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human Rights170号掲載
連載・部落解放運動は今
辻 暉夫(つじ・あきお 解放新聞大阪支局)

新しい風72

大阪府人権協会発足

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 中坊公平氏。社会派・人権派の弁護士としてよく知られている。その中坊氏がこの四月、発足したばかりの財団法人、大阪府人権協会の会長に就任した。一貫して社会正義を追求してきた氏の会長就任は、部落問題をはじめとして日本の人権問題に対する関心の広がり、深まりを示すものとして注目されている。

 大阪府人権協会は、大阪府同和事業促進協議会(府同促)を発展的に改組して四月一日に設立された。府同促は一九五一年、大阪府における同和事業を促進し、部落問題のすみやかな解決に資することを目的としてつくられた。初代会長は和島岩吉氏(元日弁連会長)がつとめた。当時は各地で差別行政反対闘争が展開され、大阪でも行政闘争を繰り広げていくなかで、府同促は運動側のイニシアティブで創立された。

 具体的には、生活環境の改善、人権擁護活動の強化、教育・文化の向上、職業の安定、産業の振興、福祉・保健の増進、府民の部落問題に対する理解と協力の促進などに関わる事業を推進。府の同和事業に関係する部落、市町村行政、学識経験者らで協議してきた。

 この三月末で「地対財特法」が期限切れとなり、特措法時代は終わった。これに伴い、府同促も発展的に改組、名称を大阪府人権協会と改称した。部落問題をはじめとする人権問題全般に取り組み、人権が尊重される社会づくりに寄与するとしている。

 中坊氏は各界の要請を受けて会長就任を受諾。四月一二日にひらかれた同協会の第一回評議員会、理事会のあと、府人権協会に対する助言として、人権問題に対する考え方や抱負を熱っぽく語った。そのなかで<1>差別、同和問題は解決していない。人権問題全般をというのはわかるが、中核たるべきものは同和問題である<2>不条理に泣く人の運動は、すべて団結して抵抗することからはじまる。そして抵抗から要求、連帯へと変わっていかなければならない<3>差別問題、同和問題をはなれて協会はありえない。より多くの人たちの共感をよんでいかなければならない―などを力説した。その骨子はつぎのとおり。

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 このたび大阪府同和事業促進協議会が改組され、新しく財団法人、大阪府人権協会が発足した。私自身は特段、過去に同和問題、差別問題、広く人権問題に関わってきた弁護士でない。特別の学識を有しているものではない。一九五七年から大阪で市民弁護士として活動してきた。まったくふつうの弁護士。年齢も七二歳と老齢である私がなぜ会長という職をうけさせていただいたのか。

 一九七三年、今から二九年前に森永砒素ミルク中毒の被害者弁護団に就任した。それを機会にビジネス弁護士から、本当の意味で不条理に泣いておられる人の姿がわかった。そういう人たちのために少しでも自分が役立てればと思うようになった。そういうことから今回、生まれ変わった人権協会の会長に就任した。

 さてそれでは新しい人権協会の運営はどのようにしていくのか。私が思うに二つ基本的に確認しておく必要があると考える。

 ひとつは人権協会に変わったから従来の運営と変わるのかということ。私は基本的には変わらないものと考える。なぜなら差別、同和問題は今日現在解決していると思えないからだ。この問題を中心として人権問題全般を、ということはわかるが、中核たるべきものは同和問題であり、差別の問題である。

 解放同盟の大会でも申し上げたが、そもそも差別とはいったいなんなのか。私は自分なりに定義しているが、生まれながらにしてどうしようもないことをもって人を差別することだと思う。この課題は「法」の期限が終了したからといって変わるものではない。

 二つ目には(人権協会に)変わるには根拠があるということ。八〇年前に全国水平社の発足にあたり、差別問題に痛めつけられてきた人が団結のもと立ち上がった。不条理に泣く人の運動というものは、すべてにおいて団結して抵抗しようということが運動のはじまり。しかし同時にうまくいくようになると次第に要求という形になる。行政をもまきこんで法律ができる。それは大きく発展し、環境その他かなりの部分において改善された。しかし同時に要求で終わるだけではなく、最後に第三期というか、連帯に変わっていかねばならない。

 人権はヒューマンライツの訳。権利という字は権力の権と利益の利、ライツを権利と理解されている。ライツという字を明治維新のときに翻訳するとき利益の利と書くのか、道理の理と書くのかが大いに議論になったそうである。利という字から利益を得るがごとくなっている。しかし道理の理はものごとの理(ことわり)、筋ということだ。

 あらゆる運動も筋にそったものになっていかねばならない。抵抗から要求、連帯に変わっていかねばならない。抵抗と要求の時代は被害者意識が前提にあり、非常にやりやすい。しかし連帯となると難しい。水平社宣言の「人の世に熱あれ、人間に光あれ」、人間を尊敬すること、まさにそういう意味ではないか。本来水平社発足のときからの一貫した理念ではあるが実現していくのは難しい。

 私自身がなぜ不条理に泣く人たちの役に立ちたいと思うようになったかを申し上げたい。一九二九年に京都の弁護士の次男に生まれた。生まれたときから未熟児で目が悪く、手先も不器用、運動もできず、世にいう落ちこぼれ組として、孤独と劣等感のなかで育ってきた。

 しかし、弁護士になり、現場に神宿るという、現場さえ知っていれば物事が解決できるという手段を覚えてから、それなりに生活できるようになってきた。そんな四四歳のときに森永砒素ミルク中毒事件の弁護団に参加することになった。

 この事件は昭和三〇年に森永乳業徳島工場で作っている粉ミルクに砒素が混入していたというもの。私たちが関与したときにはすでに事件から一八年が経っていた。なおかつこんな大きな後遺症が残っているのか、と弁護団に入りながら私自身が疑っていた。被害者の訪問を始め、森永や国にどれほどか恨みをもっているだろうと思っていたが、被害者の口からは森永の悪口も国の悪口も出てこない。

 「そもそも乳の出ない女が母親になったことが悪かった」「子どもが手で払ったときに気が付かなかったのだろう」と悔やんでいる。また少し値段の高いミルクにはたまたま砒素が入っていなかったので、「自分の子どもに物を買うときに安物を買ったのが間違い」「悪かったのは私です」という。「優良にできた粉ミルクを飲んで賢い子どもを育てましょう」と書いてあるカンを見て買った人に何の罪もないはずである。

 被害者宅を五〇数件まわってわかったことは、世の中には救済ということはありえないということだ。本当の意味で救済というなら、この子によその子と同じ青春を味わわせてやりたいと思うのだろうが、それがかなわないのだから救済はありえない。

 損害賠償を請求するときも被害者の人たちは「何とか千円を請求してほしい」という。世の中には、子どもをお金に換えるのかと批判する人がいる。はじめて不条理に泣く人のことが身にしみてわかった。

 親御さんに、何が一番悲しかったですか、何が一番楽しかったですかと聞いたとき、まったく思いもつかない言葉を聞いた。

 「うちの子は生涯三つの言葉しか言えなかったんです。一つはおかあ、ふたつはまんま、そして三つ目にはあほうという言葉。どれほど知能障害があってもおかあさんとごはんだけは覚えさせなければならないと一生懸命教えた。お母さんは自分の子どもにただの一回もあほうといったことはない。誰が三つの言葉しか覚える力のない子に、三つ目のあほうという言葉を教えたのか。それは誰が教えた訳でもない。それは世間が教えたのだ。世間が憎い、世間の冷たさが憎いんです」といわれた。

 子どもは外へ出て遊びたがる。たいがい外へ出たらいじめられてかえってくる。しかしうちの子は人前では泣かない。泣くことも知らないあほな子だろうと人はみんないうが、実はそうではない。家に帰って母の手にすがったときに初めて泣いた。泣くことを知らない子ではない。しかし世間では泣けなかった。

 手足に不自由な子どものところにいったときはお母さんがお茶を注ぐと犬が食べるように舌でべろべろなめる。目を背けたくなるような光景だが二人は「近所のおっちゃんが今度遊びにつれていってくれる」と笑っている。それまで私は笑いのあるところには幸せがあると思っていたが、しかし人間はどんな状態になっても笑いがある。しかし笑いがあれば幸せだといえるのだろうかと考えるようになった。

 私自身、その子どものようなひどい目にあったことはない。あるいは同和問題や部落の問題といった苦しみを味わっていない。しかし私なりに虚弱児に生まれて、孤独と劣等感のなかで大きくなってきて、ああ私と同じような人がここにいる、私よりもっとひどいあつかいを受けている人がいる、私がこの人たちのために少しでも役に立つことがあればということで、自分でできることをするという風に思ってきたわけだ。そんな立場で幾多の事件を担当してきた。

 人権協会の今後のあるべき姿については、私の経験から、差別の問題、同和の問題をはなれて、協会は存在しないと思う。同時にこの協会が今後ありうるためには、より多くの幅広い人たちの共感をよんでいかねばならない。そのポイントはどこなのかを探っていきたい。七二歳という高齢で、糖尿病でもあり、決して健康な体ではないが、できる限りみなさんのお役に立ちたいと思っている。

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中坊公平氏

1929年京都生まれ。京都大学卒。大阪弁護士会会長を経て1990年から2年間、日弁連会長をつとめた。森永砒素ミルク事件の弁護団長、豊田商事事件の破産管財人、豊島産廃訴訟の弁護団長として敏腕をふるってきた。