―『ヒューマンライツ』誌上では、これまで森田ゆりさんによって、虐待をする親への回復支援プログラムであるMY TREEペアレンツ・プログラムについて何回か記事を掲載してきました。このプログラムが始まって足掛け六年。先日は大阪市内で「MY TREEフォーラム」が開催されて、当事者や専門家、関係者が400人も集まったと聞いています。
その折には『MY TREE ペアレンツ・プログラム2001年度-2005年度実践報告書』(本誌六五頁参照)も刊行されて、このプログラムの全体像が示されています。これまでに大阪府内5ヶ所と兵庫県、三重県の7ヶ所でプログラムが実践され、虐待をする親へのプログラムとして大きな成果を上げていますが、この大阪府内五ヶ所のうち3ヶ所が同和地区にある公的施設を拠点に取り組まれています。
そこで、今日はこのプログラムに日本で最初に取り組んだ芦原病院女性科のみなさんと、高槻市立富田青少年交流センターの岡井さんにお集まりいただきました。実践者の立場から子どもの虐待にどう取り組まれているか、同和地区の社会的資源をどのように活用しているのかなどについてお話しいただきたいと思います。まず、MY TREEペアレンツ・プログラムの概要をお話しください。
●MY TREE ペアレンツ・プログラムとは
伊藤 MY TREEペアレンツ・プログラムは、森田ゆりさんが開発した子どもを虐待している親のための回復支援プログラムです。虐待する親の背景は一様ではありませんが、このプログラムが対象としているのは、親自身の未解決の傷つき体験や生活環境から、自分自身を肯定できず、自分や子どもの心と体を傷つけてしまう人たちです。「こんな自分が親だから子育てがうまくいかないんだ」と思い、いい親になろうと努力するのですが、役割を果たせない自分を否定していく。
そして、自分に対してやっているのと同じように子どもを無視したり、体罰、暴言を浴びせて、そのことでまた罪悪感にさいなまれる悪循環です。MY TREEとは、自分の中に「大地に根ざす私の木」を取り戻して自己の全体性を回復させていくことで、子どもへの虐待をやめることができるという意味が込められたネーミングです。これまで、虐待予防のプログラムは各地域で取り組まれていても、今まさに子どもの虐待をしている親に対する、目的と対象を明確にしたプログラムはありませんでした。2000年の児童虐待防止法制定過程で家族再統合の受け皿となる親への回復支援プログラムが緊急に求められ、森田ゆりさんが日米での研究実績、理論や実践を生かして開発されたものです。
―なぜ、このプログラムに取り組まれたのですか。
伊藤 プログラムとの出会いですが、森田ゆりさんが2001年から開発者自らグループを運営していましたが、すごいプログラムだなと思っていました。医療ケアの立場で虐待対応や予防教育にも携わっていた私たちは、この素晴らしいプログラムを実践する人がでてくればいいなーと関心を持ったのです。
松浦 私はエンパワメント・センターのさまざまな研修を助産師としての仕事上というよりも、伊藤にすすめられて受けていました。やりだしたら止まらなくてぜんぶ受講していました。でも、自分がファシリテーターをするとは思ってもいませんでした。
井田 エンパワメント・センターの研修は、なにか芯の部分を大事にしてくれるプログラムだと感じていました。
●病院の大きな変わり目を契機に
伊藤 2003年は地対財特法が終結した年でしたが、もともと芦原病院の経営は準公的病院として大阪府・大阪市の同和地区医療センターの位置づけでスタートしました。大阪府が引いたあとも大阪市が支援してきました。というのは、この芦原病院がなくなると栄小学校区は無医村になるからです。また、芦原病院は高度医療だけではなく、歴史的に公衆衛生の前線を担ってきました。
市民病院であれば通常の予算の枠組みですが、芦原病院の場合は同和対策のなかで運営されてきましたので、補助金という名目で会計がまかなわれていました。どこの市民病院も赤字解消ということで努力しておられますが、市民病院の場合は補正予算で赤字が補填されていきます。しかし、芦原病院の予算は補助金という名目でしたので、通常の議会を通した補正ではなく貸付金という形で累積してきたわけです。このことは同和対策がなくなれば続くわけがありません。
最も人件費がかかるのがお産の領域でした。少子化のなかで出産は病院にとって割が合わず、計画分娩をする病院も増えていきました。つまり、スタッフがたくさんいる昼間に陣痛促進剤をかけて出産を促すのです。一方で医師不足もあり、閉鎖する産院、分娩件数を制限する病院が当たり前になってきています。
「出産難民」などという言葉も新聞にも登場しています。私たちは計画分娩ではなく、365日迎え入れていましたので、ドクター、助産師、ベビー室の看護師などの人件費で一年間に膨大な赤字となっていったのです。この地域は10代の出産件数が多数ありましたし、地域のニーズもありましたので、私たちはいかに人件費を削って出産機能を残すかを考え、必死にローテーションをやりくりしてきました。しかし、この大きな赤字は私たちの手には負えないのでやむをえず出産機能を閉鎖しました。そこで外来だけになったときに、どのような役割を担うのかが議論になりました。ちょうどその頃MY TREEペアレンツ・プログラム養成講座が始まり、同時に日本看護協会の「まちの保健室事業」という助成金の募集がありました。
松浦 泣く泣くお産の取り扱いを断念して、近隣の産院に託す準備をしていたとき、たまたま日本看護協会の「まちの保健室事業」が目に付いて、「これだ!」という勢いで飛びついたわけです。そのときはまだこんなに大きな事業になるとは思っていませんでした。
井田 養成講座と「まちの保健室事業」申請が同時並行でした。養成講座は必ず実行できる条件があるということが受講の条件でしたので、どちらかが欠けても実現しなかった事業です。
●支援の必要な人を目の前にして
―高槻の場合はいかがですか。
岡井 森田ゆりさんとの出会いは1985年、国際青年年のときに開催された講演会でしたが、それが非常に印象的でした。そのあと、CAP(子ども虐待防止プログラム)第2回研修会に参加しました。同時期に高槻から6人が参加し、CAPを広めたいという声が強く出ましたが、まずは土壌をつくりましょうという議論をしていました。私も皆さんと同じでエンパワメント・センターで新しい研修があると聞けば参加させてもらっていました。
2003年に高槻から養成講座に二人参加しました。青少年交流センターでは同和地区の子どもたちの活動を支えることと、地域の教育力を高めることを柱に活動していました。同和地区の持っている社会資源をどう生かすかという役割もあったので、2000年から一般対策として子育て支援と教育相談業務を始めました。かつての同和地区では虐待が起こっても親きょうだい、親戚、友人、隣近所などいろんな人が介入し、個人の問題ではなく、地域の問題として取り組んでいました。しかし、さまざまな人が地区に住むようになり、孤立した家がぽつぽつとでてきて、そこにどのような支援が必要なのかという問題意識が出始めていました。
その頃、2003年に養成講座を受けた人たちからMY TREEペアレンツ・プログラムを一緒に取り組みませんかというお誘いを受けたのです。本来は児童福祉部門などが受け皿になるべきだと思いましたが、現実に目の前で起こっている問題を何とかしたいという思いがあったので、青少年交流センターとして受けることになり、地元保育所のバックアップもあって2004年にスタートしました。今後は、保健所などがきちんと受け止めて欲しいと思いますが、地域の実情、地区の社会資源を還元するという意味ではまず手を上げるのは当然の成り行きだったかなと思います。
●相談しやすい土壌
―芦原病院はこのプログラム以前にもさまざまな先駆的な取り組みをしていますね。
伊藤 芦原病院はもともと地域の公衆衛生を担う保健所のような機能も持っていました。24時間健康相談窓口として電話相談や訪問もします。生活のなかでおこってくる問題は、病院だけでは解決できないので、長年にわたり2002年度まで、月に一度浪速区と西成区の保健師さんが病院に集まってケース会議を行ってきました。妊産婦さんの問題、アルコール依存、DVサバイバーなどいろんなケースがあり、いつも行政とは連携して対応してきました。外国人親子のホームレスの方が受診したこともありました。お母さんは入院、子どもは今すぐ保護が必要な状況でした。そんなときは保健師さんを通して子どもには児童相談所での保護の手立てを講じ、医療職はお母さんに対して入院の働きかけをするという対応をしますが、そうしたことは日常的でした。
このようにケースごとの役割分担という蓄積はあったのですが、大阪市全24区に先駆けて西成区では児童虐待防止と子育て支援の多職種ネットワークを作り、芦原病院も加わりました。
井田 生活保護率、進学率、高齢者の単身世帯、釜ヶ崎など厳しい生活条件のもとで西成には、社会的資源としての人のつながり、相談しやすい土壌があったんですね。
しかし、こんな場面もありました。産後の訪問に行くと、雨が降っていたので仕事がなく狭い部屋に2、3組のカップルと走り回る子どもたちがいました。いろんな話をしていたら、「俺らだれからも祝ってもらってないんや」という言葉がポツンと出てきたのです。その帰り道、事情のある子どもほどいろんな人が関わらんとあかんのんちがうかな、親子が安心できる居場所があったらなという思いになりました。
松浦 芦原病院では10代の女性で「産みたい」という事例が多く出ていました。そのあと芦原病院で出産された3年間のデータ(97-99年)を調べてみました。それをもとに看護協会で発表して「産みたい10代が増えている」という問題提起をしました。2000年の浪速・西成両保健所との拡大会議のあと西成保健所はすぐに所轄の調査をされて、同和地区の10代の出産が一般地区よりも高いことが分かりました。
伊藤 90年代の後半から出産をしたい10代の妊婦さんが増えてきていることからその支援を模索してきました。2000年に「わが町にしなり子育てネット」が発足、同時期に10代の妊婦と親子が月1回集まれる場をつくろうと、芦原病院が地域や行政に提案して実現したのが「ころころくらぶ」です。
●最初は募集に苦労
―よりきびしい状況にある人たちを支えるという方向でさまざまな事業をつくってこられたわけですね。このような下地があったからこそプログラムをはじめることができたのかなと思います。それでは、具体的な展開についてお話ください。
岡井 募集の段階では、どこかに固まって虐待をする親がおられるわけではないし、より広く広報する必要がありました。行政的に言えば幼稚園、保育所の所長会で話してもらう、子育て支援センターから声をかけてもらう、などのアプローチをしました。
―1回の定員は?
岡井 10人ですが、申し込み時に電話でお話を聞いてから、全員面談をして、決定します。このプログラムに適した人に届けたいという想いが強かったです。芦原はどうでしたか。
松浦 参加する人に出会うまでの苦労は言うに言えないものがありました。「まちの保健室」事業も無事通って200万円のお金は来たけれど…。伊藤さんは靴を3足はつぶしたと思います。
伊藤 初年度はこのプログラムを大阪中説明して回り、ひと夏で200枚の名刺がなくなりました。きびしい状況にある人は窓口でチラシを見る気力もありませんので、病院、保健所、府・市の児童相談所などケースにかかわっている現場を一つひとつ回りました。特に児童相談所のケースワーカーさんの関心が高かったです。立ち入り調査や親子分離をする立場にある児童相談所が同時に親支援役割を求められても、親側からみて受け入れにくいからです。しかし、虐待通報への対応で物理的に精一杯で、プログラムの紹介までは余力が回らない。お金も来ている、子育てネットの各職種は動いている。あと数日でスタートが決まっている…。なのに肝心の参加者が集まっていない。そんな切羽詰った状態でした。
井田 そうしているうちに朝日新聞に「虐待―親にもケアを」という見出しでプログラムの記事が出ました。わたしたちは「こんな見出しで誰が来るの!」と焦りました。ところが、ジャンジャン電話がかかってきたんです。
松浦 事前に初期面接をして、このプログラムがあっているのか話し合うのですが、その日から毎日面接ですべてが数日で決まってしまいました。8月23日のときには「どないしよう」と思っていたのですが、無事8月31日にスタートできました。
伊藤 本当にプログラムに適した人たちが自ら電話してきた、そのことでこのプログラムの成功を確信しました。
●当事者の全体性に働きかける
―それでどんなふうに始まったんですか。
伊藤 グループで行うものですから顔見知りの人がいないように調整して、15回のプログラムがスタートします。まず、このプログラムの目的を確認します。15回を通してセルフケアと問題解決ができるようになることで最終的に虐待をやめることを目的としています。
毎回のワークは2時間、3人のファシリテーターが進行して、参加型の・まなびのワーク・と・じぶんをトーク・の時間があります。その後、その日に個別の対応が必要な人は個人フォロータイムを取って応じます。
これまでの虐待予防のアプローチでは、子育ての方法のノウハウを教えるとか怒りのコントロール法などが紹介されました。しかし、深刻な状況に置かれている人には、理性だけを相手にしても効きません。その人がもっている全体性、理性・感情・身体感覚すべてに働きかける必要があります。それを意図したホリスティックな心理教育プログラムです。参加者の語りは言いっぱなしでなく、ファシリテーターからごく短いコメントが返されます。
●コメント返しに込めるエネルギー
―語る人、一人ひとりにコメントを返すんですか。
伊藤 はい。コメントの目的はいくつかありますが、助言とか指導とかではありません。参加者が内に持つ力への信頼を回復していくために気づきを促す、また一人の人が語ってくれた中心を全体に共有できるようにすることも重要です。シンボルやたとえ話を多用して余韻を大事にし、ワークの時間が終わっても日々の生活の中でふと思い出せるようなコメントを、その時の参加者の語りに合わせて場に返すのです。
松浦 このコメント返しはすごく大変です。語った人の気づきがグループの力動に結びつく、そんなコメントが求められます。ワークの終わったその日のうちに終電まで3人で毎回反省し、記録に残し、森田さんのスーパーバイズを受けます。
―1週間に1回2時間の準備はものすごいものですね。
伊藤 プログラムの序盤は安心の場づくりに集中して傾聴に徹しますが、中盤以降はその人の個性やグループの動きに合わせてコメントします。3人のファシリテーターの違いも反映しますので、このコメントで参加者は何をもって帰れるか、よかったと感じたら何がよかったのか、悪かったら何が悪かったのか、代替案はどうか、と徹底的に振り返りをして次週に備えます。
岡井 高槻もファシリテーターの3人のコメント返しの視点が少しずつ違うので、反省会が大変です。個人とグループにとってどうだったのかが検証の軸になりますが、本当に苦しいです。
井田 そのときに、適切なコメントではなかったと意見が出されると、どうしても自分の中で心のゆらぎを感じてしまいます。プロとしての検証が必要なことはもちろんですが、セルフケアのためにエンパワメント・センターの基礎研修を何度も何度も受けました。
松浦 ファシリテーターは、自分でも自然を体感するのが必要なので、近所の胡桃の木のもとで記録ノートをつくったりしました。当番のファシリテーター以外の人が逐次記録をし、3人分まとめて1回の記録にします。
岡井 忙しい中でも自分たちが自然を感じておかなければいけない。参加者もゆっくりすわってお茶を飲む時間も、花が咲いても見に行く時間がなかった。生活の中の自分を見つめることができるようになったと、後から語ってくれます。
松浦 四季を感じるだけでもセルフケアになりますね。きびしい状況にあるときは四季を感じるどころか、息も十分にできない状態にあります。
●虐待がおこるのは
―さて、虐待についてさまざまな見方がありますが。虐待がどのような状況でおこっているのか少し教えてください。
松浦 事件報道などの影響もあって、子どもを虐待するなんて特別な人、と思われているのですが、「最初に10人集まったときは、この中で私以外の誰が虐待なんかしているのだろうと思った」と、何人もの参加者の方がおっしゃいます。自分はダメだと思っている、しっかりしなくちゃと思って、生活上もきちんとされており、よき妻よき母のあるべき像に向けて自分を律している人や、気遣いができる人も多いです。
井田 プログラムにたずさわって、別の場面でも完璧な母親を目の当たりにすると、こういったことから始まっていくのかなと思うようになりました。最近訪問したお母さんも、一カ月のあかちゃんがいるのにきちんと部屋が片付いている。「母親なんだから母乳でないと」ととてもこだわって、体がしんどいと言いながら、顔はニコニコしている。昔の私だったらこれがSOSのサインだと気づいていないかもしれない、でも、視点が変わるとこの潔癖さはとても危険だと感じます。
松浦 自分自身が子どもの時に虐待されているから自分も同じ運命をたどるのだと「虐待の連鎖」という言説に苦しんでいる人もいる。そのときに伊藤さんはコメント返しで「虐待の連鎖はありません」と返していましたね。
●自分を変えるのではなく、視点を変える
伊藤 安易に使われがちですが、そのレッテルに傷ついている人がたくさんいます。15回を通して、変われなくてもあなたはあなたのままでいい、ということが分かれば。自分じゃないものに変わらなければと思っているからつらい。苦しみのただ中を生きてきた人が、私が今ここにいる、ということの大事さに気づいて欲しい。
自己肯定感という言葉がありますが、この社会では何か特別の付加価値がなければ肯定されないようなイメージですね。でも、私が今ここにいるということが自己肯定だと思います。すごくシンプルなことですけど。
井田 自分がダメな人間だから、子どもをいい子に育てられないと思い込んでいる。でもそうではない。氷山のたとえがありますが、見えている部分だけで「いい妻、いい母」になろう、ちゃんと認められたいと思ってがんばっているけど、気づいていない自分の部分がたくさんあって、子どもにも知らない部分、気づいていない部分があると発見すれば、子育てが楽になります。
●部落で培われた視点があったからこそ
―変わるのではなく、視点を変えていくということですね。
伊藤 氷山の見えている部分が崩れていって水面下の見えていない部分が大きく姿を現すことがあります。このように参加者は自分の内側にある資源を使えるようになっていくのです。プログラムが終わっても、変化は続いていく。単にこれが知識やノウハウを学ぶものだったら終わればそれまでかもしれません。しかしプログラムは、ダメージモデルで何かを教えたり与えたりするのではなくエンパワメントに根ざしています。参加者たちも、人生に大きな痛手を負いながら、エネルギーを使って生きてきた人たちです。だから生き方そのものに影響するし、終わっても発展し続ける。
具体的に、深刻な状況の方たちにどんな変化が起こっていくのか、この度報告書に起こしましたので、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思っているところです。
実は、これこそ高槻や芦原など部落解放運動や同和教育が育ててきた視点、つまり・この人の中にこそリソースがあり、人とつながることでそれは使えるようになっていくのだ・というものの見方があったからこそ、このプログラムを実践できたのだと思います。ダメやダメやって言われて人は変わらない。
井田 ワークが進むに連れて、保育で見る子どもの様子も変わっていきます。最初はお人形さんみたいだった子どもさんの表情が豊かになり、言葉も多くなって、お母さんにいっぱい話しかけたり問いかけたりしていましたね。「なんでー、なんでー」と自分が納得できないことを何度もきいていました。お母さんも、以前の彼女なら「うるさい!」と一喝していたところが、言葉をいっぱい使って子どもに説明しようとされてしていたのが印象的です。
松浦 ゆりさんの研修でエンパワメントという考え方に初めて出会ったような気がしていたけれど、芦原病院で働いているうちに、すでにエンパワメントの考え方や多様性、人権の根っこに出会っていたと思う。
井田 持っている力は何かに出会わないと気づかない。そのことが人であったり自然であったりするのかなって思う。人との出会いはその人にとって運命的なものがあるのかな。危機の中でSOSを出していることがたくさんあって、誰かが気づいてくれたらプログラムに出会えるのかなと思います。
―今後、このプログラムが広がっていく展望についてお話ください。
伊藤 グループの力動と心理教育の手法を使って、全体性の回復を促す「MY TREEペアレンツ・プログラム」は効果が高くても、今すぐ広汎にファシリテーターを養成できないだろうと言われます。しかし虐待する親といってもさまざまで、このプログラムが適した人、あるいは、他のプログラムが適している人もいるかもしれない。その意味で汎用性よりも多様性だと思う。でも、このプログラムの理念の部分は広がっていったらいいと思います。
岡井 プログラムの参加者にとって最初の出発点は青少年交流センターだったけど、いつ電話しても必ずいるというのはこういう相談業務では大事だと思っている。また、プログラムに参加したこの空間だけの人間関係を維持しようと思うと、参加できる人は小学校区や中学校区で一人くらい。他市からも相互に参加できる仕組みをつくるのが大事ですね。
―ありがとうございました。同和地区の病院や青少年交流センターなどでこれまで培ったさまざまな力と社会的資源を生かして、まさに虐待をしている親の回復支援プログラムを実践することができた、ということがよく分かりました。それにしてもプログラムを担うファシリテーターをはじめネットワークを組む多職種の方の献身的な努力に頭が下がる思いです。