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人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡 |
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民族教育への弾圧を乗り越えて
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1952年10月22日、東京都立朝鮮人学校連合運動会に、松本は花環を贈呈し、関係者から感激と感謝をされた。
やや長文にわたるが、重要な内容を含んでいるので、礼状の全文を掲載しておく。
手紙にあるように、戦後、在日朝鮮人の子どもたちに対する教育は非常に困難な状況に追い込まれていた。1949年九月、法務総裁は団体等規制令違反を理由に在日本朝鮮人連盟(朝連)の解散を命じ、10月には、文部省管理局長・法務省特別審査局長共同通達を出した。 その内容は、<1>旧朝連設置の学校については廃校になったとして処置する、<2>無認可の朝鮮人学校(民団系含む)に解散を勧告し、応じない学校は二週間以内に私立学校の認可申請をしなければ閉鎖する、というものだった。 10月19日には「(第二次)学校閉鎖令」(92校)を発布し、多くの朝鮮学校を武装警察官によって強制閉鎖した。また、11月4日「改組令」(245校)を強要し、学校改組の勧告に応じない学校を自動的に閉鎖し、ついで私立学校認可申請手続きをした128校については、文部省で一括審査し、大阪の1学園3校(白頭学園建国小・中・高)以外をすべて不認可として閉鎖を命じた。 同年11月20日、東京都教育委員会は、「東京都立朝鮮人学校設置に関する規則」を制定し、「朝鮮人学校取り扱い要綱」を発布した。これにより、都内の朝鮮学校14校はすべて都立学校になった。55年3月には、東京都立朝鮮人学校などそれまで公費で運営されてきた朝鮮学校を在日朝鮮人の自主的運営に戻すという名目のもと、都立朝鮮人学校は、14校すべてが廃校となり、自主学校に移行した。同年に在日本朝鮮人総連合会(総連)が発足し、朝鮮学校は再建されることになる。 参考文献 枝川裁判支援連絡会編『とりあげないでわたしの学校 枝川朝鮮学校裁判の記録(第一集)』樹花舎、2006年 |
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本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)
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