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解放運動のシンボル・狭山
狭山事件が発生してから今年で三七年になる。石川一雄さん(六一)が不当逮捕されてから獄中に三二年、仮出獄してから五年余になるが、石川さんは「今なお見えない手錠がかかったままです。獄につながれたままなんです」という。
昨年七月、東京高裁は石川さんの第二次再審請求を棄却した。石川さんはこの決定に異議申し立てを行っており、今年中に何らかの判断があるのではないかとみられている。部落解放同盟をはじめ狭山闘争にかかわっている労組、民主団体など多くの団体、個人はこの長期裁判闘争を「勝利の日」まで闘い抜くべく決意を新たにしている。
狭山闘争は部落解放運動そのものであり、シンボル的存在だ。部落解放同盟大阪府連が六年前に行った調査によると、大阪の解放同盟員のうち、これまでに参加したことがある運動のなかで、狭山闘争をあげた人が断然多かった。私の知人や友人のなかでも「部落解放同盟といえば、まず浮かぶのは狭山闘争」という人が非常に多い。狭山闘争はまさに解放運動の原点なのである。
住吉の青年の決意
大阪府連住吉支部(大阪市住吉区)は昨年一二月一一日夜、地元の解放会館で「私たちの差別裁判糾弾闘争集会」をひらいた。全国の解放同盟支部で同様の集会がひらかれているが、住吉支部の場合は特別の意味をもっている。それは住吉支部が一九六九年、全国の支部の先頭を切って狭山闘争をスタートさせたからだ。
住吉支部が狭山闘争に取り組むきっかけとなったのは一九六九年七月に兵庫県でひらかれた全国青年集会だった。石川一雄さんの妹のMさんが特別アピールとして兄の無実を訴え、支援を呼びかけた。住吉支部の青年たちは初めて狭山事件のことを知ったのである。「重大なことが起こっているんだなあ」「何かおかしい」と青年たちは感じた。
その年の秋、Sさん(現在副支部長)は仲間のKさんと「なんかおもしろい活動ないかなぁ」と話しあっていたとき、「そうや、Mさんが冤罪やいうて訴えていたなあ」「いっちょ取り組んでみようや」と話が進んだ。
こうして青年たちによって狭山の闘いが始まった。中央本部はその年の夏、石川青年救援対策本部を設置、パンフレット「狭山事件の真相を全同盟員の手に」を発行した。青年たちはまずこのパンフをつかって地元で真相を訴えることから始めた。支部婦人部長(当時)のOさんらも「これは放っておけない。もし我が子であれば黙ってられるやろか」と立ち上がった。地道な活動を続けた。激励のよせ書き、石川さんとの面会、手紙運動、毛糸あみもの部を中心とする差し入れ、スライド・劇による訴え、街宣活動、労働組合など共闘関係への訴え等々。
大衆的な取り組みが広がるなか、翌七〇年一月末、OさんやSさんらが東京拘置所の石川さんと面会した。その後すぐ大阪府連の女性四人が石川さんを訪ねている。石川さんはこのことを今もはっきり記憶しており、「部落解放同盟員として初めてというよりも、全国で最初に面会に来てくれた人たちです」という。
この面会に先立ち青年たちを中心に狭山現地調査を行った。また「狭山差別裁判糾弾住吉闘争委員会」を設置。三月の解放同盟全国大会では住吉支部の働きかけもあって狭山の特別決議がだされた。「住吉が全国の狭山闘争を引っぱっていってやろうという意気込みでした」という。
高まった活動の質
こうして住吉の数人の青年によって第一歩をふみだした狭山闘争は、その後"燎原の火"のごとく広がっていった。数十人の集会から数百人、数千人、数万人にという勢いだった。当初は共産党が影響力をもっていた国民救援会が活動の中心をになっていた。しかし、共産党系の弁護団が情状酌量を求めたのに対して、「石川さんは無実であり、差別裁判として闘うべきだ」という主張が解放同盟や弁護団のなかからでてきた。七〇年四月に東京高裁で第二回公判がひらかれた。傍聴したSさんは「それまでは全部で一〇人ほどで、共産党の人が多かった。それが第二回公判で、こちらの参加者が一五人ぐらいあって、初めて共産党の人数を上まわった。"共産党に勝った"と喜んだものです」と述懐する。
住吉支部は狭山闘争に取り組むことによって質的に大きく発展したという。一九六九年に「特別措置法」が制定され、「同和」対策事業が盛んに行われるようになった。環境改善を中心とする事業が進んでいくなか、功利主義的な考え方から運動に参加する人たちもいた。そこに登場した狭山闘争。「損得ぬきで、差別をにくみ、差別をなくすための闘いとしてみんなの意識を変えていったのが狭山闘争です」という。
見えない手錠をはずすために
さて、昨年末に石川さんを迎えてひらかれた住吉支部の集会には支部員や共闘関係者ら約三〇〇人が結集。石川さんはまず住吉支部が全国に先がけて取り組んだことに謝意を表明、当初からかかわってきた大川さんらの名前をあげ「こうして皆さんにお会いできて万感迫るものがある」と話した。そして無罪を勝ちとったあと、真っ先に夜間中学で学びたいと抱負をのべた。
続いて今は亡き両親を振り返り、「私は部落に生まれたことを悔やんではいない。ただ小さいとき、いじめられたことがあり、それが部落差別のせいであることを大きくなってから知った。両親がきちっと部落問題を教えてくれていたらとうらんだこともあった。しかし面会に来たとき、両親も部落差別に苦しんでいたことを聞き、親を理解できるようになった」と話した。今、住んでいるところから両親のお墓が見えるが、「無罪を勝ちとるまで絶対にお墓まいりはしないと固く決意している。手錠がかかったままでは両親も喜んでくれないから」と声をつまらせた。
さらに棄却決定について「決定は無実の証拠を全否定している。異議審では検察が隠しもっている全証拠をすべて開示させることが特に重要だ。開示しないのは開示すれば私の無実が明白になるからだ」とのべ、事実調べとともに証拠開示の重要性を強調した。
「大海も一滴の水から」という。ひとにぎりの青年が始めた狭山闘争。今や全国民でその名を知らない人は皆無に近い。司法は依然として固くなに真実に目を閉ざしている。