天明二年の幕府裁許、いわゆる「美作改宗一件」の評価をめぐる対立は、新史料の発掘によって解決される。筆者の紹介した『備中国諸記』の内容は、幕府裁許が「強制改宗」以外のなにものでもないことを、あますところなく明かしている。
本稿で紹介する史料『美作国諸記』の内容は、幕府裁許の後、海順と檀家の争論がえんえんとつづいていることを明らかにしている。この事件を、美作の片田舎で発生した局所的な事件と評価することはできない。幕府裁許は、幕府の宗教政策を如実に示すものとなっている。
先行する研究は、肝心の幕府記録を検証できないままなされてきたのが、実情であった。ところが、最近になって、この事件の全容を記録したものが、幕府文書『祠部職掌類聚』の中に、しかも一冊の完全に独立した裁判記録として、発掘された。「天明二寅年内寄合之内 作州皮多大法寺一件」と表題されている。海順の「箱訴」をうけて、幕府は、どのようにこの越訴を把握し、事実認定したのか、克明に記録されている。先行研究者の業績、とくに、その裁許の評価をめぐる混乱は、これによって解決されることとなる。