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2006.10.25
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights2006年7月号(NO.220)
氷山の下にある人種差別・人種主義
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教育基本法「改正」問題の読み方

桂 正孝(かつら・まさたか 宝塚造形芸術大学教授)

一、今、なぜ「改正」法案が国会に上程されたのか

 教育基本法(以下、教基法)の「改正」は、1947年3月31日の公布・施行以来、一部保守支配層の悲願の一つであった。制定当時から、教基法には「わが国の伝統と文化の尊重・継承」や「よき日本人の育成」と言った視点が欠落していると主張していた。51年の天野貞祐文相の「国民実践要領」構想の発表以来、「教育勅語」に郷愁を抱く歴代の幾人かの文相による教基法見直し発言がなされたが、そのつど、当時のおおかたの世論やマスコミの批判を浴びて、「改正」に手をつけることはできなかった。

 60年ぶりに「改正」法案国会上程を可能にした情勢変化とは何か。その契機となった主な社会背景としては、まず第一に90年代の東西冷戦体制の崩壊により世界市場が一つになり、アメリカの単独行動主義が世界政治を左右する激変転換期を迎えたこと。

 それとともに国内では、政府の失政による土地本位制に根ざした経済のバブル化と崩壊、深刻なデフレ不況に陥り、「失われた10年」と評されるように、国民大衆の生活が破壊され、自殺者が8年連続3万人を越えるなど、社会不安が広がり、排外主義的なナショナリズムの温床が形成されたことがあげられよう。

 第二の状況変化は、経済と政治のグローバル化のなかで、国内政治の五五体制が崩壊し再編されるとともに政界の右傾化が進み、市場万能論の新自由主義政策によって国家財政の危機的状況から脱出しようとする小泉首相の政策基調が国民の支持を集め、国会での憲法改正論議も進展し、昨年の衆議院選挙では与党が郵政民営化一点突破で大勝し、国会の議席の三分の二を占めるに至ったことである。その結果、与党の自民党と公明党の密室協議の末に妥協が成立し、ようやく法案上程に至ったのである。

二、「改正」法案の主な特徴と論点

 ここでは、「改正」法案の主な特徴を取り上げ、その論点を提起しておこう。

 まず第一は、教基法が制定当時から、「準憲法的性格」を有するという法的位置づけが与えられてきた経緯を無視した改正が行われようとしていることである。教基法は、日本国憲法との密接な関連のもとに、教育上の原則を明示するという役割に限定した法的構成になっている。したがって、この教育憲法的な性格を変更するのであれば、今、なぜ憲法改正に先立って改正しなければならないのかについて十分な論拠と説明が不可欠である。その説明がなされていないのである。

 そのうえ、第二に、「改正」法案では、新たに生涯学習、大学、私立学校、家庭教育、幼児教育、学校・家庭・地域住民等との連携協力など新しい条項が付加され、現行教基法第五条・男女共学の条項が削除されているのである。これらの新たな条項の選択理由・基準は不明であり、説明がなされていないというきわめて恣意(しい)的な法的構成になっている。周知のように、付加されたこれらの領域は、教育・福祉などの行政施策の中で下位法が制定されており、その政策レベルの問題として対処すべきであり、教基法で特段規定する必要はない。

 第三は、教基法「改正」問題で、もっとも中心的な論議を呼び起こしている「愛国心」強制の問題である。言いかえれば、法律で心を律してよいかという問題である。この問題は、現行の教基法、ひいては憲法の基本理念の変更に及ぶ問題である。現行憲法に規定されていない「公共の精神を尊び」「伝統の継承」「豊かな情操と道徳心を培う」「伝統と文化を尊重」「わが国と郷土を愛する態度」など国民に「必要な資質」を条項に付加し、教育の中で、そうした心や態度を養うことを法的に強制していることである。これは、憲法第一九条の思想・良心の自由の侵害のおそれがあるだけでなく、近代的立憲主義の否定に至ることが危ぐされる。

 しかも、「改正」法案の第2条では、新たに五つの「教育の目標」をあげ、国民に必要とされる基本的な資質として、20にものぼる徳目を盛り込み。かつての教育勅語の徳目数(11)を倍増させるほどの徳目主義に転換しているのである。なお、教育勅語は勅令であり、法律ではなかったのである。「改正」法案は、現代の「教育勅語もどき」の法律化としての一面をもっている。

 第四は、教基法第10条・教育行政の「改正」問題である。現行の条文第1項から教育は「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」が削除され、教育の国民に対する直接責任制の原則が弱められた。これは、教基法の前文から、日本国憲法の理想の実現は、「根本において教育の力にまつべきものである」という文章の削除と相まって、国民主権の原則に基づく教育の自律性の弱体化と軌を一にするものである。

 さらに、教基法第10条2項に規定されていた教育行政の目標は教育の「諸条件の整備確立」にあるとした条文が削除されたことは、教育行政による公教育の現場の教育実践に対する統制の強化を可能にする法制に変更しようとするもくろみの証左であろう。

 かつて明治憲法では、教育が臣民の義務とされ、教育のおきては天皇大権(勅命)にゆだねられていた。その結果、超国家主義や軍国主義の教育に陥り、戦争の惨禍を招いた歴史的反省に立って、日本国憲法と教基法が制定されたのである。

 したがって、今回の教基法の改正は、法手続き的には、「改正」法案となっているが、内容的には、「改悪」法案であり、「新教基法」の制定というべき性格をもつものといえよう。

三、教基法「改正」の論理と政治的ねらい

 「改正」法案の国会上程に至る教育政策的審議の流れを振り返るとき、その直接の出発点は、中曽根首相の時代の内閣直属の臨時教育審議会(1984〜87年)にさかのぼる。「戦後教育の総決算」を旗印に教育改革に挑んだが、教基法の「改正」は、果たせなかった。その宿題は、小渕首相(途中で森首相に代わる)の私的諮問機関として設立された「教育改革国民会議」(2000年、以下、国民会議)に引き継がれた。国民会議報告(教育を変える17の提案)の中で、「新しい時代にふさわしい教育基本法を」という方針が打ち出された。

 そこでは、「危機に瀕する日本の教育」として、いじめ・不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年の続発などの「教育の荒廃」問題が取り上げられ、なんの論証もぬきに、その原因の一半を戦後教育の「過度の平等主義」(中教審中間報告、2002年)に求め、学校での道徳教育の強化、奉仕活動の義務化、問題児への出席停止措置などを提言した。つまり、「教育の荒廃」問題にことよせて、言外に教基法では社会の変化に対応できないほど時代遅れであるとされたのである。そこで、新しい時代の教基法のねらいを、日本人としての自覚をもち、わが国の伝統、文化の継承・尊重・発展をめざすと明示し、宗教的情操もこの視点から重視する必要があるという。これによって、現行教基法の欠落部分を補うことができるとしている。

 このような国民会議の論調は、そのまま中央教育審議会答申(2003年)に引き継がれ、さらに今日の「改正」法案の原型となっている。

 さらに、「改正」法案に至る経緯と、その論議の基調の背後には、現行憲法の「改正」の政治的画策と密接にリンクしていることを見過ごしてはならない。

 昨年(2005年)10月28日に決定された自民党新憲法草案によれば、その前文に「国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務を共有し」と愛国心が条文化されている。現行憲法の第九条を改廃して自衛軍の保持を明記したこととあわせて、まさに新憲法制定案であり、教基法の「改正」も、新憲法草案に接合した「新教基法」の制定案なのである。

四、「改正」論議は出直しを

 すでに検討したように、「改正」法案には、個人の基本的人権に対する国家権力の濫用を防ぎ、教育を受ける権利を保障するという日本国憲法の立憲主義の理念からみて、「改正」と評価するに値する内容を見つけ出すことは困難である。

 むしろ、現行教基法に「愛国心」や「伝統・文化の継承・尊重」、「公共の精神」などの徳目を付加することによって、日本国憲法の立憲主義を形がい化させ、見せかけだけにしようとしているのではないかとの危惧(きぐ)の念さえ禁じ得ない。

 それは、「愛国心」という多義的な用語を使用する場合、そこでの「国」とは、「ステート」なのか、「ネーション」なのかという明確な概念上の区別を不問に付しながら、その内実は自明のこととして、「ネーション」の意味に一方的に規定しているからである。もし、このまま法律になれば、その中身は、国家権力による公権的解釈に恣意(しい)的にゆだねられるだけでなく、ナショナリズムに誘導するしかけになるであろう。

 こうしたからくりは、同様に「伝統・文化の継承」や「公共の精神」についてもいえることである。継承すべき伝統と克服すべきものとを区別することこそ重要である。

 このように、あいまいでずさんな用語法に基づく「改正」法案では、「教育の荒廃」を克服することは不可能である。