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2008.07.04


同和問題の歩み

小森哲郎(北九州市立大学名誉教授)


 部落差別の起源については、諸説があり、私には断定する力はありません。それで、多くの中学校の教科書にならって、近世の賤民身分の生活からはじめます。

 近世には、支配者としての武士、町人(職人、商人など)の下に、「えた・ひにん」という賤民がいました。賤民は、住む場所、服装、交際などに厳しい制限を受け、仕事は小規模の農業、死牛馬の処理、皮革関係や竹細工などをし、町や村の警備、犯罪容疑者の逮捕や処刑などをさせられました。

 その後、幕府や藩の財政は苦しくなり、農民からの年貢を増やしました。その不満を和らげるため、賤民への差別は強化されました。

 明治政府は、多くの改革を断行し、1871(明治4)年には、「"えた・ひにん"などをなくし、これからは身分も職業も平民と同じである」という趣旨の太政官布告、「解放令」といわれるものをだしました。しかし、部落差別をなくす積極的な施策はとられませんでした。

 地祖改正(1872年)によって、農民の負担はかえって重くなり、教育と兵役の義務が生まれました。そのため、農民の不満は強まり、「解放令反対」の要求が加えられた農民一揆が各地で起きました。

 一方、明治維新を契機として、わが国は工業化の道を歩み、資本主義が発達しました。しかし、同和地区の人の生活の向上には役立ちませんでした。当時の先進企業は、採用のとき「身分」を重視し、同和地区の人を原則として採用しませんでした。そして、労働力が不足したときだけ、雇用しました。いわば「産業予備軍」的な役割を負わされ、そのため、「部落差別は資本主義の発達に利用された」といわれています。

 このような状況のなかで、部落差別の解消を目指すさまざまな思想や運動が起きたのは当然です。1922(大正11)年、全国水平社の創立大会が開催され、人間の尊厳を高らかにうたい、奪われ・侵されてきた権利と自由を、自らの力で獲得・回復することが誓われました。

 そして、軍隊の体質・差別性が明らかにされ(1926年)、高松地裁の差別判決があり(1933年)、部落解放運動は市民的権利と自由を獲得する運動、民主主義を目指す運動へと、軌道の修正が行われました。

 第2次世界大戦後のわが国は、大きな改革を続々と行い、民主主義は目覚ましく進展しました。しかし、差別事件は各地で起きました。1951(昭和26)年のオール・ロマンス事件は、同和問題の解決を放置してきた行政の責任を明らかにした点で、画期的なことでした。

 同和対策審議会は、1965(昭和40)年、内閣総理大臣の諮問に応えて、同和問題解決の基本的方策について答申しました。同和問題を許しがたい人権侵害ととらえ、「その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」と明示しました。

 これを受けて、1969(昭和44)年に「同和対策事業特別措置法」が施行されました。その後、法の名称は変わり、内容は次第に縮小されましたが、2002(平成14)年まで、33年にわたって、同和問題解決のための特別措置法は継続されました。そして、法に基づいて、地域差はありますが、さまざまな事業が行われてきました。その間に使われた費用は、合計16兆円といいますから、決して少ない額とはいえません。

2006年11月1日