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人権のゆかりの地 |
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渡辺村のふるさとを訪ねて |
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京阪の天満橋駅から西へ徒歩5分。左側の歩道を歩かれた方が良いでしょう。少し行くと、左側に府立労働センターの建物が見えます。府立労働センターのちょうど向かいに小さな神社があります。ここが、かつて座摩神社のあったところなのです。 座摩神社は、「摂津国一宮」とも称される古い神社です。927年に成立した『延喜式』にすでに記されており、その成立は“神話”の世界にさかのぼります。本殿の下には、神功皇后が座ったと伝えられる鎮座石があります。もちろん言い伝えですが……。 さて、この座摩神社の周辺は、大川をはさんで「渡辺の里」と呼ばれていました。古くから軍事・交通の要所として知られ、座摩神社や天満宮の神官でもあった渡辺氏を中心に、「渡辺党」と呼ばれる武士団が形成されていたのです。あくまで推測ですが、ここには座摩神社の“キヨメ”として、清掃や皮革加工などにたずさわる職人がおり、こうした“キヨメ集団”が、のちの「渡辺村」の核になったと考えられています。そして、その地は、座摩神社のすぐそばにあったようです。 座摩神社は1584年、豊臣秀吉の命による大坂城築城に伴って移動を余儀なくされ、現在の大阪市中央区久太郎町へ移されました。ちょうど東本願寺の難波別院(南御堂)の裏側に位置しています。現在も4月22日の「献花祭」や、7月22日の「せともの市」でにぎわっています。 さて、渡辺村はどうなったでしょうか。じつは渡辺村も、座摩神社といっしょに、座摩神社と同じところへ移動しました。しかし、渡辺村はそこに定着できず、1621年ごろ道頓堀を越えた難波村領内に移動しています。このころ、大坂町奉行の下働きを義務づけられ、その見返りとして「和漢革問屋」の免許を与えられています。難波村という農村地帯への移動は、当時「ケガレ」に関わるとされた、そうした職務が関連しているように思われます。しかも渡辺村は、1699年に再度の移転を強制されます。 移転先は二転三転ののち、木津村領内(現在の大阪市浪速区)に決まりますが、移転は1701年からはじまり、5年後の1706年にようやく完了しました。今年2006年は、強制移転から300年を迎えました。 中尾健次(大阪教育大学) |