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2007.10.30

人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡


親善と団結こそ、自由と平和と繁栄の母である-アジア宣言(草案)



アジア宣言(草案)

 わが母なるアジアは全人類のなかば以上を抱き、ゆたかな資源に恵まれている。

 しかるにアジアは永い封建の眠りと割拠分離のため、王侯、軍閥の支配するところとなりかつ西欧帝国主義の踏み荒すままにまかされてきた。だが今やアジアにも新しい朝の太陽が輝きはじめた。アジア諸民族はようやく目覚めたのである。澎湃として浪立つ民族運動、独立の成果、また近代化への行進、これこそまさに廿世紀後半をかざる壮大な史的事実であるといわねばならない。

 われらはここに時代の真に重大なことを認識し、深い反省のうえにたって過去の歴史を再びくり返すことなく何ものにもまさる兄弟愛に結ばれ、全アジアが一つとなって、後進性を克服し生活水準の向上を図るとともに、国際社会の間に平等公正な立場を樹立すべきことを提唱する。

 親善と団結こそ、自由と平和と繁栄の母である。われらアジア人は今こそ声をそろえ、高らかに叫ぼう。

アジア諸民族間の親善を深めよう!
平等互恵こそ永遠に切れることなき団結の帯なのだから。
アジア人同志が血で血を洗う愚を絶対にやめよう!
それが世界平和の基ともなるのだから。

アジア民族親善協会準備会

 アジア侵略の深い反省の上にたって、アジア諸民族の親善と団結を求めて、松本治一郎が呼びかけて、アジア民族親善協会がつくられた。1952年10月6日、アジア太平洋地域平和会議開催中に、アジア民族親善協会準備会とアジア太平洋地域平和会議日本準備会の共催で、アジア民族平和円卓会議が都内の小石川の後楽園涵徳亭で開催されたが、この席でアジア民族親善協会の設立案が提案され承認されている。

 松本治一郎記念会館旧蔵資料に冒頭の「アジア宣言(草案)」と「設立の趣旨(草案)」が残されている。設立の趣旨として、「日本が真に独立と民主化を達成し世界の平和と繁栄の一要素となるためには、…(中略)…アジア諸民族との親善、友好関係を確保することが絶対に必要である」「在日アジア人を本会の主要な構成員の一として相互の理解協力を図るとともに、侵さず侵されず、平等互恵の精神に立って広くアジア諸民族の親善関係を深める」「アジア諸民族間の文化的経済的提携を固くして、アジア諸民族の生活水準の向上を図り、文化を振興し、専制と隷従圧迫と差別のない世界平和の樹立に貢献することを期する」等を掲げた。発起人には、松本のほか、西園寺公一、鈴木茂三郎、平野義太郎、水谷長三郎、内山完造、高良とみ、清水幾太郎、山田五十鈴をはじめ、在日の朝鮮人、中国人、インド人、モンゴル人、ベトナム人、フィリピン人、タイ人、インドネシア人に呼びかけがなされている。事務所は、東京都港区芝白金志田町60番地の松本事務所に置かれた。

 「アジア宣言」と同じ趣旨の、松本が北京に送った文書が、「アジア民族の親善こそ世界平和への道」と題して、9月28日、北京から放送されたが、そのなかで「アジアの平和と独立を主張する人々によって、真のアジア解放が達成されていくであろう。この仕事こそがまた私のこれからの生涯をかけた任務である」と決意を語っている。

 アジア太平洋地域平和会議の成功をうけて、中国政府は、その年の12月1日、中国在留日本人の帰国の援助を提案、中国側は紅十字会が、日本側は日本赤十字社・日本中国友好協会・日本平和連絡会の民間団体が窓口となり、共同声明に調印した。翌1953年3月23日、残留日本人3,968人をのせ中国を初出航して以来、4万人近い残留日本人が「興安丸」「高砂丸」「白山丸」の3隻の船で帰国することができた。

 同時に、この「興安丸」で、在日華僑の帰国、中国人殉難者の遺骨の帰国が実現した。戦時中、多くの中国人が強制連行され、秋田県などの鉱山で強制労働させられ、その多くは過酷な重労働によって客死している。1953年2月17日、中国殉難者慰霊実行委員会(委員長は東本願寺の大谷瑩潤(えいじゅん)師)が組織され、各地へおもむき調査、殉難者の氏名を一人一人割りだし、遺骨を集め、興安丸で前後10回にわけて3千柱をこえる遺骨の帰国を実現した。

 こうした取組みをさらに推進するため、日本中国友好協会は、1953年5月30・31日、第3回全国大会を開き、初代会長に松本を選出した。

 第2次世界大戦後、民族解放運動は、旧植民地からの政治的独立を次々と達成したが、インドシナ戦争(1946-54年)、朝鮮戦争(1950-53年)が始まり再び戦争の惨禍が拡大すると、アジア・アフリカの諸国民から、平和と主権と独立を守り、帝国主義と植民地主義に反対し、非同盟中立主義外交を掲げる連帯運動がわき起こった。1954年6月、中国の周恩来とインドのネルー両首相が締結した「平和5原則」は、55年4月の「第1回アジア・アフリカ会議」(バンドン会議)で「10原則」に発展、その後バンドン精神を支持し平和と独立を求める闘いは中東・アフリカにも広がった。

 この間、アジア・アフリカ諸国の人民も「アジア・太平洋地域平和会議」(52年10月、中国・北京)に続き、「第1回アジア社会党会議」(53年1月、ビルマ・ラングーン)、「アジア諸国会議」(55年4月、インド・ニューデリー)、「第1回アジア・アフリカ人民連帯会議」(57年12月、エジプト・カイロ)、第1回全アフリカ人民会議(58年12月、ガーナ・アクラ)を開催、植民地主義に反対し、平和を擁護する国際連帯のきずなが強まった。

 松本は、度重なる外務省の旅券交付拒否で渡航を妨げられていたが、1953年1月1日、日本を発ち、ビルマ・ラングーンでの第1回アジア社会党会議へ参加した。

 1952年11月18日付の鈴木茂三郎(51年、日本社会党委員長に就任、松本と同じ左派社会党)からの肉筆書簡は、第1回アジア社会党会議に顧問として松本の出席を求めるもので、アジアの平和と真の独立を実現するため、右派との論争に論陣をはるように依頼する内容。

 拝啓 その後、ごぶさたして居ります。
 昨日、総評の高野君から、御近況を承りました。
 相変らず、ご健闘のおもむき、きんかいに耐えませぬ。
 御健勝も、なによりと存じます。
 九州地連のスト、志気ますます旺盛、御支援によるところと存じます。
 さて、さっそくですが1月4日よりラングーンで例のアジア社会党会議が開かれます。だんだんのびのびになりました。
 ところでヨーロッパから、英国労働党首アトリー氏その他が出席することになり、党としても、責任者たる私も出席するようとの意見がございます。右派と左派の論戦(右派は、アトリーの力を借りるため、よんだようでして)は、国際的にも、相戦って参りました関係上、私も一行に加えていただくようなことになろうかと存じます。
 私は、ほんとうは、行きたくないのですが、明19日、長老会議で相談の上、きめたいと考えて居ります。
 一行は、7、8名位、ついては、あなたに、一行の顧問となっていただいて、アトリーに対抗する陣営をつくるよういたしとうございます。
 私が行かなければ和田君ということになります。
 あなたの旅券は、シャムまで2、3日中に交付になる由(外務省の伝)、これをラングーンまで、のばしていただき、更らに、一行は、インドネシアとインドに行き、1月の党大会までに帰国する予定(出発は12月25日頃)都合によれば、二、三名を、アラブ方面へ、派遣したいと考えて居ります。草々は拝眉の上に、いたしたいと存じます。
 御上京をおまちいたします。

19日 鈴木茂三郎

松本大兄

 1951年6月ドイツのフランクフルトで社会主義インターの創立大会が開かれ、イギリス労働党、西ドイツ社会民主党など西欧社会民主主義政党とともに日本社会党も参加したが、その後、アジア・中東での民族運動の高揚を背景に、社会主義インター内で、再軍備と植民地主義に加担する西欧諸国の社会党への批判が高まった。

 日本国内でも、同年10月、対日講和・安保両条約の批准をめぐって、日本社会党が右派社会党(浅沼稲次郎書記長)と左派社会党(鈴木茂三郎委員長)に分裂。第1回アジア社会党会議は、1953年1月6日から15日まで、左右両日本社会党のほか、ビルマ、インド、インドネシア、イスラエルの社会党、全マレー労働党などが参加して、アジアにおける社会主義政党の連帯を図ることを目的に開催された。左派社会党からは、鈴木茂三郎委員長、松本治一郎最高顧問、高野実総評事務局長、田中織之進らが参加、右派社会党からは、松岡駒吉団長、田原春次らが参加した。左派社会党は、朝鮮戦争停戦と外国軍隊の引揚げ、アジア経済会議による自立体制とアジアの解放、日本再軍備反対を含む世界平和のための行動方針、アジア社会党の独自性などを掲げ、右派との論争に論陣をはった。会議は、「社会主義の目的と原則にかんする決議」「アジア経済開発にかんする決議」「植民地における自由獲得運動」「アジアと世界平和にかんする決議」を採択、アジア経済会議の開催が決められた。

 第一回アジア社会党会議終了後、インドを訪問した松本は、ネルー首相、被差別カースト解放運動指導者・アンベードカルらと会談し、親しく語りあった。

 1955年には、4月6日から10日までアジア15カ国代表が参加して、インドのニューデリーでアジア諸国会議が開催され、日本からは松本を団長に各界の代表が参加した。会議では、「平和5原則」の全面的支持、大量破壊兵器の禁止、軍事同盟・軍事条約・軍事基地反対、インドシナ休戦にかんするジュネーヴ協定の完全実施、台湾、ゴア、西イリアン、沖縄の祖国復帰、中国の国連における代表権の回復などを決議、アジア諸国人民が共同行動をとるため、各国にアジア連帯委員会をつくることを決めた。松本は、日本代表団を代表して報告をおこなったが、その報告原稿が残されている。部落解放全国委員会からは、朝田善之助が参加し、「日本における封建的身分差別と部落民の斗い」について報告を行い、部落差別をアジア共通の問題として取り上げてもらうため働きかけた。

 ひきつづいて、4月18日から24日までインドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)は、史上初めてアジア、アフリカ、中近東29カ国の政府首脳が集まり開催され、周恩来、ネルー、スカルノ、ナセルらは、反帝、反植民地主義、平和擁護とアジア・アフリカの団結を内容とする「バンドン10原則」を採択した。この会議にも松本はオブザーバーとして出席している。

 同年10月31日には、アジア諸国会議の決定にもとづいて、東京神田の如水会館で「日本アジア連帯委員会」の創立総会が開かれ、「アジア諸国会議やアジア・アフリカ会議で表明された決意を心とし、その崇高な使命にむかってアジア・アフリカ諸国民の共同事業を推進する」との「創立総会のことば」を発表、理事長に長野国助・元日本弁護士会会長を、代表委員に松本のほか北村徳太郎、楢橋渡、風見章ら16名を選出した。

 バンドン会議の後、松本は、イタリア、フランス、イギリスを回り、帰国した。5月5日、パリでは「人種差別と反ユダヤ主義に反対する国際連盟」(LICRA)のバーナード・ルカッシュ会長と会い、人種・民族差別撤廃運動をアジア全体にも広げるために、連盟のアジアの本部を東京におき松本が責任者となることを約束した。

 松本は、翌1956年3月17・18日、パリで開催された「人種差別と反ユダヤ主義に反対する国際連盟」の大会に招待され日本代表として出席、大会に送ったメッセージを読み上げた(メッセージのフランス語訳が残っている)。そして、54年に東京で運命の出会いをしたジョセフィン・ベーカーに再会。この間、「人種主義に反対し諸民族の友好をめざす運動」(MRAP)の「権利と自由」編集長・アルベール・レビィーのインタビューに答えた(アルベール・レビィーは1988年1月反差別国際運動が設立された際、MRAP事務局長として理事に加わった)。大会後は、北アフリカ、中東を訪問、その報告が『西欧・アフリカ・中東をめぐりて―民族解放のいぶき』(松本治一郎著、解放新聞社、1956年)として出版されているが、松本は「私が、この同盟の大会に出席するようになった直接の動機は、ジョセフィン・ベーカー女史が来日した折、彼女と会見し、彼女の小麦色の肌にきざみこまれた被差別人種としての苦しみを見、同時にこのような、不当な差別を世界からとりのぞくために、最後の血の一滴までも、ささげようという決意をきいて、強く共感をおぼえたからである。そしてジョセフィン・ベーカーの苦しみと決意は、そのまま、日本で被差別者としての苦しみを、身をもって経験し、そのような差別をなくすために30数年斗ってきた私の苦しみであり、決意であった。だから、私は喜んで彼女に協力することを約束したのである。彼女はフランスに帰ってからのちも、たえず音信をよせ、私がこの同盟の中央委員にえらばれたことや、アジアにこの同盟のブロックをつくる必要があり、私にその責任者になってほしいなどといったことを、そのつど連絡してきた」と語っている。

本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)