背景分析が不十分ではないか
2005年11月17日、耐震強度偽装事件が発覚した。この連載においても「企業と人権・環境・安全」の視点で持論を展開し、企業の起こした差別事件をはじめ多くの人権侵害事象についても紹介してきた。その中で今日の企業にとって合法性、倫理性、人権性、公式性、公開性を厳守することが最も重要であり、企業の長期的発展に結びつくことを何度も述べさせていただいた。また、差別事件をはじめとする多くの問題が発生した場合、その問題の克服のためには「なぜ?なぜ?なぜ?」と追及することが最も重要だと指摘してきた。
私たちは差別事件が発生・発覚すると、まず事実確認を迅速・正確に行うことを第一に考え、事実認定を重視する。その後、差別事件の差別性・問題点を整理し、背景を詳細に分析した上で、それらの背景を克服するための課題を明確にする。そうすることによって事件の再発防止政策を立案し具体化してきた。
そうした視点に立って、今回の耐震強度偽装事件への関係機関の取り組みや報道を見ていると背景分析が不十分ではないかと思えてならない。確かにメデイア報道にも一部に深く切り込んでいるところを見ることもできるが、もっと深く掘り下げ、今日の社会システムや社会的風潮まで分析していかないと同様の問題が他の業界でも発生する危険がある。
日本は世界有数の地震国
今回の事件は本当に根が深いと思う。約10年前、阪神淡路大地震が発生し、未曾有の犠牲者を出した。それから3年後の1998年に「グランドステージ池上」の姉歯元一級建築士による最初の耐震強度偽装が行われている。今も記憶に新しいが、3年しか経ていない時期はさらに鮮明な記憶が残っていたといえる。また日本は世界有数の地震国であり、耐震は耐火と同様、最重要な課題である。
そうした状況下でなぜこのような事件が発生したのかということを根源的なところまで分析しないと間違いなく再発する。
私が学んだ高等学校は戦前、旧制女学校で大阪でも最も古くからある女学校の一つだったが、関東大震災の後に校舎が建て替えられ、その校舎で1970年代前半の高校生活を過ごした。その校舎の耐震強度は関東大震災の教訓をふまえ相当な強さであることを教員から聞いたことを今も覚えている。だからこそ第二次世界大戦の戦火をも乗り越えてその校舎で私たちも学ぶことができたのである。1998年はまさにそれと同じような年なのである。私には今もって関係者の良心が理解できない。世界人権宣言の第一条に明記されている「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」という精神のかけらもないと言わざるを得ない。
事件は氷山の一角ではないのか
多くの差別事件を分析した経験からいえることは、事件の発生と発覚のギャップが必ず存在しており、事件として発覚するのは全体のごく一部であるということである。私たちは発覚した差別事件は「氷山の一角の一角」であると捉えている。
今、取り組みが進められている戸籍不正入手事件を見れば一目瞭然である。戸籍を不正に入手している有資格者は明らかになった行政書士や司法書士以外にも数多くいる。それらの全体像を可能な限り明らかにし、背景を明確にしないと戸籍不正入手事件の根絶ができない。耐震強度偽装事件も今明らかになっているのは「氷山の一角」であるという認識のもとに取り組んでいかないと重大な禍根を残すことになる。
「交通の安全」と「居住の安全」は、最も重要な安全の一つである。特に「居住の安全」は人生の中で最も長期間いるところである。その「居住の安全」のシステムが根本から揺らいでいるのが今回の事件である。
そこでこれまでに差別事件に取り組んできた経験をふまえ、今回の耐震強度偽装事件がなぜ起こったのかを考えてみたい。
多くの疑問が湧いてくる
本当に多くの疑問が湧いてくる。なぜ姉歯元建築士は耐震偽装に手を染めたのか。なぜそれを民間確認検査機関である大手の「日本ERI」や「イーホームズ」が見抜けなかったのか。なぜ「アトラス設計」の渡辺朋幸代表が2004年に姉歯元建築士の構造設計の問題を指摘したにもかかわらず「日本ERI」は、その重大性に気づかなかったのか。
なぜ「グランドステージ北千住」の工事担当者が構造図の不自然さに気づいているのに他の工事担当者や民間確認検査機関が気づかなかったのか。なぜ地方自治体も姉歯元建築士の偽装を見抜けなかったのか。なぜヒューザーの小島社長が政治家の紹介で国土交通省の担当者に会ったのか。小島社長と国土交通省との間でどのようなやり取りがなされたのか。その政治家はどのような目的で小島社長と国土交通省の担当者を会わせたのか。その政治家とヒューザーの関係はどのような関係だったのか。
なぜ国土交通省は耐震技術の進歩に伴う建築審査の複雑化に、行政や民間の検査が追いついていけないことを分かりながら的確な制度見直しをしてこなかったのか。
なぜ総合経営研究所は大きな力を持ち得たのか。なぜ安全の視点での設計「安全設計」が軽視されたのか。このようなシステムはどのような考え方のもとで制度化されたのか。際限なく疑問が湧いてくる。
根源的背景は経済効率最優先の社会
私はこれらの疑問に共通した背景を感じるとともに、耐震偽装を見抜いた「アトラス設計」代表や構造図の不自然さに気づいた「グランドステージ北千住」の工事担当者の存在に大きな希望も感じる。
共通した根源的背景とは、経済設計や利益第一主義、経済効率最優先、市場原理至上主義といった今日のCSR(企業の社会的責任)の思想とは相反する理念のことである。
差別事件がその時代の社会を映す鏡であるように、耐震強度偽装事件も今の時代を映す鏡であると感じる。ヒューザーの小島社長は国会の参考人質疑で「経済設計が悪いことなら不経済設計をしろということか」と反論したが、それなら「経済設計が良いことなら偽装設計も許されるのか」と問いたい。
今回の事件が端的に示したように「経済設計」が「ルール逸脱の経済設計」になったとき、それは紛れもなく「偽装設計」や「犯罪設計」であり「不経済設計」なのである。
経済設計が犯罪設計にならないようにするためには、経済的視点よりも安全を重視する視点を組み入れなければならないが、経済効率を第一に考える市場原理至上主義が跋扈している社会風潮では安全重視の考え方は間違いなく軽視される。偽装をしてでも安く仕上げれば仕事が受注できるとなれば、人権意識や倫理観のない人びとなら金儲けのために安易にその方向に走る。
最優先課題が間違っている
さらに耐震偽装も見抜けない民間確認検査機関や地方自治体が存在すればなおさらである。経済効率を優先させた民間確認検査機関の安全軽視の「経済検査」や行政の効率化で安全点検も充分にできない地方自治体の人的体制では間違いなく再発する。公務員に不満の矛先を向ける小泉首相のやり方では市民の安全や人権を守る冷静な地方自治体改革はできない。
セーフティーネットが充分に制度化されていない市場原理至上主義・利益第一主義では、経済設計は容易に「偽装設計」になり、「民にできることは民に」というスローガンのもと確認検査機関も市場原理の中に組み込み、行政機関の縮小だけが評価されるような社会では安全を軽視した「経済検査」になってしまう。
私は「民にできることは民に」ということ一般を否定しているのではない。また、肥大化した行政が良いとも思っていない。経済効率優先と行政機関の縮小を最優先に考え、全てを市場原理の中に組み入れることが問題だと指摘しているのであり、そのような考え方や価値観・社会風潮が高く評価されるような社会が危険だといっているのである。
経済設計が不経済設計になるしくみ
今回の耐震強度偽装事件において、最重要で最も根源的な背景がこれらの考え方や価値観・社会的風潮にあると考えられる。結局のところこのような社会は経済的格差が拡大し、多くの人びとにとって住みにくい社会になり、結果として今回の事件の結末のように多額の税金をつぎ込まなければならないという経済非効率を生み出すことになる。
それらの経済非効率のツケは私たち納税者に回ってくる。まさに利益第一主義の経済設計が社会全体にとっての不経済設計になるのである。社会の種々の規制が撤廃されて自由化が進行すればするほどルールは複雑で厳格さを持たないと社会は成り立たない。スポーツの世界も経済や政治の世界も同様である。ルールが複雑で厳格さを持たなければ成り立たない社会で最も重要な役割を果たすのが、ルールを熟知した審判役である。その審判役まで経済効率という美名のもとに縮小し、弱体化させたのでは審判を欺く技術を持ったものだけが不当利益を獲得し、多くの人びとが大きな不利益と被害を被ることになる。
予防医学の予算を削って病人が増え、それ以上の医療費増を招くようなことをしてはならないのと同じである。
種々の「偽装事件」が起こる可能性
繰り返しになるが、私は規制緩和一般を反対しているわけではない。社会の制度設計にあたって何が最も重視されなければならないかを明確にし、それらのルールに則って経済効率や市場原理を考えなければならないといっているのである。
現代社会の最優先課題は人権・環境・安全であり、企業の目的も利潤追求だといってすまされる時代ではなく、社会の公器であることを何度も述べてきた。
しかし労働者の賃金を無視したような低価格で落札される競争入札が評価され、安全が確保されない規制緩和が評価されるような社会では、耐震強度偽装事件だけではなく社会の根底を覆すような種々の「偽装事件」が起こっても不思議ではない。
すでにこの事件には多くの捜査員が投入されている。しかし捜査機関は捜査のための機関であって背景を詳細に分析し、そこから再発防止策を提言するような機関ではない。犯罪事実があったかどうかを犯罪構成要件つまり法に照らして捜査していく機関である。この事件を社会システムの改革に結びつけるのは国会や行政機関の仕事である。裁判システムの目的は社会秩序の維持が中心であり、糾弾闘争システムのような社会変革が目的ではない。
最後になったが、今回の事件を背景や課題をも明らかにする糾弾闘争のように取り組んでほしいものである。そうでないと多くの業界で同様の事件が発生する。