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human Rights142号掲載
連載・部落解放運動は今
辻 暉夫(つじ・あきお 解放新聞大阪支局)

新しい風45

私の考える二〇世紀の重大ニュース

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 二〇世紀最後の年を迎えた。物理的な時間はどの年も同じ一年であるのに、世紀末といえば、何かこれまでにない感情を覚えるから不思議ではある。「一体、二〇世紀とはどんな世紀だったのか」と過去をふり返ってみたくなるのもこのせいである。そこでこの連載のタイトルにはにつかわしくないが今号に限ってお許しをいただき、「二〇世紀の重大ニュース」というテーマで私の主観と独断をのべてみたい。

「戦争の世紀」から「平和構築の世紀」へ

 過ぎ去りしこの百年をふり返ったとき、まず頭に浮かんだのは二度にわたる世界大戦である。とりわけ第二次世界大戦の惨禍は今日もなお深い傷跡を残している。日本の天皇制軍国主義、ヒットラーにムッソリーニ。空前絶後の犠牲者をだしたヒロシマ、ナガサキがあった。「人類は核と共存できない」ことを示したのに、戦後は原発がつくられ、あのチェルノブイリ原発事故などを引き起こした。

 第二次世界大戦が終わったと思ったら、今度は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、ユーゴ、ルアンダ、アフガン、カンボジア等々で戦争が起こってきた。この地球上のどこかで毎年戦争があった。二〇世紀、世界中が平和だった年は皆無ではないだろうか。そういう意味で「二〇世紀は戦争の世紀」だったといえよう。 úu迫脂ð放同盟は戦後、「戦争は最大の差別である」として、安保闘争、基地反対闘争など平和運動に積極的に参加してきた。誠に平和と人権擁護は表裏一体である。「平和なくして人権なし」「人権なくして平和なし」なのである。「二〇世紀は戦争の世紀」とすれば、二一世紀の最大の課題の一つは世界平和の構築にあるといえよう。

 社会主義は負けたのか  一九一七年のロシア革命、そして七四年後の九一年のソ連邦崩壊も"大事件"である。史上初めての社会主義国の誕生。搾取をなくし、平等をうたう社会主義国の誕生は貧困と抑圧、人権無視に苦しむ世界中の人たちに大きな希望を与え、各国に社会主義政権が生まれていった。

 しかし、当のソ連ではスターリンらによって社会主義の理念はねじ曲げられ、変質していった。社会主義は党官僚の特権と専政をまもるための"表看板"にすぎなかった。ソ連が自己崩壊していったのは当然の帰結だった。

 「社会主義が負け、資本主義が勝った」といわれる。資本主義は本当に勝ったのか。そうではあるまい。資本主義は生き延びたにすぎないと思う。先進資本主義の多くの国は社会主義国の誕生以降、社会主義の理念をとりいれることに力をそそいできた。資本主義の単なる「弱肉強食」ではもたないことをいちはやく支配層は見抜いていたのであろう。社会主義の理念自体がダメなのでなく、社会主義に名を借りた権力が敗れたのだ。搾取をなくし、平等を追求するという社会主義の理念はこんな時代だからこそ本来の光を放つことができるのではないか。二一世紀は社会主義の理念が再評価されると思う。

冷戦崩壊の影響

 社会主義国の誕生は半世紀に及ぶ東西対立、冷戦につながっていった。戦後の世界秩序はこの冷戦体制がすべて規定してきたといっても過言ではあるまい。世界中の重大な"出来事"の根底には東西対立があった。地球を何十回も破壊できる核の保有、各国の紛争・内戦。東西のどちらに"正義"があったのか浅学非才の私にはよくわからない。でも二〇世紀最終局面で、冷戦が終わったこと自体は歓迎すべきである。

 冷戦の象徴がベルリンの壁であった。今から十一年前に起こった壁の崩壊は半世紀も続いた冷戦時代に終止符を打ち、ドイツ統一をもたらしたのみならず、ヨーロッパ統合へとつき動かしている。

 アジア、アフリカ諸国の植民地化、そして戦後の解放、独立も特筆すべきことだ。日本は台湾、朝鮮を植民地にし、中国や東南アジアを侵略した。その責任をきちっととっていないことが、アジア諸国の日本に対する不信の根本的な原因となっている。

 昨年末、マカオが中国に返還され、アジアから植民地はなくなった。戦後の植民地解放、独立は世界を大きく塗り変えた。米ソ両大国が"第三世界の国々"を自分たちの影響下におこうと争った。その陰で、旧植民地だった発展途上国と先進国との経済的格差は一向になくならず、拡大している感さえする。

  科学の発達が生み出したもの  科学技術の発達は、史上最も急速であった。テレビ、洗たく機などの家電製品、車、飛行機などの交通機関の発達、コンピューターの出現、遺伝子まで操作する医学の進歩等々。科学技術の発達は私たちの生活を豊かにし、快適に、便利なものにしてきた側面は否定できない。それは目を見張るものが確かにあった。しかし、それが私たちにとって「本当の幸せ」につながってきたかどうかは別問題である。

 考えてみれば人類の文明、文化といわれるものは「快適さ」や「便利さ」を求めて発展してきたといってよいだろう。そして快適さや便利さを一度味わうと、人間はあともどりできないらしい。快適さや便利さを追求する限りなき欲望の肥大。大量生産、大量消費、大量廃棄という社会をつくりあげてしまった。

 「二一世紀は情報化の世紀」ともいわれる。インターネットの普及はグローバル化に拍車をかけ、日常生活のうえでも様々な便利さや快適さをもたらせてくれることは、ちがいあるまい。が、その一方で"情報過多"におち入り、まっとうな判断力を失ってしまう危険性もある。電子空間に差別を扇動する情報がとびかっているという問題もある。

 宇宙船地球号が沈没の危機に見舞われている。エネルギーや食糧問題も一層深刻の度をましている。とくに先進国が環境破壊に大きな責任があることは各種の公害データーなどで明らかである。 地球の環境をまもっていくことは、二一世紀のみならず人類の未来を考えていくうえで永遠の、最大の課題といっても過言ではあるまい。そのためには、とくに富める国の人たちのライフスタイルそのものを見直す必要に迫られている。快適さや便利さを追い求める生活の見直しである。それは"苦痛"を伴うものだ。大量生産、大量消費社会からの転換。限りなき欲望を満たすための科学技術の発達をどう考えるのか。人類はまさに「生存の危機」にさらされようとしている。あのミナマタをはじめ二〇世紀はそうであったことを教えている。

六〇億人の人権を守れるか

 国連によると、世界の総人口が昨年一〇月、六〇億人を突破した。今世紀初頭は一〇億人だったので、この百年間で六倍になったことになる。このままいけば二〇五〇年には九〇億人、二一世紀末には百億人に達するのではないかと予測されている。それだけの人間を養っていける食糧はあるのか。環境破壊が一層進むのではないか。資源は、エネルギーはどうなるのか。巨大な人口自体が深刻な問題であるが、それ以上に問題なのは富める国と貧しい国との大きな格差である。富める国に一二億人、貧しい国に四八億人が住んでいる。年間所得は富める国が一万九千ドル以上、貧しい国が千ドル。世界人口の半数以上は衛生的なトイレがなく、成人の一〇億人は読み書きができない。二一世紀末には百億人に達するこの地球号。その重さに耐えられるか。

 人口増加にかかわって、日本をはじめ先進国を中心に高齢化が急速に進んでいる。わが国ではこの四月から介護保険がスタートする。「介護の社会化」は絶対必要だ。高齢者はどんな状態にあっても、その人権と尊厳がまもられる社会の実現に努力したい。

そして解放運動を問う

 自由や民主主義、人権尊重が大切だという価値観が広がっていった世紀でもある。「人類の歴史は人権獲得の闘いの歴史である」といわれる。今世紀はどの世紀にも比してそれが顕著だったといえよう。

 部落解放運動は人権獲得の歴史の一翼をになってきた。一九二二年の全国水平社創立、戦後の部落解放同盟による「差別反対」の闘いは人権尊重、民主主義の前進に一定の役割りをはたしてきた。部落解放同盟の"功罪"については様々な意見がある。しかし、被差別の当事者が声をあげて立ち上がり、闘ってきたことの意義は誰しもが認めるところではないか。部落解放運動に触発され、被差別者自身が立ちあがってきた。それを認める社会的環境を養ってきたことは評価されてよいのではないか。

 しかし、二一世紀を目前にして発覚した差別身元調査事件にみられるように差別は厳然として存在し、世界中で多くの人が苦しんでいる。考えてみれば、環境破壊も人間の自然に対する搾取であり、差別ともいえるのではないか。「共に生きる」ことの真の意味が問われている。