小学校や中学校の授業風景を見学させてもらう機会があるたびに、教室の中でどういう子どもが声を発し、どういう子どもが沈黙しているのかに注目してしまう。
教師の質問に答える声や、授業の流れにチャチャを入れる声は、男の子から発せられていることが多い。教室に一時間いて、一度も女の子の声を聞かなかったと思うこともある。しかし、沈黙しているのは女の子ばかりではない。もちろん男の子の中にも沈黙を守っている子どもはいる。
声という形ではなくとも、子どもたちはさまざまなメッセージを発している。表情や姿勢、身体の動きが、彼(女)らの気持ちや考えを伝えている。話している教師の顔をまともに見ている。ぼんやりどこかを見ている。児童(生徒)同士で目配せしている。椅子からずり落ちそうに座っている。机につっぷしている。それらのすべてが、子どもたちの状況を知る手がかりだ。授業をまじめに聞いているのか、退屈しているのか。授業内容や教師を拒否しているのか、何か他に気になることがあってふさいでいるのか。教師がコントロールする教室空間においては、子どもたちからのネガティブなメッセージは、声ではなく身振りで伝えられることが多い。無表情のままで座っていたり、だらしない姿勢をとったり、ノートをとろうとしなかったりする子どもたちが、その身振りによって発している「声」は、心の中に大きく響いてくる。
学校とは、誰が声を出せる場なのか。これが、学校教育の課題について考える時に、いつも私自身の念頭にある問いである。
教育に関する憲法とも言われる教育基本法の改正案が、十分な審議を尽くしたとは言い難い状況で2006年12月15日に第165回臨時国会を通過、12月22日には新しい教育基本法として公布・施行された。今般の教育基本法改正は、現在の学校教育が抱える諸問題を解決するために必要だとされた。教育基本法の改正は、子どもたちが「声」を発しやすい環境をつくり出すことに貢献し得るのか。そのことについて、ジェンダーの視点から考察したい。
男女共学条項は歴史的使命を終えたのか
ジェンダーの視点から教育基本法改正について考えるといった時に、まず挙げねばならないのは、旧教育基本法第5条「男女共学」の削除であろう。「男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない」とさだめていた旧第5条は、戦後の新しい学校教育制度が掲げた男女平等の理念を代表するものだ。男女平等に関しては、教育の機会均等を定めた第3条が、「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」と、性別による差別を禁止している。その条項に重ねて、第5条で男女共学が謳われているのは、戦前の学校教育システムが男女別学・別学校体系により女性に対する差別を制度化していたことへの反省に基づいている。また、「男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって」の文言は単なるお題目ではなく、戦前の社会で影響力があった男尊女卑の考え方を否定するという意味を持っていた。男女共学は、戦後教育における男女平等の出発点であった。
改正をめぐる議論の中で、第5条の削減については、男女共学が定着し、女子の進学率も相当に上昇した現在、歴史的使命を終えたと論じられた。男女共学条項は本当に歴史的使命を終えたのだろうか。
現在もなお、高等教育進学率における男女間格差や、後期中等教育および高等教育での専攻分野における男女比率のアンバランスなど、就学経路上の男女平等を確立するための課題は山積している。小学校から中学校へ、中学校から高校へ、そして高等教育機関へと学校段階が上がるにつれて、男女の進路は分化し、労働市場における位置の違いにつながっていく。私立の中学校・高校、一部の県(宮城・群馬・栃木・埼玉など)の公立高校、公私立の高等教育機関に用意されている男女別学の場が、進路の性別分化に果たしている役割は大きい。
ジェンダーの視点からの教育研究は、別学の問題のみならず、男女共学の場におけるジェンダー・バイアス、固定的な性別特性論を伝達する「かくれたカリキュラム」などの問題を指摘してきた。個人の自由な選択の結果にみえる男女の進路分化が、実は社会的・文化的な構造によって規定されていることを見逃すことはできない。
男女共学の原則を謳った第5条は、これらの課題解決のための基盤を提供していたはずだった。戦後60年以上経過してやっと、男女共同参画施策の流れの中で、公立高校の別学の見直しがすすめられている。すでに共学になっている教育機関に対しても、その中にジェンダー・バイアス、たとえば女子の理数系能力の開発を阻む壁が存在しないかといった問いかけがなされ、男女共学を真に男女平等な環境にするための課題が模索されている。男女共学条項が歴史的役割を終えたとは到底言えない。
となれば、第5条の削除は、別の意味で歴史的役割を果たすことになるだろう。一つには、公立別学高校の共学化が検討されている地域への影響が懸念される。また、教育改革の自由化・多様化路線の一貫として、男女特性論に基づいた公立学校の別学が新たに誕生する可能性も否定できない。実際、そうしたアイデアは、教育基本法改正の議論の過程ですでに提出されている。戦後残存した公立の男子高校・女子高校と女子大学はあったが、新たにつくられた別学の公立学校は一校も無い。しかし、新たに公立別学校が設立されるということは、まさに時代を画する出来事になるだろう。
「教育の目標」としての男女の平等
第5条削除のかわりに、男女平等に関する内容が新たに盛り込まれたとされるのが、「教育の目標」についてさだめた第2条第3号である。第2条第3号は、「正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」を、「教育の目標」の一つとして規定している。その中に確かに、旧基本法には含まれていない「男女の平等」という理念が掲げられている。この条項は、教育における男女平等を確立するという文脈において、積極的に評価し得るものだろうか。
そもそもこの第2条そのものが、国民に求められる「徳目」をさだめる性格をもち、私たちの精神的自由を侵す危険性をはらんでいるということは、今回の教育基本法「改正」をめぐる議論の中でさかんに指摘されてきた。男女平等は国民にとっての権利であり、名宛人を国家とする従来の教育基本法の理念からすれば、「教育上男女の平等は保障されなければならない」といった国家の責務をさだめる条項として位置づけられるべきである。にもかかわらず、新しい教育基本法では、男女平等に関して国の責務をさだめる条項の替わりに、国民にもとめられる「徳目」の一つとして「男女平等」を掲げることになった。この条項が、国家は男女平等な教育環境を保障しなければならない、あるいは、教育は男女平等を促進する役割を担うべきだという、公教育の側の責任や義務を規定したものでないことは、非常に重要な点である。
もちろん、人びとの間に「男女平等」の意識を形成することを、教育の目標として定めることを肯定的に受け止める立場もあり得る。人権や平等、公正に関わる学習の機会を子どもたちに提供することは必要だろう。だが、その場合も、この第2条第3号においては、「男女平等」という理念が果たして人権や公正の問題として扱われているのかという疑問が生じる。男女の平等は、なぜ、他の人権問題と切り離されて、ここに挿入されているのだろうか。旧基本法の、男女共学条項は、戦前に公然と存在していた制度的差別を禁ずるためであり、単独で明記されるのには相応の理由があったわけだが、「教育の目標」として掲げられる時に種々の差別問題には触れず「男女の平等」だけが挙げられる理由は不明である。
「男女の平等」は差別、不公正の問題として位置づけられていないとも考えられる。「男女平等」は「公共の精神」といった概念と並べて位置づけられ、しかも、第3号の最後は「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」で結ばれる。ここでの「男女の平等」概念が、男女の能力や役割の違いを認め合って協力するという、古めかしい性別特性論にいとも簡単に引き寄せられてしまうものであることは、この間の国会審議においても明らかだ。男女共学条項削減をめぐっての質疑の中で、伊吹文部科学大臣は四年制大学への進学率に性差について触れ、「やはり全く男女は、もちろん体のつくりその他においていろいろ違いが、本質的な違いがあるということを前提に申し上げれば」(2006年12月5日、参議院・教育基本法に関する特別委員会)と述べ、進学率の差は本質的な違いが結果としてあらわれたものであり、保障されなければならない機会の平等はすでに「定着」しているとの認識を示している。男女の平等に関わって、公教育の側の課題は存在しないと宣言しているに等しい。
家庭責任の強調
新しい教育基本法は、家庭での教育に関わる条項を二つ新設している。子の教育についての保護者の「第一義的責任」をさだめた新10条「家庭教育」と、幼児期を「生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」と定義する第11条「幼児期の教育」である。
第10条は、「父母その他の保護者は子の教育についての第一義的責任を有する」とし、「生活のために必要な習慣」「自立心」「心身の調和のとれた発達」に責任を負うものとさだめている。従来、子の教育に関して保護者が負っていた義務は、九年の普通教育を受けさせるということに限られていたが、その範囲が大幅に拡大されこととなる。しかも、「第一義的責任」という文言が使われているのは、単に義務を負うということだけではなく、責任主体の序列が示されている。たとえば、民法上の親権について、「子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」(民法820条)とさだめられているが、そこには子と保護者との関係しか示されていない。しかし、子の教育全般に関する「第一義的責任」が教育基本法において新たに規定された以上、一番に責任を負うのが保護者であるとすれば、二番目、三番目は「誰」なのかを問わねばならない。そう考えると、国や社会の責任よりも、まずは個々の家庭の責任だという枠組みが思い浮かぶ。2000年の教育改革国民会議報告が掲げた17の提案の筆頭が「教育の原点は家庭であることを自覚する」であったことを思い起こそう。家庭の責任を問う流れは、教育基本法改正において法制度上の結実をみたのである。
第10条と第11条は、国および地方公共団体の責務についても明記している。第10条には「家庭教育の自主性を尊重しつつ」という文言も含まれている。とはいえ、家庭教育の重要性を掲げる条項の新設は、家庭教育に対する国家の介入を強め、教育や福祉の分野を国家の責務から「家庭」の責務に転換していく方向性をもつものだ。さらには「母性」や固定的な性別役割分担の強調につながる危険性がある。子どもの「健全な」発達のために「あるべき」家庭像が設定される動きが強まることが推測される。
教育の「不当な支配」―誰の「声」が抑圧されるのか
最後に、今回の改正で大きな批判を集めた「教育行政」の条項をみてみよう。教育の「不当な支配」に関して規定した新第16条には、旧第10条の「国民全体に対し直接に責任を負って」という文言が削除された替わりに、「この法律及び他の法律の定めるところにより」という文言が入っている。何が「不当な支配」に相当するかをはかる時、主権者国民の意思に問い返すのではなく、「この法律」がさだめたこと、つまり第2条の「教育の目標」が基準となるとしている。「教育の目標」に沿わないと解釈された教育実践や教育運動は、「不当な支配」に相当するものとして排斥されていくだろう。
第2条第5号(「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」)は、愛国心を強制するものとして幅広い抗議を巻き起こしたが、この条項については性差別の撤廃という観点からも、重大な問題がある。この条項に含まれる「伝統と文化の尊重」という文言は、近年のジェンダー・フリー・バッシングのなかでさかんに使われているフレーズであり、「伝統や文化」といった多義的でしかあり得ない概念によって定義された「教育の目標」条項が、今後政治的に利用されていく可能性は極めて高い。性差別は、「日本の伝統や美風」という名の下に、容易に擁護され正当化されてしまう。
新しい教育基本法がつくられた流れの中で、あるべき「日本人」、あるべき「家庭」、あるべき「女」と「男」が想定され、強調されてきた。その流れが加速するとき、一体誰の「声」が教室の中でかき消されていくことになるのか。
そもそも日本の文化を母文化としないオールドカマー/ニューカマーの子どもたち、日本の「伝統」や「文化」の中にある「らしさ」のステレオタイプに違和感をおぼえる子どもたち、「普通」とされる家庭を持たない子どもたち、従来の「女」と「男」の二分法や異性愛中心主義にはコミットできないセクシュアル・マイノリティの子どもたち。教室の中には、多様な子どもたちがいる。「あるべき」何かを前提とし、それを強制することは一種の暴力である。それは教育の場・学習の場にふさわしくない。ジェンダーの観点から新しい教育基本法を見直して見るとき、それが平等で自由な教育・学習の場を保障することにあまり関心を持たない法であることが浮かび上がってくる。