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部落解放研究 138号掲載
書評:森田 康夫

「シリーズ近世の身分的周縁1 民間に生きる宗教者」

高埜利彦編(吉川弘文館、2000年6月1日、46判、272頁、2,800円+税)

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 多様な被差別民の研究がいまなぜ問われているのか。その1つの理由は、近世社会が城下町などの都市を築いた武士商工民や村落を形成した農耕民だけでなく、それらの人びとと生活文化において一定のかかわりをもって生活する多様な職能民が都市や農村に少数者として存在していた。

 しかもこれらの多様な職能民のなかには日常的に情念的な賤視をうける者があり、これまでそれらの人びとをいわゆる雑賤民などと一括してきた。

 しかしこれらの人びとを非日常的空間で活躍する職能民として把握されるべきで、雑賤民などという非歴史学的な概念に留まる限り問題の本質に迫りえない。

 2つめとして部落解放運動のなかで「かわた」身分を中心とする研究が進められてきたが、近世の被差別民はかわただけではない。地域社会のなかでかわたを含めた多様な被差別民を、構造的な関係において把握することで、生活文化の基層に迫りうるからである。

 部落史の枠組を近世政治起源説の呪縛から解き放ち、中世まで視野に入れるということは多様な被差別民を構造化するということで、被差別部落史研究はようやくその段階に到達したのである。

 3つめは近世社会の身分的多様性だけを追及する周縁論ではなく、日常的には情念的な賤視の対象でありながらも一たん非日常的次元に遭遇したとき、都市民も農民もそれらの人びとの手をからねば生活の円環がなしとげられないという関係性の解明が、被差別部落史の枠を越えた人間史の営みとして、その基層からの解明が社会史的課題として求められている。

 このような関心から本書を読んだとき、個々の歴史的事象について教えられることは多々あったが、全体として違和感のあることもまた否めなかった。なお三昧聖についてはすでに『大阪の部落史通信』NO,23で取り上げたのでここでは触れない。

 近世においても各地域の由緒ある社寺はそれに相応しい神主や僧侶が在住して社寺経営にあたっていたが、都市や村の小社や僻遠の地の道場では信仰の場となっても、宗教者としての参入は維持経営上において成りたち難かった。

 しかしそれらの場が信仰的に地域の人びとに必要性があるかぎり、それに代わる下級宗教者が登場した。『民間に生きる宗教者』所収の井上智勝稿「神道者」の神社信仰にかかわる祈祷者的な神道者であったり、澤博勝稿「道場主」の真宗道場の管理にあたった半僧半俗の道場主の姿がそれであろう。

 後者の道場主の発生はやはり北陸という真宗としての歴史的な地における宗門内での寺院管理の問題で、地域に簇生した道場が毛坊主を含めた地域の有力層・同行により維持管理されたということで、道場主になることで地域社会において尊敬されても社会的に疎外を受けることはなかったのではないか。その点、筆者も述べるように神道者の場合は武士を含む身分的に多様な者が没落して参入し、乞食・貧民の一角をなしていたことでは人間関係が複雑であった。

 京都の吉田家や白川家を後ろだてとする社人・神道者が幕府非公認の神祗奉仕者として小社の神祗に携わったが、それだけでは生活が成り立たないところから、地域の需要に応じて祈祷などの呪術的行為を行った。

 このような社会的需要がある限り日常的に都市を徘徊する神道者がさらにその周辺に現われても不思議ではない。そしてこのような乞食まがいの神道者をふくめて、神主になることや身分上昇への開かれた機会をもっていたということになると、神道者も多様な情念的賤民のなかには入っていない。

 その意味では近世都市の商工民や村落共同体の農耕民とは異なる、多様な職能民として位置づけられる存在ということではなかろうか。神道者などの下級宗教者や道場主、それに職能の自立化を遂げた歌舞伎役者などがそれではなかろうか。

 西田かほる稿「神子」は甲斐国の西後屋敷村を中心とした芸能的宗教者としての神子を分析したもので、本書のなかで最も興味深い論稿であった。いうまでもなく神子はわが国の歴史のなかでも連綿と継承されてきた女性の職能であったが、しかし近世になると家意識の形成のなかで神子の地位を低下させた。

 たとえば多くの宗教的な職能には本所があったが、神子は「近世という社会が女性の自立的な職業活動を認めなかった」ところに職能的に認知されることなく夫の家に包摂されたと指摘されていた。

 さらに『甲斐国志』によると西後屋敷村の五集落のなかで豊後は「万力筋八幡ノ社人久保坂豊後居住ス、故ニ名トス」とあり、赤塚は「千寿う万歳・博士・巫覡・力者等住ス」とあった。亨保9年(1724)の村明細帳では豊後太夫役者(15人)万歳(96人)神子(114人)博士(4人)力者(13人)とあるように同村は芸能的宗教者の多住する村であった。

 とりわけ赤塚集落にたいして本村の三集落側からは「力者・万歳・夷祈り、軽き者共前々より住居仕」る村と見なされ、その軽き者の妻が神子を勤めるという関係にあった。男の芸能的宗教者への賤視とともに神子は村落共同体の最底辺に位置づけられていたということである。

 なお久保坂豊後太夫の出自伝承で河内の春日部に住む稽文会なる人物についてであるが、河内高安郡に貞観元年に神位を得た式内社で春日戸神をまつる天照大神高坐神社があり、中世から近世にかけてこの地から奈良春日社に翁能を奉納に出かけていた。これらのことから豊後太夫は河内高安の能楽師の流れをくむ人であったのではなかろうか。

 幡鎌一弘稿「祭礼奉仕人」が取り上げる願主人は果たして近世身分制の周縁の人であったのだろうか。中世末に武士が春日若宮御祭の主導権を握るなかで、大和の旧国人層のなかから選ばれた人びとに担われた祭礼奉仕であった。

 筆者もいわれているように「流鏑馬は祭礼における武士の存在を示す象徴的な役割」であり、彼らの出自は「侍のなかでは下のクラスに属し、村役人層よりは上の地位」であり「年貢免除の特権を与えられ、在村して祭礼に奉仕する〈家〉として」あった。しかし彼らに与えられた特権がやがて近世小農制の展開のなかで、村落共同体と領主側の双方の意向と対立し孤立化したというのであった。

 それでも彼らの存在は社会的に賤視される対象ではなかった。彼らの生き方には村落共同体の一員として復帰しうる選択枝が常に残されていたのではないか。

 中世末の乞食芸として尺八を吹く虚無僧は、近世人に一体、何をもたらす人であったのだろうか。本覚思想の修行者ということであるが、保坂論稿を読む限り今一つよく分からなかった。

 それでも近世の前半までは平人に開かれた修行であった。それが18世紀半ばより武家浪人をかくまい救済する侍慈宗説の宗派となっていった。そしてこのときから回村する虚無僧は本山青梅鈴法寺と結託し、村むらを留場として本山に属さない虚無僧のねだりを阻止する名目で、負担金を徴収する寄生構造になっていった。

 このような虚無僧の振る舞いを許容したのは、幕藩体制側の浪人救済手段として地域の申し立てを軽視した寛容政策であったとしても、虚無僧は村むらに何をもたらすことで留場にしえたかの解明に欠ける。そもそも虚無僧は一時世をはばかった仮の姿の修行者で、かぶり物を脱げばたちどころに本来の身分に還ることができたはずである。

 虚無僧集団は現実には存在していたが、にも関わらず彼らは近世身分制度の周縁であったのだろうか。かぶり物を脱げば本来は僧のはずであるが多くは浪人と称され、浪人は身分的には武士である。

 ただ彼らは仕えるべき主人を失ったろうろうの身である。そのなかで生活手段として医師になった場合、医師は周縁身分というのであろうか。医師も近世における多様な職能民であった。

 梅田千尋稿「陰陽師」で取り上げられている若杉家などは陰陽師の本所・土御門家の家司的存在で、陰陽道の中核にある家筋であった。彼らは社会的にも陰陽道の権威として尊敬されても賤視とは無縁であった。陰陽師で周縁身分というのであれば、地域で暦を売り歩いたり土御門家を背景に呪術行為をした人びとが問題ではなかろうか。

 何をもって周縁とするのか、本書にみられる周縁身分論では従来の士農工商的身分制度からはみでた多様な職能民が対象にされている。しかし周縁身分論も近世社会の生活文化に見られた賤視や排除の構造論をぬきにしては社会史的意味を拡散してしまうのではないか。