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博多祇園山笠と女性小森哲郎(北九州市立大学名誉教授) |
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数年前、「山笠があるけん 博多たい」というコマーシャルがテレビでよく流れていました。 全国に有名な博多祇園山笠の起源は、1241(仁治2)年といわれています。博多駅前など10数ヵ所の「飾り山」は、その絢爛(けんらん)豪華(ごうか)さに、私たちの目は奪われます。 これに対して、「舁(か)き山」あるいは「追い山」といわれるのは、1688(貞享4)年にはじまったそうです。7月15日に行われる追い山は、朝4時59分に1番笠が櫛田(くしだ)神社に入り、中央に掲げられた「清道(せいどう)」と書かれた旗をまわり、「博多祝い歌」を大合唱し、「廻り止め」といわれるゴールまで約5キロの道を、30分前後で走ります。山の重さは約1トン、26人の担ぎ手(流れによっては28人)が交代で担ぎ法被(はっぴ)姿の人が伴走します。参加は7つの流れ(なが)に限られ、5分おきにスタートし、速さを競います。沿道からは「勢い水」がかけられ、「オイッサ」「オイッサ」の掛け声に迫力は頂点に達します。 この歴史と伝統を誇る山笠に、次第に批判が強まる問題がありました。このお祭りに参加するのが男性に限られていたことです。担ぎ手の詰め所などには「不浄のもの立ち入るべからず」と掲示されていました。ここでいう「不浄のもの」「けがれている人」は、主として女性を指していました。人権意識が高まり、一部の町内はこの掲示をやめましたが、長いしきたりを変えるのに抵抗を感じるのは、ある意味では、無理からぬことです。 しかし、2003(平成15)年、すべての地域で「不浄」という言葉は使わないことを決めました。必要なときには、「関係者以外の立入り禁止」などとすることにしましたが、山笠振興会の会長は「長い歴史の中ではいろいろな移り変わりがあり、変化してきたから、今日山笠が残っている。あしきものは変えなければ…」と語りました。この変革は、各方面から評価されていますが、なぜこのような女性排除が行われてきたのでしょうか。 かつての日本は、男性中心の国でした。「男尊女卑」は、社会のあらゆる局面でみられました。家庭で女性は戸主に従うことが強いられました。中等学校は、男性は中学校・商業学校・工業学校なのに、女性は高等女学校でした。「高等」とついたのは、女性の教育はここまでで十分という意味でした。職場での女性は、男性の補助的な仕事しかさせられず、結婚したら辞めるものと考えられていました。 しかし、太平洋戦争後、わが国は民主主義を標榜(ひょうぼう)し、各段階の学校は男女共学になりました。家庭では夫婦が同等の権利が認められるようになり、職場でも「男女雇用機会均等法」が象徴するように、状況はかなり大きく変化しました。1999(平成11)年には「男女共同参画社会基本法」が制定され、内閣には担当の大臣がいます。国際的にも女性の地位向上は大きな課題となり、1979(昭和54)年に「女子差別撤廃条約」が国際連合で採択されました。 しかし、47都道府県のうち、女性知事は今回誕生した滋賀県を含めて5人です。衆議院議員の女性の比率は9.4%、参議院は14.0%です。スウェーデンの42.7%、デンマークの38.0%、フィンランドの36.5%、オランダの36.0%、ドイツの31.7%が女性議員の多いベスト5で、日本より多い国は少なくありません。 |
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2006年11月1日
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