|
|||
人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡 |
|||
隔離政策の撤廃を求めて
|
|||
現在、『近現代日本ハンセン病問題資料集成』戦前編全8巻、戦後編全10巻別冊1、補巻全15巻別冊1の発刊が不二出版より進められているが、その戦後編第2巻200頁に「松本治一郎・海野普吉宛来所依頼」1953年5月15日付)」が収録されている。松本治一郎記念会館旧蔵資料にも日本社会党全生党友会(多摩全生園内)の末木平重郎代表からの書簡が残されており、隔離政策の撤廃を求める闘いの一端を窺い知る貴重な資料となっている。
『資料集成』での解説(藤野豊執筆)を参考に、当時の動きを追ってみると以下のとおりとなる。日本のハンセン病問題は、1947年に大きな転換をとげたといわれている。この年、国立ハンセン病療養所栗生楽泉園(群馬県)の「特別病室」=重監房における患者虐待の事実が発覚し、8月28日第1回国会衆議院厚生委員会で日本社会党の武藤運十郎が8月27日付け(毎日新聞)の記事をもとに実態の調査を求めた。この問題は、隔離撤廃を求める入所者の運動の出発点となった。さらにこの年から日本でもハンセン病に対するプロミン治療が開始された。 戦後になっても隔離されたハンセン病患者は、公私の扶助を受ける者とされ、選挙権が奪われていたが、1947年4月に参議院が開設された際、こうした規定はなくなり、5月になって衆議院でも撤廃され参政権を手にした。 1947年8月11日、群馬県で行われた参議院議員補欠選挙に際し、政党として初めて、日本共産党の遊説隊が草津町にある栗生(くりゅう)楽泉園を訪れ、これを機に園当局に対する入所者の生活擁護の闘いがはじまった。栗生楽泉園で起きた重監房廃止と療養所の待遇改善を求める入所者の運動は、多摩全生園(東京都)にも波及し、9月9日には患者大会が開催された。この運動は、多摩全生園の全国組織結成の提唱に呼応し、1951年2月10日、栗生楽泉園も加えた7自治会で全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協)を結成、6月20日には、長島愛生園・邑久(おく)光明園(ともに岡山県)、大島青松園(香川県)の自治会も加わり、アメリカ施政下にあった奄美、沖縄、宮古の3園を除いたすべての国立療養所の自治会の全国組織が誕生した。 これまで不治と決めつけられてきたことが、すべての患者を終生隔離するという絶対隔離政策を正当化する理由の1つとされてきたが、ハンセン病の特効薬プロミンが1941年アメリカで開発され、その根拠が消滅することとなり、ハンセン病患者にとって希望の光となった。 長島愛生園では、1947年以来、10名の入所者にプロミン治療を行った結果、ひとりの女性が全快と認められ、1950年8月に退所するに至った。 1952年10月、全癩患協は国立ハンセン病療養所10園の入園者の総意により癩予防法改正促進委員会を結成し、政府など関係方面に「請願書」を提出し、「癩」を「ハンゼン氏病」と改称すること、強制検診・強制隔離の廃止、懲戒検束規程の廃止など15項目の要求を行った。さらに、11月13日には、第15回国会に左派社会党の長谷川保が「癩予防法」の改正を求める質問趣意書を提出し、1953年2月全癩患協の主張に沿った「ハンゼン氏病法案」を作成した。また、全癩患協は、全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会(全患協)と改称した。 これに対し、厚生省は長谷川案に対抗するべく、急遽「らい予防法案」を作成し、第15回国会に提出した。 1953年5月15日付の「松本治一郎先生 自由人権擁護協会・海野普吉先生」あての全国国立療養所入所者代表・鈴木寅雄からの書簡は、「癩予防法」の改正にあたり、強制隔離の撤廃の闘いにむけた切迫感がひしひしと伝わってくる文面となっている。
全患協傘下の各療養所自治会は、第15回国会に法案が提出された段階から、強制労働の拒否やハンガーストライキなどの多彩な行動で法案反対の闘いをすすめ、第16回国会の衆議院で法案が可決されると、厚生省前での座り込みを開始、7月31日には多摩全生園から350人の入園者が国会へ向けてデモ行進を敢行し、途中で警察官ともみあう事態となったが、「らい予防法案」は、1953年8月6日、第16回国会の参議院で自由党(吉田派)、自由党(鳩山派)、改進党、参議院緑風会などの賛成で成立、強制隔離を明記するなど、それまでの「癩予防法」以上にハンセン病患者に過酷な待遇を強いるものだった。それは日本国憲法下で基本的人権を否定するものに他ならなかった。 その後、新たな政府の強制隔離政策と世間の差別と偏見の困難な状況のなかでも、たゆみなく法改正をもとめて、全患協は闘いを進めてきた。日本社会党全生党友会(多摩全生園内)の末木平重郎代表からの1959年8月7日付松本治一郎あて書簡がその一端を伝えている。
「らい予防法」は、1996年4月1日に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」によってようやく廃止された。また、1998年7月には国立ハンセン病療養所のうち星塚敬愛園(鹿児島県)・菊池恵楓園(熊本県)などの入所者13名(平均年齢は当時71歳)が国を相手取り、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を熊本地裁に提訴し、2001年5月11日には、厚生省・国会の責任を認める原告勝訴の判決がだされた。 国は控訴を断念し、入所者に補償金が支払われることとなり、同年6月「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が成立した。また国は全国の新聞に2度にわたって謝罪広告を掲載、名誉回復と福祉増進、差別・偏見の解消、隔離政策の廃止の遅れや人権侵害の実態などハンセン病問題の検証に取り組むこととなった。 |
|||
参考文献
|
|||
本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)
|