かつて、『横浜貿易新報』で「細民」や「乞食谷戸」の探訪記事が掲載されたことがあったが、いまでは、横浜の歴史にそれらが書かれることはあまりない。
横浜が都市としての発展、遊楽をめぐる繁栄という観点から記されるとき、そこから排除されたものたちの一斑を〈スラム〉として代表させてみる。すると、〈スラム〉は社会事業史のなかで、過去の事業家たちが書き残した悲惨な像のままになぞって記されてきたことがわかる。
わたしが〈スラム〉について書くときは、〈スラム〉をめぐる記述をとおして、歴史を読んだり書いたりするときの注意事項を確かめてみることとなる。本稿は、すでに公表した論考「都市の縁辺を考える」とあわせて読んでいただきたい。