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人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡 |
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アジア太平洋地域平和会議の舞台から
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平和を愛する祖国日本のみなさん。私は劇団前進座の中村翫右衛門です。中村翫右衛門はいま北京に参りました。私はみなさんに守られて民族芸術の発展に努力を続けて参りました。・・・(中略)・・・私はしばらく舞台からお逢いすることはできませんが、皆さんの平和を愛する力に守られて、困難な道を切り抜け、アジア太平洋地域平和会議の日本代表として、平和の都、北京にいま立っております。 1952年9月29日、北京から故国日本へむけて劇団前進座中村翫右衛門(かんえもん)の声が放送されたときのものである。 翫右衛門は、歌舞伎界の改革をめざし、1931年5月22日、東京で発足した劇団前進座の創立者の一人である。この当時すでに、前進座は、歌舞伎十八番「勧進帳」、「助六」、「暫(しばらく)」、「鳴神(なるかみ)」、「毛抜」や、「元禄忠臣蔵」などの歌舞伎にとどまらず、時代劇、現代劇、児童劇と多彩なレパートリーをもち、有名な舞台だけでなく、学校や労働組合をはじめ全国津々浦々を巡業、映画にも進出、幅広いファン層に支持されていた。 前進座は、三階大部屋といわれた歌舞伎の下積み俳優たちの支持をえて、歌舞伎世界の封建制打破を求めて起ちあがった人々によって結成された。当時、歌舞伎の世界には、名題(なだい)、名題下(なだいした)、上分(かみぶん)、相中(あいちゅう)、新相中(しんあいちゅう)、子役という江戸期からの身分制度がうけつがれていた。また、身分制度とは別に、1895年の法令によって、俳優は一等から八等までの等級をつけられていた。等級は身分制の階級に準じていたが、東京俳優協会が等級をつけて警視庁に申請し、営業鑑札が交付された。また等級は松竹から支給される最高1万円以上から最低25円の月給にもほぼ対応していたという。 前進座結成総会の決議では、「一、経済を明らかにすること。すなわち経済を公開し、秘密が常識になっている俳優の給料も、総会で決めること。二、歌舞伎の身分制度を廃止すること。すなわち歌舞伎の師弟主従関係の悪い面を整理して、実質本位にかえること。三、人間としては同じ権利をみとめること。すなわち劇団の組織を合理的にし、全員どんな仕事でも、相互に助け合うこと」を掲げた。創立メンバーには、翫右衛門のほか、河原崎長十郎、山岸しづ江、中村亀松、市川笑也、市川笑太郎、村山知義ら30名が名を連ねた。第一回の旗揚げ興行は、1931年6月12日から28日まで、東京・市村座で行われ、出し物は、歌舞伎世界の封建的体質を内部から暴いた「歌舞伎王国」であった。 信州の疎開先で敗戦を迎えた前進座は、トラックで学校、工場、会社をまわり、舞台を組み、公演を行う青年劇場運動から再出発した。ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、シェークスピアの「ベニスの商人」「真夏の夜の夢」などをとりあげ、全国の学校をまわった。「ベニスの商人」の公演は600回、観客動員100万人に達したという。 さらに、少年劇場運動、子ども劇場が生まれた。 1949年3月には、「一、よき演劇人としての日本民族の文化を守れ! 一、大衆に学び、自己批判し、つねに闘争を誓って働こう。 一、千人には千人に楽しまれ、よろこばれ、わかりやすく、働く力となる芝居を大衆のなかへ!」などのスローガンをかかげ、その実現を求めて、座員とその家族71名(あとから4名が加わり75名)が日本共産党を支持し入党した。 1952年5月、北海道赤平(あかびら)町で翫右衛門が演ずる「俊寛」巡演中、警察の組織ぐるみの妨害によって学校の講堂での公演を家宅侵入罪とされ、一行に逮捕者がでた。 翫右衛門にも逮捕状がだされたが、警察官が公演会場を取り巻くなか、巡演の先々で群衆にまぎれて会場に入り、舞台に立つという離れ業をみせたものの、ついに警察官が公演会場を襲撃し、支持者との間で衝突に発展、負傷者もでるに至り、潜行した。その後、亀田東伍とともに小さな漁船で密出国し、アジア太平洋地域平和会議に参加するため北京に来ていた。 アジア太平洋地域平和会議は、宗慶齢・郭沫若ら中国の平和活動家11名からアピールが発せられ、朝鮮戦争の即時休戦、対日全面講和の締結、民族独立、五大陸平和条約の締結など、戦争に反対しアジア太平洋地域の平和を守るため、中華人民共和国建国後はじめての大きな国際会議として開催された。平和を愛する関係諸国の代表や人民が一堂に会し、10月2日から12日にかけて首都北京でひらかれた。大会の会場は中南海の懐仁堂で、会場の正面にはピカソの鳩が描かれた。参加者は37カ国の正式代表367名、オブザーバー37名、来賓四カ国代表23名、総計427名の多数に達した。 日本からは各界階層各地域を代表する493名もの日本代表候補が選出され、このなかから、松本治一郎を団長とする60名の大型代表団が組織され準備が着々と進められていたが、日本政府は旅券の発行を拒否、松本は旅券の発給を請求する訴訟をおこして闘った。結局、松本は参加できなかったものの、日本からは14名の代表団が参加した。副団長に前進座歌舞伎俳優の翫右衛門、一橋大学助教授で心理学者の南博、大会副書記長に大化学労組執行委員長の亀田東伍、団員に世界労連アジア・オーストラリア連絡局日本代表の金子健太、巴商事常務取締役の桜井英雄や青年代表たちであった。翫右衛門は大会議長にも名を連ねた。大会に参加できなかった日本代表団長の松本は、「会議の開催に心からのお祝いをのべる。アジア太平洋の平和のために諸君とともに努力をつづけます」とのメッセージを送った。 アジア太平洋地域平和会議は、「世界人民に対するアピール」、「アジア・太平洋地域平和会議から国連へのメッセージ」、「日本問題決議」、「朝鮮問題決議」、「文化交流決議」、「経済関係決議」、「民族独立問題決議」、「婦人の権利と子どもの福祉決議」、「五大陸平和条約締結運動強化決議」、「アジア太平洋地域平和連絡委員会の設立決議」、「世界平和人民大会の招集支持決議」の9決議、2アピールを可決し、閉会した。 アジア太平洋地域平和会議で設立が決議されたアジア太平洋地域平和連絡委員会には、議長には宋慶齢(中国)が、副議長にはアニシモフ(ソ連)、郭沫若(中国)、パブロ・ネルーダ(チリ)ら11人が選ばれたが、その一人に松本が選出された。書記長には劉寧一(中国)、副書記長には亀田東伍、委員に翫右衛門、金子健太、南博らが選ばれている。 アジア太平洋地域平和会議開催中の10月6日、アジア民族親善協会準備会とアジア太平洋地域平和会議日本準備会の共催で、アジア民族平和円卓会議が後楽園涵徳亭で開催されたが、このとき、翫右衛門の息子で若き日の梅之助(のち「遠山の金さん」のテレビ放映で全国的に有名になり、現在、前進座座長)が、「このような平和愛好者たちの支持のもとに、父も安心してたたかえることと思います」と訴える声に人々は皆拍手を送ったという。 12月17日には、アジア太平洋地域平和会議の成功をうけ、アジア太平洋地域日本平和連絡会の発足を呼びかける準備委員に松本も名を連ねている。 翫右衛門・亀田東伍は、大会後も北京に残り、日中の民間交流のために献身した。松本は、翌1953年1月、日本を発ち、ビルマ・ラングーンでの第一回アジア社会党会議に出席、さらに足を伸ばし、インド、パキスタン、イラン、チェコスロバキア、ソ連を経て中国に入り、翫右衛門・亀田東伍と再会、3月日本に帰国した。 帰国するやいなや、旅の疲れが癒える間もなく、松本は参議院議員選挙全国区候補として全国遊説に駆け回り、7位で当選、政界へ再び返り咲いた。 同年4月29日付で、翫右衛門・亀田東伍から松本あてに参議院選挙での勝利を祝う手紙が送られてきている。
1954年10月1日の国慶節に国会議員代表団として松本と一緒に訪中した社会党の鈴木茂三郎委員長が橋渡し役となり、日中の交流をさらに広げるため歌舞伎の中国公演が実現し、大阪歌舞伎座の松尾国三社長の尽力で市川猿之助一座が1955年9月29日訪中した。 その間、鈴木茂三郎委員長らの強いすすめもあり、翫右衛門は帰国を決意、古くからの前進座ファンである久原房之助(久原鉱業所[日立銅山]や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名をとった実業家)、北村徳太郎(片山哲内閣運輸大臣、芦田均内閣大蔵大臣)、馬島僴(産児制限運動を行った医者)、松本治一郎といった政財界の有力者の骨折りで、すでに赤平事件の当時の逮捕状は取り消されており、鈴木委員長と井谷正吉社会党代議士が身元引受人となり、11月4日帰国した。 翫右衛門に対する「建造物侵入」と「出入国管理令違反」の第一審公判は、1956年4月16日からはじまり、3年半余をかけて「懲役6月、執行猶予2年」の判決がだされたが、この間、各界90名を世話人に「中村翫右衛門をまもる会」が生まれ、公正裁判を求めて運動を展開した。世話人には、宇野重吉、佐藤春夫、杉村春子、室生犀星、山田五十鈴らとともに松本が名を連ねた。 帰国後、巡業先の久留米から1956年3月15日付で前進座から松本に送られてきた肉筆のハガキが残されている。
上のような内容で、河原崎長十郎、坂東調右衛門、河原崎国太郎、市川岩五郎、中村歌門、生島喜五郎、瀬川菊之丞、中村公三郎、嵐芳三郎、橘小三郎の劇団員の名前が添え書きしてあった。 翫右衛門が帰国して丸一年を経過した1956年11月4日の日付で、印刷された挨拶状が松本にも送られてきている。
帰国後は、二度の訪中公演を実現、東京・歌舞伎座、国立劇場、日生劇場にも進出するなど、1982年に亡くなるまで、演劇の発展に尽くした。1972年「出雲の阿国」、1974年「さんしょう太夫-説経節より」、1979年「しのだ妻」などの上演も手がけている。 2007年1月3日から25日まで、京都・南座で毎年恒例の初春特別公演がおこなわれた。前進座創立75周年を記念し、翫右衛門の息子で現在座長をつとめる梅之助が口上を相勤め、幸田露伴原作「五重塔」、河竹黙阿弥作「魚屋宗五郎」が上演されたが、これも翫右衛門の当たり役の一つだった。 |
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参考文献
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本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)
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