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2008.04.07

近代日本のマイノリティ


映画『橋のない川』
1969年・1970年 監督今井正/1992年 監督東陽一

黒川みどり


 住井すゑの長編小説『橋のない川』(第1~7部、1961~92年、新潮社)は、部落問題を主題とした数少ない作品です。題名となった「橋のない川」の由来は、住井によれば、「部落(と部落外との間に)橋がかかっていない、それに橋をかけるという意味だと考える人が多い」が、「しかし、はじめに考えたのは、川にかかる橋ではなかった」のであり、「ベーリング海峡が陸続きだったら、アメリカ大陸もシベリア大陸もないわけでしょう。地球は一つでしょう。世界は一つであり、敵対関係は生まれなかった。海峡があるから人は容易に渡れなかった。そして逆巻く波が人間社会を波立たせてきた。ベーリング海峡に橋を架ける小説を書くという考えがあった」といいます(住井すゑ・福田雅子『「橋のない川」を読む』解放出版社、1999年、76頁)。

 第1部(1961年)・第2部(同年)・第3部(1963年)・第4部(1964年)・第5部(1970年)・第6部(1973年)・第7部(1992年)におよぶ長編で、そのうち、第2部までが映画化の対象とされました。そもそも原作は、1959年1月から60年まで、部落問題研究所の機関誌である雑誌『部落』に連載されたものであり、第1~7部まで合わせて、800万部以上読まれたロングセラーといわれています(「『橋のない川』について」 http://www.ushikunuma.com/~sumii-sue/index3.html)。

 『橋のない川』を原作とする同名の映画は、これまでに2作品つくられています。今井正監督による映画『橋のない川』は、第1部(1969年)と第2部(1970年)からなり、八木保太郎・依田義賢が脚本を書き、株式会社ほるぷ映画が製作にあたったものです。この作品は、とりわけ第2部の方が差別映画として部落解放同盟から批判を受け(「「橋のない川」(第二部)糾弾要綱70年6月」『狭山差別裁判』15号(1975年)など)、第一部も合わせて長らく上映の日の目を見ることなく、また学問的な議論の題材に据えられることもありませんでした。

 それから20余年を経た1992年、部落解放同盟は、全国水平社創立70周年記念事業の一環として新たに東陽一を監督に迎え、堤清二セゾングループ代表らの協力を得て映画製作委員会を立ち上げ、「橋のない川」の製作・上映にいたりました。

 こうして二つの映画作品が生まれることになりました。原作も含め、いずれの作品によるにせよ、「橋のない川」に向き合うことは、その舞台となった明治末から大正期にかけての部落問題のありようを知る上で、まず意味のあることと思われます。さらには、この二つの作品を、それぞれの映画がつくられた当該時期の状況を重ね合わせながら比較してみることは、その時代の部落問題のありようを考える糸口にもつながるはずです。

 とりわけ、映画という手法は、一面で、部落問題研究よりもはるかに、差別意識を直截に描きだし、かつ映像という手段によってリアリティをもって部落問題に接近しています。 また、私の見るところ、同対審答申までの1950年代を代表する、部落問題を主題とした映画作品が亀井文夫監督の「人間みな兄弟」であるとするならば(黒川みどり「映画「人間みな兄弟 部落差別の記録」にみる部落問題表象」・黒川編著『〈眼差される者〉の近代―部落民・都市下層・ハンセン病・エスニシティ―』、解放出版社、2007年)、それに次いで同対審答申以後の運動の高揚期の問題を表象している作品が、今井監督の「橋のない川」であると考えられます。「人間みな兄弟」が部落問題の他者表象であったとすれば、「橋のない川」は、他者表象と自己表象の衝突という側面を少なからずもっていたといえるではないかでしょうか。

 さらに1992年の東陽一監督作品と今井監督作品とを比較すると、部落解放運動が同和対策事業の実施を勝ちとるべく華々しく展開されていた1970年前後の時期と、部落解放運動が反差別国際連帯を軸に運動の新たなる方向への展開をめざしていた1990年前後の時期との違いを読み解くことも可能であると思われます。

 今井監督作品は、奈良県の大和三山に囲まれた小森(架空の地名)という被差別部落が舞台です。尋常小学校に通う畑中誠太郎と孝二の兄弟は、日露戦争で父が「名誉の戦死」を遂げ、祖母ぬい・母ふでと暮らしています。

 映像は、小森の人びとが差別への怒りを胸に水平社創立に向けてのエネルギーを蓄えて行進するエンディングの場面がカラーであるほかは一貫してモノクロであり、社会主義リアリズムを思わせる手法となっています。それは部落問題の深刻さ、貧困の時代を象徴するものなのでしょう。

 それに対して、東作品の映画のコピーには、「日本近代を貫いた二〇世紀の〔魂の叙事詩〕」「愛を知り、人は光を放ちはじめる」とあり、もっぱら「愛」が強調され、部落問題が主題であることをあえて示さない手法がとられているようにさえ見受けられます。東監督自身も、「映画の質を決めるのは、実は一般に考えられているようなテーマ性ではなくて、スタイルなんですね。この映画の場合、そのスタイルを決める根本的なイメージは、実は、小森部落の火事のシーンだったんです」とあくまで「主題」ではなく「スタイル」であることを強調し、「差別をなくすために運動をしている人も、運動に何の関心もない人も、ともかく先入観なしに真っ白で見て、映画と対話してほしい」と呼びかけていまする。音楽も、重々しかった今井作品とは打って変わり、アンデス地方のカブールの軽妙なものが採用されており、東監督は、それは「「悲しさ」と「いとしさ」が表裏に同居している世界」であるといいます(映画「橋のない川」製作委員会編『シナリオ 橋のない川』解放出版社、1992年)。わざわざカブールのそれを採用したことも、少数民族、すなわち世界のマイノリティへの視野を有していることを示したものといえ、少年時代を自ら「朝鮮人」と称する少年が演じ、その少年が「誠太郎役を演って、感じたのは、自分自身が差別をうけてもくじけたらいかんということです」(同上書)とインタビューに応じて語っていることも反差別国際連帯のスローガンに適合するものとなっています。映像も最後を除いてすべてモノクロであった今井作品とは異なりカラーで、明るいイメージを放っています。今井作品製作当時は、いまだ同対審答申にもとづく同和対策事業特別措置法が一九六九年にようやく実施されることとなったばかりで、被差別部落が、「橋のない川」の舞台となっている当時とさほど大差のない住環境にありました。東作品公開時には、事業の進展によって住環境も大きく改善されており、カラーで美しい農村を描いた映像とモノクロ画像の違いはそうした変化の反映でもありましょう。

 受け手である大衆の意識も、〝政治の季節〟から変化し、社会問題を前面に押し出したのでは観客を動員することがむずかしくなったという背景があると思われます。東陽一が「テーマ」よりも「スタイル」を前面に押し出し、「愛」を打ち出したのもそうした情勢の変化に照応するものでした。

 それとともに被差別当事者の望む被差別部落表象も変容していることをあげなければならなりません。東監督作品では、今井監督作品に登場して議論を呼んだ永井藤作的な〝典型的〟部落民像を徹底して拒否し、むしろ部落民は〝何ら変わるところがない〟にもかかわらず、「変わった人間」とみなされて、差別につながる徴表を与えられることを告発しました。

 二つの映画作品を見比べることにより、そうした違いが浮かび上がってきます。