥ずかしいことのように思えてきたのです。私はすぐ山を下りて、父母にもう一度二高に戻ってみることを告げて、仙台へ急いでもどりました。その夜、阿刀田先生を訪ねたら、先生は、「君の退学、退寮の届は、そのまま私の机の中にある」とそれを私に返して下さったのです。

 私は阿刀田先生にすっかり心の中をのぞかれているような恥ずかしい気持ちになりました。しかし、それが阿刀田先生と私との出会いとなったのです。先生は親鸞の信者であり、東京大学の学生の頃に、赤門前の求道学舎を経営しておられた近角さんの直弟子となった人なのです。この阿刀田先生から、親鸞の歎異抄の歎話をきくこととなったのです。

 私は歎異抄の親鸞の言葉の数々に感動し、二高の理科甲類に入学したことをまちがいと感じ、「教育者」になることを決意するようになっていました。

 それで、当時、京都大学の哲学科には西田幾太郎の門下生たちの集まっていることを知り、とりあえずは哲学と教育学を勉強することを決意したのです。とくに木村素衛という若い先生が「美の形」という素晴らしい本を書いたのを知って、私は京大の教育学専攻に進むことを望みました。高等学校で理科を専攻したことは障碍とはならず、志望通りに入学を許可されました。

 そして一九四〇年の四月、京都に住むことになりました。

 私には一年先輩で二高から京大の医学部に入学した糸井川という親しい人がいたのです。入学して間もなく、その糸井川さんに、私たちよりずっとずっと先輩の岡本さんという人のお宅に連れられていったことがあるのです。私も糸井川さんも第二高等学校では陸上競技部に所属していたのですが、岡本さんはその競技部の大先輩であるので、実は糸井川さんが私をつれて表敬訪問しようということだったのです。その訪問が、私の一生の中で大変に重要な意味をもつ日となったのです。

岡本さんご夫妻のもてなしを受けているとき、突然電話がなって、岡本さんは「君たち、夕食を食べて行ってくれ、私は急用で出てゆくが、すぐ戻ってくるから」と言って出て行きました。やがて三〇分もして戻って来られたのですが、そのとき一人の青年をともなっておりました。岡本さんはその青年に熱心に何か一生懸命に話をしている風でしたが、やがて青年は帰って行きました。

 私たちの前に戻って来た岡本さんに、「何かあったのでしょうか」と尋ねてみたのです。岡本さんの説明によると、京都の電車課の車掌さんたちの待合室で、「差別事件」があって今帰っていったあの梅本君という青年が、一人で多数の車掌たちを相手に大暴れをし、とても止められないので来てくれというので今行って喧嘩を止めさせ、彼をいま家までつれてきて納得させて帰したところだというのです。

 梅本君という青年は、京都の被差別部落の出身で面と向かって、部落を理由に侮蔑されたのが暴れた理由だというのです。

 私は「差別」とか「部落」とかいうことが全くわからなかったので岡本さんに質問の矢をつぎつぎにはなちました。岡本さんという人は京大の法学部を出た人です。しかし、当時、「大学を出たけれど」などという言葉が流行語となったような時代ですから、大学出という履歴を偽って、中学出で京都の電車課に就職し、車掌の仕事からはじめ、今は課長をやっているという人で、梅本君などからも大変信頼されていた人であったようです。その岡本さん夫婦がその夜、京都の差別のキツさについて、多くのことを私達に話してくれました。

 部落の人が物売りにある人の家に入って行って、物を買ってもらったあとその家を出るとき、お尻を向けて出ようとするとその家のあるじが箒をもっておいかけてきてなぐり倒すなどということ、京都の老舗では店の片隅に水瓶を備えておいて、部落の人が買い物にくると杓子でお金をうけとって、おつりをまた杓子で返し、あとで水瓶の硬貨を出して洗ってから流通させるのだ、というような信じられないような話が憤りをこめて話されたのです。

 夜おそくまでお邪魔して帰りましたが、私はその後よくねむれませんでした。「とてもその部落差別の話は私によくわかりません、どうすればわかることができるでしょうか」、そう私は帰りしなに岡本さんに問うたのです。「君は教育学を学ぼうというのだから、ぜひ、京七条の崇仁校の伊藤先生を訪ねなさい。私は名刺を書いてあげよう」と言って岡本さんは、紹介状を私にくれたのです。

 その五日後に、私は伊藤茂光先生を訪問したのです。

 伊藤先生は、私が京都大学に入学したての学生であって、これから教育のことについて勉強をしはじめようとしていること、私がこれからついて勉強しようと考えている先生が木村素衛先生であること、岡本さんの名刺をもって来たことなど、すべてに大変興味をもって下さったことが私にとっては幸運でした。伊藤先生は、私が時々崇仁小学校を訪問することを許して下さったのです。私が親鸞の思想に大変興味をもっていることにも、伊藤先生は肯定的な意志を示されました。そして実は、先生は禅宗の僧侶なのだとも言われました。

 崇仁校では、私はびっくりすることばかりでありました。学校中に「まけるな!!」というスローガンが貼ってあるのです。校長室にはチョンマゲ頭の人物、つまり清水次郎長の写真がかかげてあるのです。学芸会の冒頭で村の青年の一人が「おひかえなすって」といっていわゆる「じんぎ」をきって挨拶するのです。それが開会の辞なのです。私はそこで大変生活に困窮している子どもたちの存在を知ったのです。これが私と部落問題の出会いといえばいえるのです。しかし、それは大変表面的な出会いにすぎませんでした。

 私たちは一九四三年、大学を半年だけ繰上げ卒業ということになりましたので、その夏は休みなしに卒論を書くことに没頭し、九月に卒業ということになりました。

 そして一一月には召集令状をもらって入隊ということになったのです。中国の各地を転々として、最後は旧満州の牡丹江でソヴェトと戦闘し、やがて一九四五年八月の一八日、武装解除をうけました。九月には国境を越えてソヴェトに連行され、やがて山へ入って伐採作業を二年八ヵ月して、一九四八年一二月に帰国しました。

 私はソヴェトの山の中で、離さずに持っていた「じゅず」と「般若心経」をペーチカにくべて焼いてしまったのです。

 親鸞の信者をもって任ずろ人たちが、どうして戦争を否定せずに、戦争反対をつらぬくことができなかったのか。それは、心情において平和主義者であり、すべての人を同朋同行といいながら、それを社会の関係の中で生かすすべを考えずにいてしまうからではないのか、それは結局は被抑圧集団を裏切ることになってしまうのだ、それが私の山の中の労働に従事しながら考えた結論でした。

 不思議なことに、舞鶴に帰った一九四八年一二月一○日、この曰は国連で世界人権宣言が発せられた日なのです。

 私は「悲憤の山脈の裾野に立って」反戦・反差別をつらぬくことが、私の与えられた使命だと考えるようになって、はじめて、部落問題に出会ったような気がするのです。だから、一九四九年に関西大学に勤務するようになり、大阪の部落解放運動に参加するようになったのが真の契機であったと思うのです。

(一九九〇年八月)

鈴木祥蔵(すすき しょうぞう)

一九一九年生まれ。一九四三年、京都大学哲学科卒業。関西大学文学部教授をへて現在、大阪経済法科大学教授、社団法人部落解放研究所所一員、乳幼児発達研究所所長。著書に「子どもは集団の中で育つ」『平和・人権と教育一(解放出版社)、「幼児教育選集』(現石書店)など。

出会い-私と部落300万人-(1991年3月19日発行)より