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2008.01.25

大学闘争のさなかで

寺木伸明


 「理学部数学科は特殊部落のようなものだ」という、いまは亡さ教育学科の教授の発言があったのは、一九六九年一〇月三〇日のことである。それから二〇年がたつ。けれども、そのときのことは、くっきりと脳裏に刻まれているし、今後も忘れることはないだろう。

 当時、私は大阪大学大学院文学研究科博士課程一回生で、二五歳になっていた。前年の一九六八年からいわゆる大学闘争―これを大学紛争という人も少なくないが、当時も今も基本的には学生側にこそ理があったのであるから、正しく闘争というべきであるーが展開されており、阪大でも六九年から激化しはじめていた。

 私自身に関していえば、その当初は、その闘争の意味を深くは理解していなかった。ただ、それまで少しばかり学生の自治活動にかかわっていたということから、たまたま六九年度の大学院文学研究科学生協議会(文院協)の運営委員長をやっていたという関係で、いやがおうでも阪大の闘争にかかわらざるをえなくなり、またかかわるなかで、闘争の意味を少しずつ理解していったのである。

 文院協は、大学の改革を求めてー私たちの場合は解体は求めなかったー、その年五月一三日より一二月二七日までストライキ闘争を展開した。さきの教授の発言問題は、そのさなかに発生したのである。

 この発言があったことを聞いた私は、数学科出身の人が一風変わった者とみなされたという点で問題だとは思ったが、これが部落差別発言だとは、すぐにはわからなかった。「特殊部落」という言葉が差別語であるということは、友人に教えられた。そのとき、初めて水平社宣言文を読んだ。そのすばらしい文章と思想に出会ったときの感動は、どのように表現すべきか、迷ってしまうが、何かで頭をガーンとどやされたという感じが、近いところであろうか。

 この宣言文と同時に採択された決議に「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糺弾を為す」とあるのも、もちろんこのとき初めて知った。

 しかし、このときはまだ、部落差別の実態についてはよくわからなかった。その深刻なことがわかりはじめたのは、後に行われた村越末男先生の講演を聞いてからである。リアルな差別の諸相を知らされ、大きなショックを受けた。この差別の現実を前にして、いったい自分は大学院まできて何を勉強し、何をしてきたのだろう、と考えこまざるをえなかった。―こうして、鈍な私の転回が始まったのである。

          *

 私は、敗戦の色濃くなった一九四四年に、大工義太郎を父とし、農家の娘きぬを母として琵琶湖の東、鈴鹿山系の麓・多賀で生まれ育った。二歳上に姉がいた。祖父金次郎は、そこからさらに東の、標高は数百メートルでそれほど高くはないが、相当、山深い所・字杉の出身であるから、私の父方のルーツは山の民である。そのせいか、どうか、私は今でも高い山を見ると血が騒ぐのである。十数所帯あったこのムラ―先年、ここを訪ねてくれた知人は、〈キノコの家のムラ〉と言ってくれたが―も、ついに廃村になってしまったのは、いかにも寂しい。

 父は、尋常高等小学校を出ると、大工の子は大工という祖父の古風で頑固な考えで大工となった。中学校へ行ってもっと勉強したかったという述懐は、子どものころよく聞かされた。

 父一九歳のとき、初めて胆石の痛みを覚えて以来、終生、この苦しみー胆石の痛みの激しさはよく知られているが、父もよくうめき、のたうちまわったーからのがれることはできなかった。痛みがくると、祖母は蒸し器でこんにゃくを熱くして、それをタオルにくるんで父の患部に当てたりして、痛みを散らしていたが、それでもおさまらないときは、医院に駆け込んだり、往診してもらったりして、モルヒネを打ってもらっていた。四二歳―私は小三―のとき初めて手術をしたが、モルヒネを常用していたためか、麻酔がほとんどきかず、いわば生身のままの手術であった。医者に言われて手術室に祖父が立ち会った。しかし、この気性の激しかった祖父でさえ、息子の苦しむ様子に耐えられず、代って祖母が最後まで息子の手を握って励ましたのである。余談になるが、このとき以来、男はふだんはいばっていても、いざとなると、案外あかんもんやな、と思うようになった。

 痛みのため衰弱が激しく、結局、手術は中途半端なものに終ったようで退院するまでに再び胆石の痛みが出た。五〇歳半ばで二回目の、六〇歳半ばで三回目の手術をし、首尾よく回復しかけているときに、肺ガンに見舞われ、あの世に旅立った。六七歳であった。父が死んだとき、二人の叔母(父の姉と妹)は「義ちゃん、やっと楽になれたなぁ」と、泣きくずれた。

 このように大工の父が病弱で床に臥すことが多かったので、我が家の台所事情は苦しかった。敗戦直後に生まれた、二つ下の弟は、生後一年で病死し、続いて母もさらに二つ下の妹を産んですぐに死んだ。その妹も、母乳もなく、おそらく戦後直後の混乱と我が家の貧困のため十分な栄養もとれなかったのであろう、祖母の懸命の介護の甲斐なく、わずか三歳で死んでしまった。子ども心に、人の命というのはあっけなく、あっという間に消えてしまうものだと思うようになり、後年、丈夫で長生きしている人が不思議に思えたほどである。

 私はこのような家庭で育った。祖母も父も、それこそ日々の生活に苦しんできた庶民であった。私たち子どもにとって優しい人であった(病気のときなど、父は理不尽に子どもを叱るときもあったが)。これは、本当にありがたいことであったと思う。

 しかし、その祖母・父がときに偏見と差別意識を垣間見せるのである。めったにあることではなかったが、茶の間で部落出身者のことが話題にのぼるとき、そっと四本指を出す。初めはなんのことかまったくわからなかった。そのうちこのしぐさが、被差別部落の人びとをさす、差別的な符牒であることがわかりはじめ、その独特のしぐさゆえに話の内容ーもちろん、今思えば偏見に満ち満ちたものであったーから感じる以上に、部落の人びとは得体の知れない、異質で触れてはいけない怖い存在であると、次第次第に思わされるようになった。「あの人らは近親婚が多い」ということを、何回か聞かされたのをよく覚えている。これが、部落民ならやりかねないという予断と偏見に基づくものであることを知るのは、むろん、あの発言問題のあとで部落問題の学習をするようになってからである。

 父はまた、「部落のもんは恐い。何かあったらすぐ大勢で押しかけてきよる」と言っていた。そうした言い方に祖母も異を唱えるどころか、暗黙の了解をしていた。このようなしぐさや会話、そのときの形容しがたい独特の雰囲気を通して、実際に確かめたこともないのに、疑うことのできない「事実」として心の奥深くに沈澱していったのである。

 こうした祖母や父が、他方では、たとえば福井県の方から来て、宿がなくて困っている人を心安くただで泊めたり、気の毒な人の世話を親身になってするのである。このやさしい人情が被差別者にまではなかなか届かないところが、生活に苦労しながらも差別社会にどっぷりとつかってきた庶民の悲しさであろうか。

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 一九五〇年代の、まだ戦後民主教育の明るさと自由さが残っていたときに、私は小・中学校時代をすごした。幸い先生にも恵まれ、のびのびと楽しい学校生活を送ることができた。「学校は劇場のように楽しいところでなければならない」というような言葉がある。田舎育ちの私は、劇場は見たこともなかったが、今思うと劇場のように楽しかった。

 小学校四、五、六年の担任は、当時、大学出たてで、今もなおお元気で、とくに「障害」児のための教育に情熱を燃やしておられる岩崎修先生であった。この先生のもとで私たちクラスメイトは、いっそう楽しく、充実した、生涯忘れることのできない日々をもったのである。先生は、一人ひとりの子どものおかれている立場をよく配慮され、その子どもたちの個性を伸ばす教育をめざされていたと思う。

 中学校でも担任の山本惣歳先生―理科がご専門であったが、数学も教えられ、絵画と短歌に長じておられたーをはじめ、優れた先生にめぐりあえたと思う。時代もよかったが、こうした先生方に出会えたことは、まことに幸せであったと言わなければならない。

 けれども、こと部落問題に関しては、小・中・高の学校で、さらには大学・大学院においても、きっちり教えてもらった記憶はないのである。確かに岩崎先生や山本先生には、人権意識についてのバックボーンとなる事柄については、教えていただいた。そして、人権教育にとってこの土壌となるような分野での指導が必要かつ重要であることは、いうまでもない。そのことをふまえたうえでも、さきにみたような私の部落問題についての意識状況、つまり偏見にとらわれていた状況をふりかえるとき、なおかつ適切な部落解放教育が行われていたら、もっとすばらしい学校生活をすごせたのに、と残念に思われるのである。

 すでに高知県では福祉教員制度がかちとられ、広島県では吉和中学校事件が起こり、「同和」教育の推進に拍車がかかり、その翌年の一九五三年―当時、私は小三であったーには、全国同和教育研究協議会が結成されていた。その影響が、滋賀県の湖東地区にも及んでいたら、とついつい思ってしまうのである。

 高校に入学してすぐ、身上調査書を提出させられた。当時は、親の職業欄があった。そこへどう書いたらよいか、父に相談してみた。自分の仕事にあまり誇りをもてなかった父は、「大工と書くのもなんやから、建築士とでも書いといたらどうや」と言った。私も、当時、大工という親の仕事にひけめを感じるというゆがんだ職業観をもっていたので、父の言うとおりにしたことを憶えていろ。

進学校であった高校では、人権教育というのはほとんどなく、むしろ体制としてはいわゆる受験の学力を身につけさせることを主要な目的とした教育、競争主義の教育が行われていたように思う(実力試験などの後では、必ず、よく見える廊下の壁などに、成績のよい順に三〇人ないし五〇人の名前が貼り出された)。

一九六三年四月、私は阪大文学部に入学した。現在と違って当時は、部落問題論や同和教育論などの講義科目はなかった。一回生か二回生のとき、私の友人が、「自分の高校時代からの知り合いが和歌山県の部落出身者で、恋愛問題で悩んでいるが、どう相談にのってやったらよいのか、わからん。おまえ、わかるか?」と、訊いてきたとき、答えられなかったし、また、そのことをきっかけとして、深く考えようともしなかった。今思うと恥ずかしいかぎりである。

また、別の友人から「同和問題って知ってる?」と尋ねられたさい、一瞬、「童話」のことかなと思ったこともある。私の家では、蔑称語が使われていたから、「同和」という言葉にはあまりなじみがなかったのである。その友人が貸してくれた本が、部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動』(一九六五年)であった。しかし、これは分厚すぎて、ちゃんと読まなかった。

このような意識状況であったから、学生の自治活動にかかわるようになり、それなりに社会問題に関心をもつようになって、民衆史の立場から日本近世史の研究を進めようとしていたにもかかわらず、「特殊部落」という言葉のもつ意味すら理解することができなかったのである。

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教育学科の教授の発言問題をきっかけに、現実のなまなましい差別の実相が少しずつみえてきた。それは驚くべき現実であった。そのことを知らず、また知ろうともしなかったことが、いかに恐ろしいことであるかに気づきはじめた。こうして私の意識の変容が徐々に始まったのである。

「部落問題を学ぶ」というところから出発して、最近になってようやく「部落問題に学ぶ」という視点の大切さがわかるようになった。大学時代、「僕の父は、神大工や」(実は祖父が神大工に弟子入りしたにすぎないのに)とか、「大工の棟梁や」(祖父が棟梁とよばれていたにすぎないのに)と、父の職業について粉飾した言い方をしたこともあった。部落問題に学ぶ過程で、「父の仕事は大工です」と、胸をはって言えるようになった。また、貧乏が恥ずかしいのではなく、病気や「障害」や出身などの事由によって差別・疎外し、貧乏に追い込むような社会が恥ずかしいのだ、と考えることができるようになった。これは、私の得たことの、ほんの一端である。

差別意識と偏見からの自己解放の道程は、まだまだ遠い。山歩きを楽しむように一歩一歩、踏みしめていきたい。

(一九九〇年六月)

寺木伸明(てらき のぶあき)

一九四四年生まれ。一九七二年、大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得。同年、大阪府立吹田高等学校定時制教諭、大阪市教育研究所所員をへて一九七九年、桃山学院大学教員、現在に至る。著書に『人権のあゆみ』(共著、山川出版社)、『近世部落の成立と展開』『部落史の見方考え方』(解放出版社)、『被差別部落起源論序説―近世政治起源説の再生』(明石書店)など。

出会い-私と部落300万人-(1991年3月19日発行)より