和歌山藩時代の一八七一年一月に最初の屠牛所が設置されていた和歌山県は、牛肉販売仮規則(七六年)、屠牛所規則・牛肉販売取締規則・屠牛取締心得(七八年)、屠獣場屠獣肉販売規則(八一年)を次々と制定して屠畜場と食肉業の統制を進めていった。
そのような過程のなかで、西牟婁郡域では西ノ谷村に最初の屠畜場がつくられ、その廃止後には下芳養村と朝来村に屠畜場が設けられたが、この三か村はいずれも被差別部落を村域に含んでいた。
この地域では近世後期から肉食の習慣が広がっているとともに、一八七一年の斃牛馬勝手処理令発布以後も、県の死牛馬取締規則(八〇年)に基づく鑑札制によって統制された死牛馬取扱人が、八三年時点で二〇人存在しており、彼らは屠畜場に随伴する死畜解体場で働いていたと考えられる。