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人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡 |
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真実と人権を守る―メーデー事件被告・大逆事件被告からのハガキ |
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1952年5月1日、東京で45万人が参加して第23回中央メーデーが開催されたが、戦後、メーデー会場として使われていた皇居前広場が使用禁止になったことに抗議、2重橋前で警官隊と衝突、2人の死者、1232人の逮捕者がでて、騒擾罪で261人が起訴された。小菅(こすげ)刑務所の中から、このメーデー事件の被告の1人が松本治一郎に特別弁護人を依頼する内容の1952年9月16日付ハガキが冒頭のものである。 メーデー事件では、学者、文化人、労組役員など106名が特別弁護人となることを承諾したが、裁判所はわずかに7人、追加で10人しか許可せず、松本が弁護に加わることはなかった。 その後、メーデー事件は、事件発生以来、実に20年7ヵ月、公判回数1816回を数え、1972年11月21日、「騒擾罪は成立せず、無罪」の東京高裁判決を勝ち取るに至る歴史的な闘いとなった。 松本は、敗戦後の混乱のなかで、さまざまな困難を抱えた人々の支援のために、運動団体の結成にかかわり、救援の手をさしのべた。 労農救援会は、戦後間もなく、1945年10月、政治犯の出獄を機会に、「解放運動犠牲者救援会」として東京で再建されたのが始まりであるが、焦眉の急となった戦災者、引揚者、復員者などの救援活動を目的に1946年1月に勤労者生活擁護協会(会長:高野岩三郎)が発足し、その活動のなかにいったんは吸収されることになった。戦前から解放運動犠牲者救援運動に携わっていた難波英夫が、その常任に就任している。しかし、翌1947年1月、勤労者生活擁護協会は、「労農勤労市民の基本的人権擁護と、その解放運動に対する援助及び犠牲者並にその家族の救援」を目的とする全国組織として、「労農運動救援会」へと改組され、委員長に松本治一郎が就任した。 1948年12月第3回大会で、労農運動救援会は、「大きく躍進する闘争の犠牲者は労働者階級全体の犠牲者として強力な救援活動が全国的規模に於いて展開されねばならない」との見地から「日本労農救援会」と改称され、1951年の第6回大会で「日本国民救援会」と改称された。戦前から水平社運動や労農運動の弁護活動に活躍した布施辰治(たつじ)が、1949年に中央委員長に選出され、1953年9月のその死去までその地位にあった(死去の際、松本が葬儀委員長を務めた)。 また難波は1949年12月、事務局長に就任、のちに副会長を経て、1967年会長に選任された(難波は、1921年大阪時事新報社社会部長として、部落問題を積極的に記事にとりあげ、西光万吉、阪本清一郎と交友を深めるなかで、翌1922年全国水平社の創立を支援。戦後は、部落解放全国委員会に3加、部落解放同盟中央委員、東京都連委員長に。引揚者団体中央連合会事務局長、中国人俘虜殉難者遺骨送還日本代表や数多くの救援団体で献身的に働いた。1972年、84歳で死去)。 救援会は、メーデー事件をはじめ、松川、菅生(すごう)、三鷹、鹿地(かじ)、青梅(おうめ)、白鳥、吹田、枚方など各事件の犠牲者の救援や、在獄者救援運動、伊勢湾台風災害など冷水害地救援、原爆被害者救援、帝銀、免田、牟礼、八海、島田、松山、仁保、狭山等の冤罪事件の救援などに取り組んだ。 また、救援会は、1948年3月18日、第1回解放運動犠牲者合葬追悼会を開催、以後毎年、闘いなかばにして倒れた人々を解放運動無名戦士墓に合葬し、顕彰・追悼をしてきた(松本も1967年合葬)。 1949年の松本の公職追放にあたっては、日本社会党、日本共産党、自由人権協会、日本労農救援会をはじめ、労働組合・民主団体等60余団体が会合し、2月21日、「人権擁護松本治一郎氏等追放取消要求民主団体協議会」の名で声明書を発表、反対闘争に取り組んだ。 1951年3月には、日本労農救援会、部落解放全国委員会、借家人組合などが「人権擁護団体協議会」を結成し、6月、『人権民報』(人権民報社発行、のち日本国民救援会機関紙となる)を発刊したが、松本は、布施辰治、馬島(まじま)僴(ゆたか)らと共に協力し、最後まで財政援助を続けた。 残されている『人権民報』31号(1952年1月25日発行)には、「酒の席でののしる 根強い差別感に部落民怒る」との見出しで、栃木県都賀(つが)郡稲葉村での消防団の新年宴会席上、消防団長から部落差別発言をうけた村議が、村役場に抗議に行ったところ、暴行容疑で警察に連行されるという差別事件が掲載されている。『人権民報』104号(1954年3月20日発行)には、「進駐軍被害者連盟うまる 国を相手に損害賠償の訴え」のほか、「3・18合葬追悼祭 歴史を彩る73柱偉績のこし静かに眠る」の記事が掲載され、日本国民救援会の布施辰治中央委員長が合葬されたことが記されている。 松本治一郎記念会館旧蔵資料には、布施辰治から1953年3月3日付で北京滞在中の松本に宛てた書簡が残されている。書簡は、同月28-29日にパリで開かれる予定のフランス人民救援会全国大会への招待が来たので、国内からの2名に加えて、日本国民救援会を代表して松本に出席するよう要請をしたもの。 日本国民救援会にかかわるものでは、1952年12月の中国在留同胞引き取りの要請書、53年7月の水害救援に関するもの、55年9月の全国大会案内などが残されている。 大逆事件の被告の1人であり、多くの被告のなかで最後まで生き抜いた坂本清馬(せいま)は、1959年7月に上京し、松本と面会した。上京した主な目的は大逆事件50年記念事業の構想や、再審請求闘争の打ち合わせであったが、日中国交回復にも深い関心を寄せる坂本が松本を訪ねたものと推測される。文面は次のとおりである(1959年7月20日付)。
これに対して、松本が返信を出したようで、坂本は7月29日付のハガキで、「ご懇篤な暑中御端書を頂きまして有難う存じます」との書き出しで、8月の日中友好協会第9回全国大会には、大逆事件再審請求訴訟と大逆事件50年祭実行経費募金を兼ねて上京することを約している。 大逆事件(1910年)では、検挙者が全国で数百名にのぼり、天皇暗殺を計画し国体の転覆を意図したとの理由で、12人に死刑が執行され、坂本清馬ら12人が無期懲役となった。大逆事件からちょうど50年後の1960年2月23日、「大逆事件の真実を明らかにする会」(事務局長:坂本昭)が結成された。坂本清馬は、1961年、東京高裁に再審請求するも棄却、1975年、89歳で死去した。1990年代以降、大逆事件に連座した曹洞宗の内山愚堂、真宗大谷派の高木顕明について、冤罪が明白として、名誉回復の措置がとられている。 参考文献
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本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)
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