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2007.06.05

人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡


敗戦を前にして-芦田均からのハガキ


 福岡市馬出  松本治一郎様
 神奈川県鎌倉市大佛常盤山 芦田均

  折にふれて思ひ(い)出し 君に逢いたく存居候(ぞんじおりそうろう)
  次回御出京の節は枉(ま)げて御来駕被下度(ごらいがくだされたく)待ち居候(まちおりそうろう)
 御健祥を祈上候(いのりあげそうろう)

   六月一日 拝具

注: ( )内に、現代表記および読み下し文を補っている。

 松本と親交のあった人々との心温まる交流を窺うことのできる書簡の一つである。政治家では、芦田均と戦前から親交があったようで、敗戦を前にして松本の来訪を請う1945年六月一日付ハガキが残されており、とても貴重なもの。

 芦田は1931年、柳条湖事件の勃発に戦争への危機感を抱き外交官の辞職を決意、翌32年、立憲政友会公認で衆議院選挙に立候補し当選。外交問題について軍部の圧力に屈しがちな政府の外交方針に鋭く迫ったこと、1935年、美濃部達吉排斥運動が起きたとき、美濃部を擁護するため率先して奔走したこと、1940年、反軍演説をおこなった斎藤隆夫が懲罰動機により除名されたとき反対票を投じたこと、同年、大政翼賛会運動が起こったときには、議会政治を否定するものとして翼賛議員同盟の結成に参加せず、尾崎行雄、鳩山一郎、川崎克らと(同交会)を組織し、1942年の翼賛選挙には非推薦で出馬し当選したことなどが筋金入りのリベラリスト・民衆政治家として高く評価されている。

 1943年、芦田は、戦火が激しくなるなか東京都牛込区牛込中町を引き払い、鎌倉常盤山の友人菅原通済の別荘に疎開し、そこで敗戦を迎えた。1944年9月29日から、後に貴重な歴史証言として有名になる『芦田均日記』が書き始められるが、すでに周囲から戦争処理内閣の外務大臣として推される動きが記されている。

 松本宛のハガキは残念ながら『芦田均日記』には触れられていないが、同日記の1945年6月1日のページには「昨日は久しぶりに横須賀線が復旧したので朝の汽車で東京に出た。途上に見た横浜の変貌は心を痛ましめる。一面の焼野原がかつての関東震災の日を偲ばせた。・・・(中略)・・・牛込の旧宅も26日に烏(う)有(ゆう)に帰したと聞く。かようにして昔の東京は殆んど影を潜めた。顔を合せて談(かた)りたい友はあっても、逢うべき場所も焼け落ちている。偶々(たまたま)逢うことはあっても恐らくは煎茶の一杯さえ飲むつてもあるまい。落莫(らくばく)たる街のたた住居である。」と記され、日本の戦後復興にむけて、旧友・松本の意見を是非とも聞きたかったにちがいないと推測される。

 敗戦、1945年9月4日、第88回帝国議会が招集され開院式が行われたその日に、芦田は質問第一号として「大東亜戦争を不利なる終結に導きたる原因並其の責任の所在を明白にする為政府の執るべき措置に関する質問主意書」を提出した。

 同日、質問第二号として松本が提出した「戦災者救済ニ関スル質問主意書」は、「大東亜戦争は、我国歴史に類例なき大敗北を以て終結を告げた。而して戦禍は全国土に及び空襲により焼爆せられたる戸数は230万戸、罹災せる同胞の数は実に1千万人に垂んとしている。これら戦災者の多くは直ちに一家を構える能はず。家族を分散せしめ或は他家に同居し又焼跡にささやかな仮小屋を急設して文字通り着のみ着のままにて僅かに雨露を凌いでいる悲惨極まる状況にある。・・・(後略)・・・で始まり、一、陸海軍高級将校が軍需物資を隠匿、又は私物化して売却した責任の追及と調査、二、仮設住宅の建設の促進、三、軍需工場鉱山の寝具等を回収して戦災者に給与せよ、というもので、後に総理大臣に就任する芦田、鳩山一郎をはじめ、「反軍演説」で知られる斎藤隆夫や「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄、戦後社会党再建に力を尽くした水谷長三郎、西尾末廣など、三一名が賛成者に名を連ねた。

 戦後、芦田は1946年自由党から出馬し当選、敗戦直後の日本政治の中心人物の一人だった。憲法改正特別委員会委員長に就任し、憲法制定に関与した。芦田は、日本国憲法第九条第一項の戦争放棄を確実なものとするため、軍隊保持を禁じている第九条第二項に「前項の目的を達するため」という語句を加えた(芦田修正条項といわれる)。改正憲法案は衆議院貴族院両院の審議にかけられ、両院三分の二以上の賛成を得たのち、1946年11月3日公布された。

 1947年自由党からただひとり脱党して、日本進歩党と共に民主党を結党、党総裁に就任し、片山哲内閣の外務大臣就任。1948年3月10日に内閣総理大臣に就任するが、昭和電工事件に捲き込まれ、10月7日に総辞職、12月7日芦田自身も逮捕(後に無罪判決)。1959年6月20日、芝・白金の自宅において死去した。

 『芦田均日記』の1948年1月6日のページには、「快晴 外務省へ行き弁当を食い、午後は有楽座へ行って(松本治一郎氏への義理で顔を出した)破戒を一時間許り見た。」とある。1948年1月2日から25日間東京の有楽座で上演された『破戒』は、丑松を宇野重吉、猪子蓮太郎を滝沢修、お志保を山口淑子が演じ、連日満員の盛況で、のべ6万人をこえる観客を動員したが、松本は参議院議員全員と衆議院の社会党議員、首相の片山哲以下全閣僚を招待した。このときのことを記したものだった。


参考文献

芦田均著、進藤栄一ほか編纂 『芦田均日記』第一~二巻、岩波書店、一九八六年
宮野澄著『最後のリベラリスト・芦田均』文藝春秋、一九八七年

本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)