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長州藩の部落寺院について本稿では事実を提示検証することを主眼とした。長州藩では部落寺院は四カ寺のみで、それらは広範囲に分布する数百軒の檀家を抱え、他の真宗寺院が百軒内外の檀家をもつ地縁的寺院であったことと性格を異にする。寺の創建は山口照円寺の場合は寛文元年で、そのころ長州藩で宗門改めが本格化したことと照応している。
寺としての認定は本願寺からの免許とは別に藩行政からの認定(御根帳記載)も現実には重みをもったが、長州藩は現実に部落寺院が寺としての役割を果たしていることを認定しつつも、御根帳への記載をしぶった。
しかし、世も「明治」となっていわゆる「解放」令が出されると、部落寺院は行政によっても寺として認定されるに至る。部落寺院の住僧たちのなかには、部落住民の先頭に立ち解放の闘いを進める者もいた。山口照円寺住職の明治以後の行動には山口県における部落解放運動の嚆矢ともいえる部分が存在する。