Home書籍・ビデオ案内 ヒューマンライツもくじ>本文
2005.4.25
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights2005年4月号(NO.205)
インターネット社会と差別
年間定期購読(6,000円+税)をご希望の方は、「お名前」「ご所属」「送付先」「何号から」「月何冊ご希望か」を明記の上、こちらまで。
『大阪の部落史』第一巻を読む

藤井寿一

 大阪府内で活躍されている研究者や部落問題にかかわっている教育・行政・運動の関係者はもちろんのこと、大阪以外の地に住んでいる者にとっても待望の『大阪の部落史』第一巻史料編考古/古代・中世/近世1が、二〇〇五年の劈頭に発刊された。全一〇巻の編さんに取り組んでいる『大阪の部落史』は、昨年までに史料編の近代1・2・3と現代1・2が刊行されていたから、史料編の前近代部分では最初の発行となる。既刊の五巻が五〇〇ページ前後のボリュームであったのに対して、約一割増しの五六九ページを数える本書は、考古、古代・中世、近世という三分野を包括している。

 以下、三分野ごとに特長を記してみよう。

人びとの暮らしや精神世界を垣間見るような牛馬骨の発掘状況

 考古編の例言によれば、これまでに府域で確認されるウシ・ウマの出土例は一二〇遺跡に及ぶという。本書ではそのうちの二七遺跡をとりあげ、旧国別(摂津・河内・和泉)に編集し、所在地図、発掘された牛馬骨の写真など多くの図版を挿入している。

 多数発掘されたウシやウマの骨からは、その骨の主が生きていたそれぞれの時代について、さまざまなことが解明されている。たとえば、大阪市の難波宮跡では、前期難波宮(飛鳥時代)の宮殿建設工事にウシ・ウマが使役されていただけではなく、木製の人形・舟形などの祭祀具が随伴していることからみて、その骨は祭祀に用いられたらしい。また、柏原市の大県遺跡では、八世紀の井戸の底に置かれた土師器の鍋の中にウマの骨が納められており、水神にかかわる祭祀の犠牲にウマが供されたことを物語っているという。

 さらに、大阪市の森の宮遺跡で発見された七世紀後半のウマの頭蓋骨には、脳髄を摘出するための穴が開けられており、死牛馬から脳を取るという律令制の規定が難波では早くから行われていたことを示している。筆者は考古学や古代史を専門的に研究していないが、興味の尽きない遺物に驚くばかりである。

 平安〜鎌倉時代の牛馬骨では、東大阪市の西ノ辻遺跡が注目される。自然流路や人工的な開削溝から、解体されたウシやウマの骨が散在した状態で発見されており、獣骨解体用の大型の鎌・斧なども出土することから、肉を取り出すための解体が行われたことを傍証するものという。

 被差別部落の一角で見つかったことで著名な貝塚市の東遺跡は、中世(一五世紀前半)の牛馬骨廃棄土坑の上部に近世の獣骨が重なるように廃棄されている。但し、解体された近世の獣骨個体数ではイヌ・ネコの方がウシ・ウマよりも多いという。この点は、『和泉国かわた村支配文書』などの地元の文献史料と対照してさらに考察を深めるべきではなかろうか。

 なお、府域全体の牛馬骨出土遺跡分布図と一覧が、考古編の末尾と本書に添付されたCD―ROMに収録されている。多くの読者に配慮したものとして、これは永く記憶に残るであろう。

古代・中世の摂河泉と被差別民
―古代・中世編の史料にまなぶこと―

 律令体制下で被差別の境遇に置かれた人びとが、中世社会のなかで形成され近世賤民に連続する被差別民と直接的な系譜関係を持たないことは、現在の部落史研究ではおおかた承認されていると思う。とはいえ、摂津国に「土蛛」という蔑称を律令国家から命名された集団が存在したこと、また、奈良時代に民衆を教化したことで有名な行基が、難波の堀江で説法の邪魔になる障がい者を川へ遺棄するよう命じた説話などは、見過ごすことができない。

 さらに、中国の民間信仰(漢神)の影響を受けて牛を殺した摂津国東成郡の人が、牛の姿をした「非人」から責めを受けたという説話も注目される。仏教の一般的な殺生忌避にとどまらない、屠畜を悪とみなす職業観が、そこには現出しているのではなかろうか。

 院政期に始まる中世において、「非人」「散所」「河原者」(清目)などの被差別民が広範に成立していることは疑いようのないことである。鎌倉時代までの史料を扱っている二節の中世前期でも、「非人」と「散所」にかかわるものが多数収録されている。なかでも、卑賤視されているとはみなされていない中世前期の「散所」については、摂津国東大寺領水無瀬荘では田地の耕作と寺役を務める請文を提出する一方、掃部寮御野では税を納めず他所に引き籠もるなど、多様な姿を垣間見ることができよう。また、河内国狭山池の修復に「乞食」や「非人」が参加したことを記す金石文は、土木技術を有していた中世被差別民を動員したという点で和泉国日根荘の事例と共通している。触穢に関しては、合戦で多数の死者が出たことを、京都の動向を記す『百練抄』はケガレとする一方、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』が無頓着であるのは、何を意味しているのだろうか。

 中世後期の史料を扱う三節では、多様な被差別民の原型がほぼ明確になった姿を読み取ることができる。たとえば、河内国の叡福寺では応永二七(一四二〇)年、若衆方の的張会では弓の弦を「夙者」が架け、皮の的を「穢多」が張っている(『叡福寺月行事日記』)。寺院史料に記される「穢多」記載としてはきわめて早い時期のものではなかろうか。また、文明一六(一四八四)年に死亡した堺の町衆である和泉屋道栄の葬儀には「三昧聖」が関与しているが(『蔗軒日録』)、これも葬送と「三昧聖」との関連を示す早期の史料として注目される。さらに、永禄七(一五六四)年に河内国枚方村の教善寺で執行された順興寺実従の葬儀では「聖」の参加を拒否する一方、「坂者」(=夙)の参加は認められている。真宗教団と被差別民の関係を今一度見つめ直すには格好の史料であろう。

近世社会成立期の被差別民―近世1の史料を見つめて―

 『奥田家文書』『河内国更池村文書』『和泉国かわた村支配文書』など多数の史料集の刊行と、個別の被差別部落史編さんの蓄積によって、大阪府域の部落史研究の成果が質量ともに他府県を凌駕していることは広く認められるであろう。近世1の解説によれば、『大阪の部落史』の史料編では近世史料の選択に当たって、前記の史料集からは再録することなく、原則として文書調査によって「発見」した新出の史料を採択している。

 近世1は、近世大坂の被差別民の概況がわかる史料と、豊臣政権確立期から元禄一七(一七〇四)年までの内容別で九節に分かれる史料を収録している。まず、概況のなかでは、領主側が作成する高帳などの文書のなかに「皮多(穢多)高」「隠亡高」が明記されていることに注意したい。ほかにも、「大工高」「杣高」を引高として計上していることからみて、これは近世身分と役負担の関係を表す基礎的な史料といえるだろう。大坂や平野・堺の覚書・明細帳に記された「穢多」「非人」「牢屋敷」などは、近年盛んになってきた絵図・地図の身分論的読解に寄与することは言を待たない。

 つぎに、近世前期の史料については限られた紙数では語り尽くすことができないほど貴重かつ重要な史料に満ちている。とりわけ、渡辺村の移転をめぐっては、下難波村領内に渡辺村があったころの「かわた村屋敷」高、元禄一二(一六九九)年の木津村への移転に伴う難波村内旧屋敷跡の割り付け、元禄一四(一七〇一)年の木津村内での再移転などを具体的に物語る史料が体系的に配置されている。編集担当者の地道な調査・研究が結実したものと思う。また、別添の延宝四(一六七六)年の更池村検地現況絵図は、巻末の解説によれば文禄三(一五九四)年の太閤検地時点での皮多集落を復元でき、耕地の景観の変化を読み取ることも可能であるという。近世初期から約八〇年間にわたる「かわた村」の生成・発展の軌跡が凝縮された絵図から考察すべき事柄は多岐に及ぶであろう。

 続刊にも期待するところは大である。

(ふじい・としかず 和歌山人権研究所研究員)