その日、私はある青年に初めて会った。「会った」と言っても会話をしたわけでない。ただ「目と目で互いを認識した」だけ、そう言ったほうがいいだろう。彼は、生まれて初めて会った私に、軽く会釈のようなことをした。二人の間に会話はなかった。
私たちが出会った場所、そこは東京地方裁判所第五一一号法廷。二〇〇四年一二月二四日午前一〇時、私は傍聴席の最前列に座った。彼は、柵のむこうの被告人席に二人の警官に挟まれて座っていた。彼は一年半にわたって複数の被差別部落出身者に執拗に差別脅迫を繰り返した事件の被告人であり、私は被害者だった。
「被告人は前に出て下さい」。
法廷に裁判長の声が鈍く響いた。ひどく小さく聞きづらい声だった。
「これから貴方が起訴されている事件について裁判を始めます。あらかじめ言っておきますが、これから法廷で証言することは、貴方にとって有利になることもあれば不利にもなることもあります。話したくないことは話さなくてもかまいません。分かりましたか」。
あいかわらず小さくて聞きづらい裁判長の声。しかし被告ははっきりとした口調で答えた。
「はい」。
「それでは、検察官が起訴事実を朗読します。被告人はその場で聞いてください」。
検察側の冒頭陳述はそれほど長いものではなかった。それはこの日の審理が、事件の全体像を示すものではなく、最初に起訴された私に関する三件の脅迫に関するものだったからだ。この日述べられた起訴事実は、概ねつぎのような内容だった。
「被告人は、日頃、被差別部落を自分より下の存在と考えていたが、二〇〇三年五月頃、自身の鬱憤をはらすために無関係の被差別部落出身者に精神的苦痛を与えようと意図し、部落解放同盟員の住所を調べ、犯行を開始した」。被告は明確な「部落差別の意図を持って一連の行為を行った」。
一年半にわたって執拗に犯行を繰り返し、「マスコミ報道に接して一度は自ら犯行終結を宣言しながら、『部落民のくせに、あやまれとは生意気だ』などとして日を経ずに犯行を再開」するなど、犯行の様態は極めて悪質である。また、犯行は今回審理される三件の脅迫だけではなく、複数の被害者に対して全体で数百件にのぼる膨大なものである。
「今聞いた内容に間違いはありませんか?」、そう裁判長から聞かれた被告は、「間違いありません」はっきりとそうこう答えた。被告の弁護人も、「はい。被告と同様です」、そう述べた。
被告は、「ただ自分の鬱憤を晴らすために、無関係の被差別部落出身者・不特定多数に対して、一年半にわたって一方的かつ徹底的な精神的苦痛を与えた」、自分にも、また自分の鬱憤の中身にも全く無関係の被差別部落を標的に選んだのは、「日頃、被差別部落は自分より下の存在であるという認識があったから」であり、今回の犯行の根底には「明確な部落差別の意図があった」、こういう事実を淡々と認めたのだ。
これが一年半にわたって私たちが生き地獄の苦しみに曝された、「連続・大量差別はがき事件」の第一回公判だった。
私たちが経験した一年半の「地獄」
私がこの事件の被害者となったのは、二〇〇三年六月のことだった。私宛に注文もしていない高額の書籍が、代金受取人払いで送り付けられたのだ。調べると書籍の注文は、はがきでなされており、はがきの筆跡は既に当時問題になっていた「連続・大量差別はがき事件」の犯人の筆跡と同一だった。これ以降私の自宅には、荷物の他に、私を名指しして罵倒し、蔑み、殺害を予告する内容の差別はがきや手紙が毎日のように送られてくるようになった。
「浦本誉至史、お前は部落民だ。えたのくせに日本の首都に住みやがって。許せない、出ていけ。えた非人は人間じゃないんだよ、お前らなんて差別されてればいいんだよ。分かったか、えた死ね。浦本を殺す会より」、こういった内容だった。
同じ年の一〇月には、私の自宅周辺の何の関係もない家々にまで、「あなたの近所の○○アパート○○号室に住む浦本誉至史はえた非人の特殊部落民です。牛殺しブタ殺しをしている部落民ですから、人殺しも平気です。気をつけてください」「特殊部落民・浦本誉至史を一日もはやく町から追い出しましょう。でないと、○○町全てが部落だと思われてしまいますよ、いいんですか」といった内容のはがきがばらまかれた。
こうした私に関わる差別はがき手紙その他、結局現在判明しているだけで九九件である。
差別手紙やはがきが届くようになってからというもの、私の日常生活は一変してしまった。なにしろ、毎日帰宅すると差別手紙が待ち受けているのだ。アパート周辺には前述のはがきがばらまかれている。それも一度や二度ではない。はがきを受け取った周辺住民の中には、私の大家さんのところに、わざわざそのはがきを持ってきた人もいる。「あなたのところに浦本っていう人本当にいるの?」、そう「不安」を告げて、言外に「退去してもらったほうがいいのでは…」と言ってきたのだ。
私は、犯人の行為によって一年半にわたって、堪え難い精神的苦痛を味わった。同時に、「居住の自由」「平穏な市民生活をおくる自由」を著しく侵害された。私はよくこの一年半を振り返って、「生き地獄」とか「針のむしろ」という言葉を使う。聞く人からすれば、「いささか誇張ではないか」と思われるかも知れない。しかし、これは間違いないことだった、私の人生にとって、この一年半ほど苦しい日々はなかった。
この事件の被害者は、私一人ではない。被害件数という点では、確かに私に関するものが全体の四分の一を占めている。総被害件数は約四百、この内約百が私に関するものだ。しかし、被害者は私の他にも多数いる。
まず私と同じように被差別部落出身者で、同じように差別脅迫に曝された人、さらに周辺に差別扇動をされた人があわせて三〇人いる。この他にも、犯人が私の名前を騙るなどして差別脅迫をした団体や個人、それは熊本の菊池恵楓園入所者自治会など多くは被差別者・マイノリティであるが、そういう人たちがいる。また、何の関係もないのに私たちへの脅迫状の差出人として名前を使われた人たち、被差別部落出身者ではないが、犯人に「間違われて」被害を受けた「同姓同名」の人たちがいる。
被害者の総数、被害の広がりと深刻さ、いずれも未曾有だ。そして被害者全てが、一年半にわたって地獄の苦しみを味わった。
私の東京原体験−部落差別の「ない」世界
「なぜ、自分たちはこんなめにあわなくてはならないのか?」犯行が行われている期間中、いつも私は疑問だった。
一二月二四日、私は傍聴席で裁判の進行を見つめながら、自分の疑問がどんどん大きくなっていくのを感じた。「なぜなんだ。なぜ、部落差別なんだ?」。
被告は犯行事実を全て認める一方で、「被差別部落に関して具体的な体験や直接的な関係を持ったことはなく、部落差別や解放運動についてもよく知らない。基本的に本で読んだ知識だ」「被害者とは一面識もない」と供述している。また「犯行中、被害者のことは考えたことがない」「罪の意識はなかった」とも。それなのに「部落を差別する意識は持っていた」、だから現実の部落出身者を攻撃したと言うのだ。
公判の後、一緒に傍聴していたある記者から感想を聞かれても、私はなかなか意味ある言葉を口にできなかった。情況が整理できず、頭の中が混乱していた。ただ、同時に私は、自分が東京という町に出てきてからこの方、こんな体験ばっかりしてきたことを思い出した。そして、何とも言えない複雑な気分になった。
私が東京に来たのは、一九八四年三月末のことだ。兵庫県の高校を卒業したばかりで、まだ一八歳だった。雑司ケ谷にある昔ながらの学生下宿に下宿したが、それは私にとって生まれて初めての一人暮らしだった。初めて経験する都会での生活に、私は青年らしい無根拠な期待を抱いていた。
下宿に落ち着いて一カ月か二カ月だったと思う。ある日同宿の先輩が私を部屋に呼んでくれた。その先輩は大学四年生で、下宿の長老的な人物だった。「友人が遊びに来たから君も来いよ」、先輩としては、新米の私を気づかって声をかけてくれたのだ。私は喜んで先輩の部屋に行った。
先輩の友人というのは、数学を専攻する大学四年生、確か東京育ちの人だった。私からすれば「都会的でシャープな人物」だったし、話すことも実際「知的」で面白かった。当時まだ珍しかったコンピューター・ソフトに関する話なども聞けた。あまり楽しかったので私はついつい長居をした。
夜が更けてきて、ようやく話が日常生活のことになった。酒も若干入っていたと思う。若い男ばかりだったから、当然話は恋愛のことになった。先輩も私も、それぞれ勝手な「理想の女性像」を語った。すると先輩の友人は、そういう話を笑いながら聞いていて最後にこう言ったのだ。「僕は、タイプの女性というのは結局のところ明確じゃないんだけど、ただ結婚するとなると条件があるね」、「どんな条件ですか?」私が無邪気に聞くと、彼はこう言った、「部落と朝鮮人は駄目だな」。
私は、今でもあの瞬間を夢に見ることがある。頭から冷水を浴びせられたように全身から血の気が引いた。そしてその後、自分が何をしゃべったのか、いつどうやって自分の部屋に帰ったのか、部屋に帰ってから何をしたか、全く記憶がない。何度思い出そうと思っても、どうしても思い出せないのだ。
あの頃、まだ私は自分が被差別部落の出身だということを誰にも話していなかった。一方で「東京に行けば、きっと部落差別はないんだろうな」と漠然と考えていた。根拠は何もなかったが、「大都会であり国際都市でもある東京」に部落差別のような「古いもの」は何となく似つかわしくないと思えたからだ。しかし、これはとんでもない考え違いだった。部落差別を「古い」と思っていたことも、東京に差別がないと考えていたことも。
私はショックだった。自分にはない「クールで合理的な発想」をする若い学生が、何のためらいも罪の意識もなく差別発言をする。そんな光景を、私は生まれて初めて目の当たりにした。私はしばらく立ち直れなかった。人と会うのが急に怖くなってしまった。 翌年から通い始めた都内のある大学でも、講義の最中に教授が部落差別発言をしたことがある。この教授の発言を「おかしいのではないか」と私が話した時、クラスメイトの中にはこういう疑問を口にする者が多かった、「そんなに大したことのか?」。
私は一生懸命説明した。
「実は、僕は被差別部落の出身なんだ。前に下宿で差別発言聞いたことがあって、それがとても辛い思い出なんだ」、話せば分かってくれると思ったから、勇気を振り絞って話したつもりだった。
「あのさ、何でそんなこと気にするの? 気にしなきゃいいじゃないか」、「部落とか差別とか昔の話だよ。大体、東京じゃそんなの聞いたことないよ」。
複数のクラスメイトが、その時私を慰めてくれた言葉だ。
ちょっと待ってくれ、それじゃあ俺は一体何なんだ。俺は幽霊なのか!? こうやって俺が苦しんでいること、これは一体どうなるんだ!?
私にとって被差別部落に生まれ育ったということは、大切な個人史であり個性でもある。私はそのことを悪いことだとか、恥ずべきことだと思ったことは一度もなかった。だから私は、この個性を誰にも尊重して欲しいと願っていた。少なくとも傷つけられたり、踏みつけにされたくないと思っていた、それだけだ。
しかし、彼らの言ったことは、私にとってこういうことにしかならない。「東京じゃあ、君の個性なんて存在しないのも同じだよ。だから、傷つけられたのなんのと、そんなこと気にしなきゃいいじゃないか」。
どうしてこれが慰めになるのだろう? 私には、このクラスメイトたちの発言の方がショックだった。
どうやら東京の人たちには、少なくとも先輩の友人や、某教授や、クラスメイトたちには、「何が部落差別か」が分からないらしい。いやもっと言えば、「部落差別が、実在する個人の尊厳を傷つけることだ」という現実感がないらしい。私はそう思った。
現実感がないという「常識」を変えよう
誤解なく言っておかなくてはならないが、私は今回の事件の犯人が、「部落や差別と具体的に繋がる経験を一切持っておらず、何が差別であるかも分からなかった。犯人は全く無意識に差別犯行をした」と断定しているのではない。現段階で被告が認めているのは、「明確に部落差別の意識を持っていた」ということだけだ。捜査段階の供述は、あくまでも「犯罪被害者保護法」にもとづいて捜査当局から開示された情報である。直接聞いた話ではないし、幾重にも限定をつけるべきだ。それから、「東京の住人は全て部落差別者で、そのことを日頃意識していないだけだ。だから誰でもこんな犯行を犯す可能性があるのだ」などと言っているわけでもない。それはあまりに誇張だし、乱暴な断定である。
ただ、現に存在する被差別部落や部落差別を無視し、あるいはことさら矮小に捉える「常識」が東京にはある。目の前で見ていながら、そのことに気づかない現実もある。これは事実だ。
実は、こうしたことは部落差別に限らない。人権問題、マイノリティの問題一般について、東京では「(当事者が)黙っていれば問題はない」とする意見が圧倒的で、多くの人はそれに疑問を感じない。たとえば、学校でのいじめ問題がそうだった。「子ども同士の問題だからそっとしておくべきだ」として、東京の学校では長年にわたっていじめを放置してきた実績がある。これはただ単に教育行政がそういう方針だったからではない。教員も地域社会も親たちも、都市の社会全体がそういう「常識」を共有してきたのだ。社会全体、都市全体の問題だったのである。
今回の差別事件の背景にも、この「常識」が無視できない要素としてあると私は感じる。前述したように、犯人は私に「必ずお前を追いつめてやる」と書いてよこした。そして実際、犯行は確実に効果を上げてきた。私の周辺住民の何人かのように、無根拠な差別扇動に「乗せられてしまう」人がかなりの数いたのだ。なぜ、たった一人の犯人の行為がこんな効果を上げるのか。残念だがそれは、効果が上がる社会的な基盤があるからだ。私はその基盤がいわゆる「常識」ではないかと思う。
少なくとも私たち被害者は、その「常識」によって二重の被害を受けている。私たちが被害の回復のために問題を理解して欲しくても、部落外の周辺住民からその理解を得ることは極めて難しい。それどころか、被害者の訴えはいとも簡単に無視され、あまつさえ、「黙って無視していればいいんじゃないの」とアドバイスしてくれる人までいるのだ。
事件の真相究明は今始まったばかりだ。被告の今後の証言にも注目しなくてはならない。事件の全体像を明らかにし、そこから教訓を引き出すのは、もうすこし先になるだろう。ただ、現段階で既にはっきりとしていることがある。それはこの事件の背後にあって事件をより深刻なものにした「常識」を、もうそろそろ見直さなくてはならないということだ。
問題と正面から向き合おうとせずに、いかなる問題も解決できない、これこそ常識というものであろう。東京には被差別部落があり、被差別部落出身者が生活している。そして差別も現にある。この現実から出発しなくて、一体何が解決するだろうか。 私は、この事件と正面から向き合うことを通じて、東京の部落差別の現実を訴えていきたい、今そう思っている。