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人権のゆかりの地 |
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悲田院のふるさとを訪ねて |
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大阪市天王寺区悲田院町は、JR天王寺駅を降りて、北側の交差点を渡ると、すぐのところにあります。大きなマンションが建ち、料亭やしゃれた飲食店が軒を並べており、「近代的な繁華街」という印象の町です。江戸時代には、この町の一角に「悲田院垣外」と呼ばれた「非人」の集落があったのすが、そうした歴史を語る痕跡は、まったく残されていません。 「悲田院」の名は、聖徳太子が四天王寺を建立した際、医療と救済事業を行なうために設立した寺院の名前に由来しています。四天王寺の造営が五九三年といいますから、約一四〇〇年もさかのぼることになります。 この「悲田院」に、いつごろ非人の集落が形成されたのか、残念ながらはっきりしません。ただ、少なくとも一五九四年の太閤検地のころには、その存在が確認できます。 近世の大坂には、同様の組織が「悲田院垣外」以外にも「鳶田」「道頓堀」「天満」にあり、「四ケ所」と呼ばれました。「悲田院」は、四ケ所の中ではもっとも古く、由緒のある組織と見なされていました。 非人の組織は、「長吏」をトップに「小頭」が数名、その下に「若き者」「弟子」がいましたが、悲田院の長吏・小頭などは、もともと古くから四天王寺に従属し、寺の職務に当たる役人でもあり、その職務の一つが、窮民に対する施し(施行)だったのでしょう。ちなみに1789年の段階で、悲田院垣外は379人、鳶田は266人、道頓堀は343人、天満には170人の住民がいました。 「四ケ所」の垣外は、施行だけではなく、大坂町奉行の指揮下にあって、番人や情報探索など治安の職務も担っていました。これらの職務は、大坂市中だけでなく、各村々にも及び、それが治安対策の広域ネットワークを形成していました。大阪周辺には、幕府領もあれば寺社領もあります。垣外の組織は、こうした支配の別を問わず、情報探索や犯罪者の逮捕に当たっていました。つまりFBIのような組織だったわけです。それが明治以降、大坂からこつぜんと消えてしまったわけで、それ自身、歴史の大きなナゾといえましょう。 中尾健次(大阪教育大学) |