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2007.12.18

人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡


身分差別はアジア共通の課題
―ラージボージ、アンベードカルとの出会い


拝啓

 この書簡をもって友情を新たにし、貴下が時々、行われている活動の全部を知らせて下されば幸甚です。小生在日中のご厚情に対し衷心より御礼申上げます。そして人民大衆の向上発展のための御尽力にたいし感銘を深くした次第です。

 私は、我国の被圧迫階級の指導者であり、貴下がなされている仕事とも関連のある印度政府前大臣であったアンベードカルにこのことを話しましたところ、彼もまた貴下がなされている仕事について知りたがっています。

 われわれ被圧迫階級の心を仏教に引入れたのは彼であり、仏教に多くの関心をもち世界の被圧迫階級や、被差別人民の状態に深い関心を寄せています。

 彼は日本訪問を希望し、われわれは彼の訪日の計画をたてました。何卒彼の訪問について貴下の考えを御知らせください。…(中略)…

 貴下が印度においでの節はよろこんでお迎え致します。

P・N・ラージボージ

 上は、1952年10月、世界仏教徒会議にインド代表の一員として京都に来ていた、インド被差別カースト解放運動指導者パンドウラング・ナスウジ・ラージボージが、帰国後、松本治一郎に宛てた手紙の訳文である。

 来日時のお礼と、アンベードカルの訪日および松本のインド訪問を打診する内容となっている。

 ラージボージは、被差別カースト出身で、当時、全インド指定カースト連合(AISCF)書記長でインド連邦下院議員でもあり、来日当時四五歳だった(全インド指定カースト連合は、「不可蝕民」の団結のため、アンベードカルらが、1942年7月ナーグプルで開催した全インド被抑圧諸階級大会で結成された)。ラージボージは、世界仏教徒会議終了後の10月7日、京都の部落問題研究所を訪れ、朝田善之助宅に1泊、和歌山から駆けつけた西光万吉らと語りあい、翌8日は田中と東七条の被差別部落を視察、午前10時半、京都駅ホームで、福岡から東京へ上京する途中の松本と会見した。アジアにおける身分差別撤廃運動の2人の指導者が固い握手を交わし、抱き合い、アジアにおける被差別民衆の解放への闘いについて熱く語りあった。

 松本は、翌1953年1月1日、日本を発ち、ビルマ・ラングーンでの第1回アジア社会党会議に参加、終了後インドを訪問、ネルー首相、アンベードカル、アジア太平洋地域平和会議に出席したシャルマ、全インド平和委員会デリー委員会書記長マタディン・バゲリヤらと会談した。

 松本は、「インドの印象―松本治一郎氏の便り」(『解放新聞』52号、1953年3月10日付)で、ネルー、アンベードカルとの出会いを、次のように語っている。

1月31日、インド外務省応接室で、私は多年の宿望であるネール首相とゆっくり会見することができた。

 …(中略)…私たちの話合いは、今日のインドにおいて、もっとも苦しい生活をおくっている不可触せん民の問題にもふれた。私は、過去30年にわたって部落の解放のために斗ってきた経験から、たとえ憲法の上で平等を認められても、経済的、社会的に容易に解放されないことを知っているので、インドにおいてどんな政策がとられているのかについてきいた。これに対しネール首相は「過去の何世紀かのあいだ圧迫されつずけてきた下層階級に対しては、法律的平等のみでは不足であろう。したがってインド政府は、国会においても特別の議席数を彼らのためにのこしており、また教育にも力をいれ多数の奨学金をこの階層のために支出している。したがってこの階層の完全な解放も近いだろう」とのべた。

 …(中略)…

 ネール首相に会った前日、私はインドにおけるシエジュルド・カースト(賤民階級)解放の指導者アンベドカー氏とゆっくり歓談し、意見の交換を行うことができた。

 (引用者注:イギリス植民地時代に、「不可触民」は被抑圧〈圧迫〉階級と呼ばれていた。シエジュルド・カーストとは、1953年の新インド統治法から呼ばれるようになった指定カーストのことで、「不可触民」カーストを指す。)

 アンベドカー氏はシエジュルド・カースト出身者で、長い間インドのいわゆる部落解放のために斗ってきた人である。同時に有名な法律学者で、インド憲法の起草者であるといわれ、一昨年の10月ごろまでインドの司法大臣をつとめていた人である。

 「よくいらっしゃいました。ラージャボージ氏からも聞いており心待ちしていました」と、色の浅黒い目のギョロッとしたいかつい顔に似合ずカン高い声だ。「日本の社会党の右派と左派とのちがいは?」「講和後の日本の情勢は?」…とやつぎばやの質問である。しかしこの聡明な学者斗士であるアンベドカー氏も、日本の状態についてはよく知っていないらしく、われわれが考えるのとは、むしろ逆の考え方をしていた。その点について深く語りあったことは、極めて重要なことであった。

 彼はわれわれの部落解放運動については、もちろんもっとも関心をもっているが、彼はまた、仏教についてもそうであった。しかし、日本の実情については何も知らず「日本の僧侶はほとんどが妻帯しており、酒も肉も飲食する」と話したらおどろいていた。

 そこで私は「インドにきて驚いたことは、動物が人間より上におかれている。デリーの街には牛が悠々とあるいており、農村では、田畑が鳥や猿やその他の動物にあらされて人間は動物の食べたのこりを食べている状態である。これは宗教である。人間が考え出した宗教で、人間が動物より以下の生活をしなければならないような不合理な話はない」とのべたが、彼自身数年前から仏教徒になっていたため、完全に同意しなかった。ただ宗教によって人間がこのように制約されたことは不幸だとはいっていた。

 

 松本のインド訪問記は「出日本記―ビルマ・インドにて」(『中央公論』68巻4号、1953年4月)、「全アジア水平運動のために ビルマからインドへ」(『部落』40号、1953年2月)、「全アジア水平運動の旅からカルカッタ・ニューデリー通信」(『部落』41号、1953年4月)にも収録されている。

 1955年には4月6日から10日まで、アジア15カ国代表が参加して、インドのニューデリーでアジア諸国会議が開催され、日本からは松本を団長に各界の代表が参加した。部落解放全国委員会からは、朝田善之助が参加したが、「日本における封建的身分差別と部落民の斗い」について報告書を作成し、部落差別をアジア共通の問題として取り上げてもらうため働きかけた。報告書は「このような身分差別は、日本に限られる問題ではなく、インドのハリジャン、南朝鮮のビャクチャン、ビルマの寺院奴れいにみられるごとく、アジアに共通した問題である。…(中略)…さらにわれわれは、共通の苦しみをもつ全アジアの兄弟姉妹たちと協力して完全解放をかちとるまで、斗いつづける決意を有するものである」と訴えた。

 「インドのハリジャン」とは、「神の子」という意味でガンジーが被差別カーストを指す言葉として使用したが、今日ではダリットと呼ばれている。「南朝鮮のビャクチャン」とは、朝鮮の被差別民・白丁(ペクチョン)のこと。「ビルマの寺院奴れい」とは、ミャンマーの被差別身分である仏塔奴隷のこと(仏塔奴隷については、杉本良巳ほか「ミャンマーの被差別身分について」〈ウ・ミンジョー著『夜明けの蓮』米子今井書店、2002年〉に紹介されている)。

 この間、松本は、被差別カースト出身の郵政大臣ジャグジーヴァン・ラーム(のち、国防大臣や多くの閣僚を歴任、国民会議派議長、インド副首相となり、1986年死去)と会合をもち、デリー市内の被差別カースト地区での歓迎集会に参加した。

 独立インドの初代ネルー内閣の法務大臣となり、憲法起草委員会の委員長として「不可触民」制の廃止を定めたインド憲法草案を起草、政府に「不可触民制(犯罪)法」を作らせ、差別を撤廃するためには「不可触民」自身の覚醒と行動が必要であると説き、生涯を「不可触民」制撤廃のために捧げたアンベードカルは、1955年にインド仏教徒協会を設立し、1956年10月、自分のカーストの仲間たち数十万人とともに、最終的に仏教に改宗、その2カ月後に65歳で死去した。ラージボージは、その後、インド仏教徒協会会長として「新仏教徒」の権利回復運動にかかわり、1986年に亡くなった。

 松本とアンベードカルが出会って二五年目にあたる1978年11月、福岡部落史研究会の呼びかけで、井元麟之らがインド仏教徒協会との交流を目的に訪印、インドの被差別民との交流が再開された。「国際人権シンポジウム」(1980年12月開催)には、ポパトラオ・P・ガルード(ジャワハルラル・ネルー法科大学長、インド仏教徒協会書記長)が、「反差別国際会議」(1982年12月開催)には、カンシ・ラム(全インド後進少数コミュニティ従業員連盟〈BAMCEF〉委員長)が、「第2回反差別国際会議」(1988年12月開催)には、アンベードカルの孫のプラカッシュ・アンベードカル(インド仏教徒協会前副会長・弁護士)が参加した。

本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)