2001年に起きた大阪教育大学附属池田小学校での児童殺傷事件のあと、学校への加害者の侵入や学校内での殺人・傷害事件が続き、学校の「安全神話」が崩れたといわれるようになった。本来、安全であるはずの学校がもはや安全な場ではないことが危機感をもって語られ、不審者の立ち入りを食い止めようとする動きが高まった。また、時期を同じくして、子どもが犠牲になった犯罪が相次いで報じられると、全国各地の地域そして日本全体の「安全神話」さえも揺るがされたと、この時代を憂慮する声も聞かれるようになった。
たしかに、学校内での殺傷事件が連続して起こる事態は過去に類を見ず、人びとが不安を抱くのも当然のことであろう。学校が「安全」であるのは「神話」つまり楽観的な思い込みにすぎなかったのだという気づきは、学校や地域の危険性を見直す動きにつながった。学校はこぞって刺股(さすまた)を購入し、校門を施錠し、防犯カメラを設置した。「不審者」を発見し、犯行を食い止めるために、多くの学校や地域は不審者対策に乗り出した――外部から侵入してくる不審者から子どもたちを守るために。人びとが想定した危険性とは、あくまで安全な校内や地域に不審者がやってくるというものだった。
しかしながら、子どもが暴力を受けるのは、必ずしも「外部」の人からでもなければ、「不審者」からでもない。家族や親戚、同級生、教員、地域の顔見知りという「内部」の「信用できる」相手からも、子どもに対する暴力はふるわれている。虐待やDV(ドメスティック・バイオレンス)の目撃、いじめ、セクシュアル・ハラスメント…こう名づけられれば、「それは暴力、犯罪だ」と認識されるのかもしれないが、それらはしばしば見過ごされ、見逃されてしまう。つまり、子どもの安全を守るというならば、地域内、学校内、家庭内という「内部」こそ見直し、加害者である「知り合い」を問うことなしには有効な対策は進まない。だが、現状の防犯対策において、内部を見直す視点はあるだろうか。加害者の厳罰化を求める声には、加害者となりうる自分の身内は想定されているだろうか。
結局のところ、学校や家庭は安全であるという「神話」は、いまだ多くの人の感覚に根づいている。外部の不審者探しにやっきになり、人びとがかりそめの連帯感を味わい、安堵してしまうのなら、それは新たな犯罪を許す格好の土壌になるだろう。大人が安全という神話にとらわれている限り、子どもの被害は隠蔽される。子どもの安全を求めるならば、私たちの身近にある暴力に気づき、それを許さない姿勢が必要なはずだ。
「密室」のなかの暴力
子どもにとって危険なのは、はたして生活の「外部」なのか、それとも「内部」なのか。見知らぬ人に殺される子どもと、親から虐待されて死に至る子どもは、どちらが多いのか。路上で突然殴られる経験と、家や学校のなかで殴られる経験は、どちらがよくあることなのか。部屋に押し入られてセックスをされることと、交際相手から強引にセックスをされることは、どちらが起こりやすいか。残念ながら、どれも明確な実態はわかっていない。実態というのは、警察に届けだされなかったり、社会に認識されなかったり、マスコミに報じられない被害も含めた件数をいう。虐待死の件数ひとつとっても、虐待の可能性が想定されなければ、事故や病気による死亡として計上されてしまう。いわんや家庭内での継続的な暴行や性暴力は、被害を受けた本人も訴えにくく、周囲の大人も看過しやすいため、真相は隠されたままにされやすい。
それでも、家庭や学校、親しい人間関係のなかで起こる暴力について、いくつかの調査結果から推測することができる。例えば、2005年に内閣府が実施した調査(1)では、夫から暴行や精神的脅迫などDVの被害を受けた女性は33.2%にのぼる。3人に1人の割合であり、家庭内での暴力が決してまれなできごとではないことを意味している。家庭で育つ子どもは暴力にさらされながら育っていく。夫婦間のDVと子どもへの虐待の関連を示唆する研究も多く、子どもにとって家庭とは必ずしも安全な場所とはいえないことがわかる。
また、高校生を対象に、幼少期から調査時点までの性暴力被害について尋ねた調査(2)からは、女子の約6割、男子の約3割が何らかの性暴力を受けており、女子の5.2%が高校在学中にセックスを強要された経験があることが明らかになった。望まないセックスをした相手は恋人や知人などであり、なかには家族や教師も含まれていた。性暴力の加害者は被害者と親しい間柄の人であることが多く、自室や相手の家において暴力がふるわれるという傾向は、成人を対象にした調査や欧米での研究結果とも重なるものである。ほかにも、女子の多くがひとけのない路上での性器露出や、混雑した車内でのチカン被害にあっていた。女子にとっては、家庭内のみならず地域や交通機関も安全な場所ではないのだ。
DVも虐待も性暴力も、密室で行われやすく、それゆえ見えにくいと言われる。確かにその通りである。しかし、その密室を覗いたとして、中にある暴力は見えるのだろうか。TVドラマを見ればすぐわかるだろう――大胆に描かれた暴力は、まるで暴力とはみなされていないということに。そこでは、不機嫌に黙り威厳を示す父親像、夫の顔色をみながら家族に尽くす母親像、殴り合って友情を確かめる男子像、そして恋人に愛されるために奔走する女子像が描かれ、愛情あふれる物語として人びとに好まれ続けている。つまり、問題は「密室」にあるのではない。暴力に気づかない視点が暴力を密室化し、潜在化させるのだ。
ジェンダー・センシティブな視点で支配を解く
では、暴力に気づくにはどうしたらよいだろうか。私はジェンダー・センシティブの視点を持つことが大きな鍵になると考えている。ジェンダー・センシティブとは、自分のジェンダー観を内省し、社会に網の目のように組み込まれたジェンダーの構造(システム)に気づく視点であり姿勢である。当たり前とか普通であるとみなされがちな日常に、どんなジェンダーが存在し、物事の判断基準としてジェンダーが機能しているのか。それらを丁寧に見ていくことで、ジェンダーによって隠蔽されたり合理化された暴力に気づくことができる。
暴力とは支配である。殴ることで分断し、脅すことでつなぎとめる。そこには人と人との関係性はなく、支配でつなぐ関係があるだけだ。ジェンダー・センシティブな視点で社会を見ると、男女のもつ権力(パワー)の違いや支配関係が見えやすくなる。支配関係が見えると、目に見えない暴力にも気づくことができる。例えば、たとえ殴る蹴るといった身体的暴行をしなくても、支配的な関係のなかでは眉の動かし方ひとつで、相手を意のままに動かすことも可能になる。父親の咳払いが家庭内の重要事項を決定したり、成績表の内申点をほのめかす教師の発言が生徒を従順にさせるように。
ジェンダーは男性と女性の非対照性を示すだけの概念ではない。男性的あるいは女性的とされる価値観や認識、イメージを含んだ概念である。そのため、男性的とみなされること、例えば身体が大きく、集団を先導し、社会的・経済的成功を収めることなどが望ましいとされる社会では、そうでない男性は排斥される。女性や障害者はいわずもがなである。2006年には、「勝ち組/負け組」や「上流/下流」といった格差社会を表す言葉が流行(はや)り、さも新しい現象のように言われたが、何のことはない。古くからある男性らしさというジェンダーに、今も多くの人がとらわれ、生きにくさを感じているということだ。
男性らしさというジェンダーは、強さとしての暴力を容認してしまう。たとえ、声を荒げても、がさつだとかヒステリックだとみなされることはなく、元気がよいとか貫禄があるとみなされる。ジェンダーにより男性の暴力性が助長され、女性は忍耐が求められる。だが、「勝ち組/負け組」の風潮にみるように、ジェンダーは男性自身の被評価(「男のくせに」)や被支配(「上司には逆らえない」)にもつながっている。ジェンダー・センシティブであることは、男性にとって暴力や支配の連鎖から抜け出す糸口になるはずだが――?
「女性は産む機械」発言は誰のもの
柳澤伯夫厚生労働大臣が、2007年1月27日に松江市内で開かれた自民県議の決起集会の講演で少子化問題にふれた際、「15から50歳の女性の数は決まっている。生む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う」と発言し、その後、大きな問題になった。子どもを持つか持たないかは個人の自由であり、柳澤大臣の発言は女性の性と生殖の自己決定権(リプロダクティヴライツ)を侵害するものである。しかも、社会環境を整えるべき立場にある大臣が、自らの責任を棚に上げて、女性個人にその責を負わすかのような言い方。人間を機械や装置に見立てる感覚にも人権意識のなさが伺えるが、問題はその比喩だけにあるのではない。その後の会見でも、柳澤大臣は「不適切な言葉で、皆さん(女性)の役割を表現してしまい」「女性の皆さんを傷つける発言をした」と謝罪を繰り返した。どう表現しようと、「皆さんの役割」を出産と決めつけていること自体が問題であるのに、彼は気づかない。「傷つけて申し訳ない」と言うけれど、謝るべきは彼自身のジェンダー・センシティブの欠如についてであろう。女性を人格なき産む役割とみなすジェンダーを国民に押しつけ、少子化の責任は女性にあるという社会のジェンダー構造を強化させている。
この件は、大臣の「失言」問題と矮小化されて報じられているが、言わなければ済んだという簡単な問題ではない。たとえ口にしなくとも、彼によって「機械が単独で頑張れる」「産めよ増やせよ」の社会づくりが推進されていくことに問題があるのだ。野党側は柳澤大臣の辞任を求め、国会審議拒否の動きに出た。しかし、当の野党議員も、ジェンダー・センシティブの欠落がいかに問題であるかを理解している人はどれだけいるのか。女性の身体を政治の手段や権力争いの道具にするのなら、それこそ柳澤大臣と同じ穴のムジナにすぎない。
これまでも、2002年に森喜朗首相(当時)は「子どもを産まない女に年金はいらない」と発言し、2003年には太田誠一自民党行政改革推進本部長(当時)が大学サークルによる集団レイプ事件について「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。正常に近いんじゃないか」と延べたうえ、福田官房長官(当時)が「男は黒豹」と太田議員をフォローする顛末があった。そして、現在も彼らは政界で権力を握り続けている。彼らのジェンダー認識がどんなに暴力的で非人道的であろうとも、それは容認されてしまうのだ。政治家の「失言」は、ただ一人の声ではなく、隠れた社会の声でもあるといえよう。
柳澤大臣の発言も、長く報じられるなかである種の正当性を持ち始めることが懸念される。長期にわたる報道に辟易しはじめた国民の感情は、本来は問題の発端である大臣に向かうべきものであるにもかかわらず、しばしば異議申し立てをした側へと向きやすい。「まだ、そんなことを言っているのか」と。問題は「そんなこと」と矮小化され、言葉狩りだとか柳澤大臣が気の毒だという論調が上がることは目に見えている。こうした展開は、暴力のあとに起こる定番だ。例えば、暴力や犯罪にあった被害者に対し、周囲は一気に同情心を寄せ、悪に対する正義を主張する。正論は人に快感をもたらすが、問題が他人事であるならば、興奮はすぐに冷めてしまう。問題はすぐには解決しないのに、当事者以外にとってはもはや過ぎたこととなる。いつまでも騒ぐ当事者は、周囲から厄介者と見なされ、やがて問題は被害者にあるとすりかえられてしまう。暴力に対し異議を唱える側に攻撃の矛先が向くことは、暴力をめぐる議論のなかではよく起こる。被害者は二重に傷つけられることになる。
暴力に気づくことの意味
暴力を正当化するのは政治家ばかりではない。子どもの安全について、暴力や犯罪は身近なところにあると述べると、「うちの学校は大丈夫」とまるで取り合わない校長もいる。また、中学や高校の生徒による性的な暴力は、「血気盛んな年頃だから」と放置される例も聞く。暴力は生徒間だけでなく、非常勤講師や外国人講師など立場の弱い教員へ向かうこともある。権力は必ずしも大人のほうが子どもよりも強いわけではないのだ。網の目のような支配関係のなかで、黙認された暴力はさらに蔓延してしまう。暴力に気づかない限り、それは思春期の好奇心として看過され、問題化されることはない。
また、暴力をふるう側も、子ども時代に暴力を受けたという背景をもつ者が多いと聞く。暴力の被害と加害は、そう明確に線で分けられるものではない。暴力はさらなる暴力を生む。加害は被害を生み、被害は加害に転じる。身近な暴力に気づくことは、早期に被害者への対応ができるだけでなく、加害者のさらなる暴力を食い止めることにもつながる。
何かに気づくことは、何かに関わり、相手に寄り添うことである。暴力に気づくことは、加害者を断罪することではなく、加害者の抱える問題に関心を寄せることであるだろう。暴力に気づくことは、被害者を保護することではなく、被害者に気持ちを寄せ、回復のための支援をすることでもあるだろう。気づくことで、確実に何かが変わる。その変化の積み重ねが、暴力のない安全な社会へつながるのではないだろうか。
- 内閣府男女共同参画室(2006)「男女間における暴力に関する調査 報告書」
- 野坂祐子(2005)「高校生の性暴力被害―その実態と私たちの課題」『ヒューマンライツ』2005年2月号、6部落解放・人権研究所