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2007.12.18


同和問題とのかかわりのはじめ

小森哲郎(北九州市立大学名誉教授)


 私が同和問題・人権問題とかかわるようになったのは、1973(昭和48)年です。当時、私が勤めていた北九州大学(現:北九州市立大学)に出講していたある先生が差別発言をしました。講義の途中、「大学人は独善的・閉鎖的で、産業界に入れば通用しない人が多い。大学は"特殊部落"の人の集まりであるという面がありますね」と話されました。「差別を差別としてとらえる力」をもつ学生が問題を提起し、大学として同和問題に取り組むことになりました。

 この発言が問題なのは、大学人の好ましくない特徴を、「特殊部落」という言葉で比喩したからです。この言葉は、明治末期に政府が使いはじめたといわれます。当時は、労働運動や社会主義運動が盛んで、同和地区の人々の解放への意欲がこれらの運動と結びつくのをおそれ、同和地区の人は「特別で・特殊な」人という印象を国民に与えるためだったといわれています。また、この言葉は、「悪いこと」「劣っていること」などの象徴として使われたため、比喩としても用いるべきではありません。

 しかし、この報告を受けたとき、私は「"特殊部落"という言葉がなぜそんなにいけないのだろうか」と思いましたが、「これは典型的な差別発言で、個人だけではなく、大学全体の責任が問われる。糾弾(学習)会が開かれる」と、だれからともなく教えられました。全く無知のまま、糾弾(学習)会に出席し、不見識な発言をして、大学に迷惑をかけたらいけないと思い、「同和対策審議会答申」を何回となく読み、何冊かの本を購入し、自分なりに勉強しました。そして、かなり「ものしり」になったつもりで、糾弾(学習)会に出席しました。

 糾弾(学習)会のはじめ、発言した先生は厳しく追及されました。というより、「人間性の変革」を求められました。やがて、私たちの責任が問われました。「大学が同和問題に真剣に取り組み、非常勤の先生にも研修会への参加を促すなどしていたら、差別発言はなかったかもしれない。今回のことは大学全体の責任ではないのか」という論理でした。確かに、大学はそれまで何の取り組みもしていませんでした。なによりも、時間の経過にともない、自分が少しずつ変わっていくのに気づきました。会の終わりころ、「1人の人間として当然のことだが、特に教育に携わるものとして、つくづく問題に対する理解と認識が欠如していたことを恥ずかしく思い、自分に憤りすら覚える。素直に自分自身に問いつめてみたいと思う。そして、部落差別の現実を学ぶことによって、自分のあり方、生き方を考え直したい」とメモしました。

 私には、同和地区の人たちの怒りに燃えた追及、涙を流しながらの訴えは、感動的でした。特に、忘れられないのは、1人の女子高校生の訴えでした。「私は、教育の目的は、世界の平和、すべての人の幸せ、民主主義の確立に努力する人を育てることだと思っています。今の日本には、多くの差別があり、日本の民主主義は極めて不十分です。この現実を先生たちは教育者としてどう受けとめているのですか」という問題提起は、私には重く響きました。

 人間・教育者としてのあり方を問われ、全く未知のことを教えられた緊迫した糾弾(学習)会が、今ではなつかしく思い出されます。これが私と同和・人権問題とのかかわりのはじめでした。

2006年11月1日