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2008.07.16

人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡


春先の草の芽のように生き生きしている
―世界平和と社会主義の実現をめざして


 春暖の候となりました。貴下にはその後ますます御活躍のことと存じます。私こと本年1月1日、外務省のあらゆる妨害をけってビルマに赴き、さらにインド、パキスタン、イラン等のアジア諸国を見学したのち、ヨーロッパを経てチェコスロバキアに赴き、さらにソ連を経て中国に参りました。

 中国に来てみて、あらゆるものが面目を一新し、各方面で大規模な建設が進み、人民の生活は向上し、また人民の生活態度も全く変り、春先の草の芽のように生き生きしているのには驚きました。それとともに、それらの建設が平和のためであり、世界平和確立のためであるという国民の確信が強いことです。どこの工場、学校、商店、どこのどんな機関施設に行っても「世界平和を守ろう」ということが、一番大事な、もっとも中心的な要求として掲げられておりました。特に日本の平和運動に対する中国人民の期待は非常に強く、中国人民の強いこの平和の要求からみても、「アメリカの引揚げた後に、中国が攻めてくるだろう」といった一部の人々の考えの全く間違いであることがわかります。中国は平和一色に塗られているといっても過言ではありません。ここに来てはじめて吉田政府がなぜ私達の中国行を妨害していたかがわかりました。私はこれからも中国の各地を旅行し、私の見聞したままを皆様にくわしく御報告申上げたいと存じます。

 取あえず、御挨拶方々近況お知らせまで

 3月15日 北京にて 松本治一郎

 松本治一郎は、1953年1月1日、日本を発ち、ビルマ・ラングーンでの第1回アジア社会党会議へ参加、さらに足を伸ばし、インド、パキスタン、イラン、チェコスロバキア、ソ連を経て、2月25日、新たに社会主義国となった中華人民共和国にたどり着いた。

 北京に到着すると、松本は「わたくしは、アジア太平洋地域平和連絡委員会副議長の義務をはたすためにここに到着しました。…日本と中国とはわずかに700キロしかはなれておりません、それにもかかわらず、われわれははるかに長距離をとおまわりしてこゝにやってこねばなりません。われわれはたくさんの無駄な旅行をせねばなりません。これは吉田反動政府がおしつけている妨害によるものです。…私は宋慶齢議長、劉寧一書記長、各地の平和戦士の心からの援助にふかく感謝するものです」との声明を発表した。冒頭の文章は、松本治一郎記念会館旧蔵資料に残されている、1953年3月15日付の松本本人によって北京から送られてきた近況報告ハガキで、念願の新中国訪問が実現した喜びと中国の社会主義建設の息吹が伝わってくる。

 松本は、戦前、1936年2月20日に実施された第19回総選挙に無所属で立候補し当選した。直後の2月26日に、2・26事件が勃発、軍部ファシズムの危機が高まると、社会大衆党(安部磯雄、麻生久、水谷長三郎、杉山元治郎、片山哲、浅沼稲次郎ら無産政党の右派と中間派が合同して32年7月結成)と労農無産協議会(加藤勘十、鈴木茂三郎ら左派が36年5月結成)の提携を軸に、全被圧迫人民大衆の反ファシズム統一戦線を結成するため、力を尽くした。翌37年には、山川均、尾崎行雄、政友会、民政党を訪れ、議会政治の擁護を訴えたが、7月7日、日中戦争が勃発、人民戦線運動はつぶされた。

 敗戦後、日本社会党の結成を目指して、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らが最も早く行動を起こし、「ブルジョア政党と共産党のあいだのすべての勢力の結集」という構想は、やがて統一した1つの社会主義政党をつくることに話がまとまり、ほかに、河上丈太郎、片山哲、浅沼稲次郎、三輪寿壮、河野密、杉山元治郎らとともに松本が世話役に選任された。こうして1945年9月14日、日本の社会主義運動、労農運動の先駆者たる三長老、安部磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦の連名になる呼びかけ文が発せられた。文面は9月22日、新橋駅前の蔵前工業会館において会合を開くので万障を排して出席されたいというもので、この会には全国から約200名が集まり、松岡駒吉の座長のもと進められ、事実上の日本社会党結成準備懇談会となった。

 松本治一郎が早い段階で世話役に選任されていたことは、彼が戦後の社会党の結党においても大きな役割が期待されていたことを裏付けるもので、この歴史的な呼びかけ文が、結党宣言文とともに残されている。

 1945年11月2日、日本社会党結成大会は、日比谷公会堂に全国から2000名を集めて開催された。準備委員会を代表して浅沼稲次郎が開会の辞を述べ、議長に松岡駒吉、副議長に松本と杉山元治郎が選ばれた。各議案が可決された後、野溝勝によって「宣言」が読み上げられ、満場一致で採択された。宣言は、「同志諸君、既に民主主義革命の歯車は回転しはじめた。やがて社会主義革命の歯車とがっちり組合って、新日本建設の一大運動は前進する。吾等は過去に於て存分に発揮し得なかった力を此際、此処に凝集して運動の中心勢力たらしめ、吾我団結の力を以て内には国民安堵の理想郷を実現し、外には人類が地球を廻って輪踊りする平和郷を創ろうではないか。日本社会党の門扉は広く天下に開放されてゐる。全国の勤労大衆諸君、来って吾等と共にこの歴史的偉業に協力せよ」と呼びかけた。

 結成大会では、三役のうち、委員長は空席、書記長に片山哲、会計に松本が選出された(中央執行委員には、田原春次、上田音市が選出されている)。日本共産党を除く、戦前の無産政党の大同団結がここに実現したが、執行部17名のうち、左派は加藤勘十、黒田寿男(ひさお)、鈴木茂三郎、松本の四名にすぎず、右派の力が強かった。

 松本は46年9月の第2回党大会でも、副議長をつとめた。委員長に片山哲、書記長に西尾末広を選出、松本は会計に立候補したが、投票で破れ顧問に就任した。

47年、マッカーサーによる「2・1スト中止声明」を受けて、「解散・総選挙勧告」がだされ、新憲法の発布を控えた四月、最初の参議院選挙と第2回総選挙が実施された。社会党は参議院で47人、衆議院で143人が当選、第1党となり、6月1日、史上初めて、社会党委員長の片山哲を首班とする社会、民主、国民協同3党の保革連立内閣が成立した。

 日本国憲法下の最初の政権となった片山内閣は、民法の改正、司法省の解体と最高裁判所の新設、不敬罪・姦通罪などを廃止した新刑法の制定、内務省の解体と地方自治の確立、自治体警察を中心とした新警察法の制定、労働者災害補償保険法の制定、児童福祉法の制定、労働省の設置など、新憲法の精神を具体化する新制度の創出に大きな役割を果たした。また、経済安定本部長官に和田博雄を起用、計画・統制経済による経済の再建をめざし、経済緊急対策の策定と第1回経済白書の発表(都留重人ほか執筆)、臨時石炭鉱業管理法の制定に取り組んだ。

 社会、民主、国協、自由の4党合意によって片山連立内閣の閣僚から社会党の左派は排除されていたが、松本は鈴木茂三郎とともに左派の議員を結集して1947年5月に5月会を結成、公職追放となった平野農相の後任に左派の野溝勝の就任を要求、48年1月の第3回大会では、4党政策協定の破棄、戦時公債利払い停止、官公吏の生活補給金2.8ヵ月の財源をめぐって、右派と対立した。松本はこの大会でも副議長をつとめるとともに、一時、左派の委員長候補として片山哲の対抗馬にも名があげられていた(人事では、左派から書記長に加藤勘十、会計に田中松月が立候補したが、右派に敗れている)。

 2月10日、片山内閣は総辞職し、民主党の芦田均総裁を首班とする社会、民主、国協三党連立内閣が発足したが、昭和電工の疑獄事件が発覚し、10月7日、芦田内閣は総辞職、自由党の第2次吉田茂内閣が発足して、戦後長期保守政権が始まった(この時、社会党の西尾国務相の不信任案に賛成した黒田寿男、中原建次、荒畑寒村らの社会党議員は離党し、労働者農民党を結成した)。

 この時期の社会党をめぐる資料として重要なものとして、山川均からの書簡が残されている。山川は、阪本清一郎、西光万吉らと交流があり、1922年全国水平社創立大会を傍聴、『前衛』に「特殊民の権利宣言」を発表して、自主的解放運動への共感を示すとともに、労農派の指導者として無産運動に大きな影響をあたえた。

 敗戦を迎え、山川は、1946年1月、『民衆新聞』に「人民戦線の即時結成を提唱す―民主主義の徹底を要求するすべての政党、労働組合、農民組合、文化団体、言論機関および全国の同志に訴える」を発表、民主人民戦線の結成を提唱した。3月10日開催された民主人民戦線の世話人会には、石橋湛山、長谷川如是閑(にょぜかん)、横田喜三郎、安部磯雄、高野岩三郎、大内兵衛、末川博、細川嘉六、野坂参三、荒畑寒村らが参加、山川はみずから民主人民連盟委員長となった(副委員長に荒畑寒村)。社会党関係では松本のほか黒田寿男、水谷長三郎にも呼びかけを予定していたという。しかし、戦後再建された共産党は、天皇制の打倒、人民共和政府の樹立を掲げ人民解放連盟を提唱。松本ら社会党の左派は、社会党を中心とし共産党を加えた民主戦線政府を主張。第1次吉田茂内閣の発足とともに、社会党は救国民主連盟を結成し、民主人民連盟は、総同盟、日本農民組合、部落解放全国委員会とともに救国民主連盟に加わった。社会党と共産党の対立に加え、山川自身が病気で活動ができなかったこともあり、民主人民連盟は47年解消、山川は同年『前進』を創刊し、社会党に入党した。社会党に入党した後の47年12月28日、山川は当時住んでいた神奈川県足柄下郡下曽我村(現小田原市)から松本宛の書簡を送っている。社会党の現状を憂いながらも松本に期待をかけていた彼の姿勢が浮き彫りとなっている。

 しばらくごぶさたしていました。不断の御活躍の模様はつねに拝承いたし蔭ながら感謝してをります。

 社会党の近情はまことに痛心にたえないものがあります。おりから読売新聞の御高見を読みまして大いに意を強くするものがありました。社会党もこの際思い切った治療を加え一本筋金を入れておかないでは救うべからざるものとなります。このままではかんじんな労働階級からは日々に遊離するばかりです。いや既にいいかげん遊離しているのです。こんどは社会党を救う最後の機会として、この上とも大兄の御努力をお願いいたします。

小生も幸い健康もほぼ旧に復しましたので、来春はぜひ東京に帰りまして、きびに附して応分の努力をしたいと考へてをります。

 いづれ、来春御出京のせつにはお目にかかりたいと思います。

 では、社会党の前途、希望をいだきつつ新年を迎えましょう、御自愛をいのる。

 山川は、1951年社会主義協会を結成、『社会主義』を創刊、日本における社会主義の道について、次々と論文を発表、左派社会党綱領の策定に関与した。

 松本は、52年1月、左派社会党の第九回大会から社会党の顧問に復帰、松本を支持する党員は、57年1月に社会党へ復帰した旧労働者農民党グループと平和同志会(のち、安保体制打破同志会)を結成、左派社会党綱領の堅持、平和と護憲を掲げて闘った。

 その後、社会党は、「階級的大衆政党」規定や平和四原則(全面講和、中立堅持、外国軍事基地反対、再軍備反対)を確立したが、1951年10月、対日講和・日米安保条約の批准をめぐって、右派社会党、左派社会党に分裂、1955年10月に再統一した。総評とともに、日本平和推進国民会議(51年7月28日結成)、悪法反対国民運動連絡会(52年5月12日結成)、憲法擁護国民連合(54年1月15日結成)、日中国交回復国民会議(57年7月27日結成、代表委員に松本ほか)、安保条約改定阻止国民会議(59年3月28日結成)などを組織、国民運動の高揚に中心的な役割を果たした。

 松本は、1952年10月2日から12日にかけて北京で開催されたアジア太平洋地域平和会議で設立されたアジア太平洋地域平和連絡委員会の副議長の1人に選ばれた。また、五二年10月24日付で、世界平和評議会書記長、ジャン・ラフィットから、12月12日からウィーンで開催される「諸国民平和大会」への招待状が届き、53年7月7日付で、大山郁夫、淡徳三郎(だんとくさぶろう)の連名で松本宛に世界平和評議会の評議員に選出されたことを知らせる内容の書簡が届いた。

 拝啓 御健勝のことと存じます。

 私たちは5月中旬日本を出発、パリ、コペンハーゲンを経て、6月15日より20日まで、ブダペストの世界平和評議会に参加しました。日本を代表して参加したのは、大山郁夫、淡徳三郎、山本熊一、羽仁五郎、米川正夫、亀田東伍、大山柳子、羽仁説子、赤松俊子の九名でございます。会議は話し合いによる平和によって国際緊張を緩和するため各国平和擁護運動者のなすべき任務について行われました。なお会議の最終日に新平和評議員の推薦がありましたが、そのさい、平和擁護日本委員会から、末川博、松浦一、戸沢鉄彦、今中次麿、羽仁五郎、布施辰治の六名が推薦され、世界平和評議会プラーグ事務局より、貴殿ならびに西園寺公一の御両名が推薦され、満場一致で可決を見ました[…]

 1926年12月労働農民党の委員長に就任、戦前社会運動の中心的な指導者の1人であった大山郁夫は、47年10月にアメリカから帰国。49年4月、パリとプラハで、「第1回平和擁護世界大会」が開催されると、日本でも「平和擁護日本大会」を開催、50年2月27日、大山郁夫、羽仁五郎、中野好夫、細川嘉六らによって「平和を守る会」が結成された。8月6日には、平和懇談会を開催、「平和擁護日本委員会」(会長・大山郁夫)に改組した(56年6月「日本平和委員会」と改称され、代表委員の1人に松本が就任した)。50年11月「第2回平和擁護世界大会」で、世界平和評議会が創設され、評議員・理事に日本から大山が選出された(大山は50年6月、参議院議員に当選、「戦争宣伝禁止法案」を提出している)。

 1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で第五福竜丸が被爆、全国各地で原水爆禁止署名運動が展開され、55年8月6日、「第1回原水爆禁止世界大会」が開かれた。世界平和評議会は、54年11月、ストックホルムで、原水爆禁止をテーマに総会を開催、松本は中国、ソ連を経て、総会に参加し、世界平和と原水爆の禁止を訴えた。

本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)