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2008.03.03
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2007年12月号(NO.237)
わくわくして学ぶ
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『長吏文書』の世界

第3回 長吏の仕事

中尾 健次(大阪教育大学教授)

一、大坂三郷から摂津・河内へ

 すでに紹介したように、四カ所長吏の職務は、大坂町奉行所の直接管轄下にあります。ということは、その職務の範囲は、「大坂三郷」(大阪市内)に限定されているはずなのですが、そうはいかないところが歴史のおもしろいところです。

 四カ所長吏は、大坂三郷だけでなく、摂津国・河内国の各村々に置かれている「番非人」も支配下に置いています。仕事は、「垣外番」の農村版というところですが、農村地帯ということで、これに街道筋の警護や、浪人者の徘徊を監視する役目などが付け加わります。ただ、これもその起源がはっきりしません。村の新参者が番人などの雑務に従事するうち、しだいに四カ所長吏の支配下に組み込まれたものか、四カ所長吏の手下が各村々へ派遣されたものか、あるいはその両者が入り組んでいるのか、しかし、これも「長吏文書」の研究の過程で、徐々に明らかになってくることでしょう。

 長吏文書には、1697(元禄10)年のこととして、河内国の「小頭」が、組下の者に不調法があったとして、今後そういうことのないよう、四カ所長吏に誓約した史料がありますが、少なくともそのころには、各地の「番非人」とそれを管理する「小頭」、さらにその上に長吏が位置する関係が成立していたようです(この史料は、『大阪の部落史』第一巻 五〇五頁に収録されています)。

二、裏の情報ネットワーク

 こうした広範囲の支配が確立したことによって、長吏を頂点とし、各地域の番非人を底辺とする縦の関係、番非人同士の横の関係がきずかれ、それが、裏の情報ネットワークとして、治安対策や情報収集に重要な役割を果たすことになります。

 和歌山人権研究所が2003年に刊行した『城下町警察日記』(清文堂史料叢書)には、こうした事例の、おそらく初期のものと考えられる事件が紹介されています。

 1742年12月28日の深夜2時ごろ、紀州藩に捕らえられていた浪人・黒田数馬が、牢を破って脱獄しました。状況から判断して、どうやら大和国(現在の奈良県)か、大坂(現在の大阪市内)から河内国(現在の大阪府東部)へ逃亡した可能性が高いようです。紀州の牢番頭が招集され、二手に分かれて探索が開始されました。

 紀州の牢番頭は、「頭」という肩書きが付されていますが、一人ではありません。現在ならば、「班長」とか「グループ長」といったところでしょうか。

 さて、年が明けて1743年の1月1日、探索グループは大坂市内へ入り、四カ所長吏の一人である鳶田の長吏に面会しました。情報を交換したところ、大坂市内南瓦屋町(現在の大阪市中央区瓦屋町)の金吹屋太兵衛宅に、年末からなに者かが逗留しているとの情報が寄せられました。電話もファックスもない時代に、信じられないほどの早さで情報が寄せられるのです。さっそく逮捕に向かいますが、しかし、一歩ちがいで取り逃がしてしまいました。

 さらに4日の午後二時半ごろ、河内国丹南郡金田村(現在地は不明)の非人番・五兵衛から情報が寄せられました。それによれば、金田村から3キロほど離れた北村(現在地は不明)に源兵衛という者がいて、そこへ1月3日から、浪人らしいさむらいが、家来を一人連れて入り込んでいるというのです。紀州の安藤帯刀様の浪人と名のっていますが、長髪で人相が黒田数馬に似ています。そこで、紀州牢番頭のグループと鳶田長吏の配下が現場へ向かいますが、その日の午後、源兵衛方を出て、田治井村(現在の大阪府美原町)の太右衛門という人物のところへ向かったといいます。そこで追っ手の一行は、太右衛門宅へ向かいました。

 もともと数馬は河内に住んでいて、太右衛門とは心安いつきあいだったようですが、でしたが、太右衛門によれば、今回はようすが怪しかったので、宿を貸さなかったといいます。そのため数馬は、五軒屋(現在の大阪府富田林市)という村へ向かったとのことで、五軒屋へ行って捜索しますが、見つからず、それから行方が知れなくなりました。文字どおり、一歩ちがいで取り逃がしてしまったわけです。

 その後、京都・近江などへ捜査の手を伸ばし、2月12日、黒田数馬は、大坂市内でついに逮捕されました。

三、江戸時代のFBI

 江戸時代は、地域によって領主がちがいます。領主がちがうと、その地域の「警察権力」は、領地を越えて犯人を追いかけてはいけません。そこで、「非人」組織が裏の情報網を利用して、犯人の逮捕に向かったわけです。いわば「連邦警察」(FBI)のような役割を、長吏組織がはたしていたことになります。

 この脱獄事件は、1742年から翌年にかけて起こったわけですが、領地を越えた犯人逮捕の職務が、この時点で正式に位置づいていたかどうかは疑問が残ります。悲田院でも天満でもなく、鳶田であったところが引っかかるのです。

 なぜ悲田院や天満でなく、鳶田なのでしょうか。悲田院は四カ所長吏のリーダー格ですし、天満は大阪町奉行所に比較的近いということもあって(天満長吏の居住地は、与力町・同心町に隣接しています)、大坂町奉行との関わりが密なのです。もしも、このFBI的な職務が正式に成立していたのなら、悲田院長吏か天満長吏が、どこかに登場してきてもいいはずなのです。しかし、そのどちらでもなく、鳶田であったところが興味深いわけです。

 これについて、おもしろい史料が『大阪の部落史』第二巻に収録されています(349-50頁)。1737(元文2)年、紀州の牢番頭が、鳶田の長吏組織に五両の金子(現在なら100万円ぐらいになるでしょうか)を与えているのですが、「内御用」について「密々」に相談に乗ってもらった見返りとされています。「内御用」の中身は不明ですが、「内御用」「密々」という文言から考えて、紀州牢番頭と鳶田長吏には、"非公式"の関係があったと推測されます。

 紀州牢番頭は皮多村に居住しており、鳶田長吏は、幕府によって「非人身分」に位置づけられます。どのような背景があって、両者につながりができたのか、さらに興味をそそられます。いずれにせよ、この段階では、紀州牢番頭と鳶田長吏という個別な関係に止まっていたと考える方が、無難なように思います。しかしこの関係が、しだいに公式の捜査網として、重要な役割をはたしていくことになります。