◆ 制作にあたって
被差別部落の伝統文化として、皮革の生産と加工があります。和太鼓は、日本の伝統芸能・文化として、国内外で高い評価を受けていますが、その太鼓をつくる人びとはほとんど省みられることがなかったと言えます。
大阪の浪速地区には、太鼓屋さんがあり、太鼓づくりの職人さんがいます。そして、地域の青年たちが太鼓集団『怒』を結成し、国内外で演奏活動を続けています。
この作品では、浪速地域に焦点をあて、そこに生きる太鼓職人さんの技術と想い、差別の現実と向き合い、太鼓集団としての活動を通じて、自分の「人間解放」をめざすとともに、まわりの人びとの解放のきっかけとなることを願う若者たちの姿を追っています。
◆ 構成と内容
1. 夏祭り
大阪市浪速区浪速町にある坐摩神社は江戸時代、渡辺村と呼ばれた村のなかにありました。
渡辺村は、戦国時代から強制的に移転させられ続け、江戸時代の中ごろ、当時の木津村の領内に封じこけられた被差別部落です。
それから以後の渡辺村は、他の町をしのぐ経済力をつけ、幕末には人口5000人を超える村へと発展しました。また村の繁栄、そして時代の変化とともに、渡辺村は西浜 町、西浜町から浪速町へとその名を変えていきます。
浪速町の人びとが熱く燃えるこの坐摩神社の夏祭りには、被差別部落の歴史とともに、差別を受けながらも生き抜いてきた部落の人びとの想いが込められています。
2. 太鼓の町
浪速町は、渡辺村と呼ばれたころから皮革産業の中心地でした。
江戸時代には、九州、四国、中国地方から年間10万枚を超える皮革が、渡辺村に集められています。
村には皮革の仲買や小売り業者が集まり、太鼓職人も数多くいました。その太鼓職人の中から太鼓屋又兵衛という秀でた職人も生まれ、日本各地の職人を指導しながら仕事を請け負うまでに、渡辺村の皮革産業は発展しました。
渡辺村で培われたその技術は、今も浪速町の太鼓づくりに受け継がれています。
3. 太鼓集団「怒」
つくられた太鼓をたたく人たちは、伝統芸能・文化継承者として賞賛が浴びせられます。しかし、太鼓のつくり手がクローズアップされることはありませんでした。
その事実こそが部落差別だととらえて、部落産業の伝統文化をすべての人びとが正しく認識してくれるように、伝統文化を自分たちの手に取り戻し「太鼓の音が聞こえる町に」という願いから地域の青年たちが中心となって、1987年10月太鼓集団「怒」は結成されました。「怒」のメンバーは、高校生、大学生、公務員、福祉施設の職員など、それぞれが仕事を持つ、アマチュアの太鼓集団です。
4. 「怒」の活動
当初は子どもたちに教えるということから、太鼓をたたきはじめました。
しかし、部落問題を勉強する中で気持ちがかわりました。町内だけでなく、外に出ることによって伝えていかなければ・・。
「「怒」ができて、地域的にも1年をとおして、太鼓の音が聞こえてくるようになった」と、リーダーの谷本直也さんは語ってくれました。
5. 「怒」と太鼓職人さん
「昔から「太鼓正」があることは知っているけど、(太鼓をはじめるまで)つきあいはなかった・・。
職人さんとのつき合いが深まる中で、お互い刺激しあって成長できたらいいのでは・・。」と結成当時からのメンバーである中神悟郎さん。
「「怒」とのつきあいを重ねることで、職人魂が刺激され、太鼓の胴や皮の選別に細心の注意をはらうようになった」と、太鼓職人の葛城小一郎さん。
最近葛城さんは、香港のお寺に納める、約5尺4寸の巨大な太鼓を製作し、その初打ちを「怒」のメンバーである成吉政二さんがつとめました。
太鼓のつくり手がいて、打ち手がいる。太鼓の町、浪速町の日常風景に「怒」がとけ込んできました。
6. 「怒」の意義とこれから
浪速町には、昔から太鼓屋さんがありました。そこで働く年輩の職人さんたちの多くは、子どもの頃から見よう見まねで仕事を覚え、生活のため、生きていくために太鼓づくりを続けてきました。
現在和太鼓の打ち手たちは、その音楽性に対して国際的に高い評価が与えられています。
しかし、その太鼓をつくる職人さんたちは、日本の伝統的な文化や芸能支えてきたにもかかわらず、これまで注目されることもありませんでした。
太鼓の町に結成された「怒」は、被差別部落の伝統文化である太鼓を自分たち手に取り戻し、職人さんたちとともに、太鼓を通じて自信と誇りそして未来への展望をもって今を生きています。それぞれの音色で奏でるのは、人間の解放です。
(文中の写真は、イメージ図です)