最近、私が関心を持っていること
この〈シリーズ いっしょに動こう、語り合おう〉の連載は、2007年3月の大阪市の青少年会館条例(以後「青館条例」と略)廃止以後の状況についての拙稿(2007年11月号)以後、部落解放・人権研究所の「青少年拠点施設検討プロジェクト」(以後「プロジェクト」と略)のメンバーが、いくつかの旧青少年会館(以後「旧青館」と略)における活動の報告を書く形で連載を続けてきた。また、この連載を始めるきっかけになったのが、部落解放同盟大阪府連住吉支部からの旧青館に関する状況報告(2007年9月号)であった。この間、住吉支部をはじめとする執筆者のみなさん、取材にご協力いただいたみなさんに、あらためてこの場をお借りしてお礼申し上げたい。
さて、冒頭でも書いたとおり、大阪市の青館条例が廃止されて、もうすぐ1年になる。このことから生じる諸問題などについては、すでに別のところで書いてきた*ので、本稿ではこれ以上、触れない。また、青館条例廃止が旧青館所在地区や利用者に、具体的に何をもたらしたのかについては、すでにこの連載などで紹介してきたとおりである。
一方、大阪市内から視野をもう少し大きく広げて考えると、たとえば大阪市の隣・尼崎市でも、大阪市より1年早く青少年会館が廃止され、別の形態に移行したと聞く。また、京都市内でも「学習施設事業」が最近、廃止されたという。そして、橋下徹新知事就任後の大阪府の財政再建方針のもと、たとえば大型児童館「ビッグバン」や大阪府立女性総合センター「ドーンセンター」など、府下の一連の公的施設の事業見直し統廃合等が検討課題に浮上している。大阪市内でも旧青館のことだけでなく、たとえば、人権文化センターの統廃合が実施されようとしている(いずれも本稿執筆時の2008年2月末時点での話)。
「財政再建」や「同和施策の見直し・終結」など、各地方自治体行政の側には、それぞれ、いろいろな理由はあるのだろう。特に、最近就任した橋下徹知事のように、「このままで行けば、大阪府は財政破綻する」とマスコミを通じて連呼されれば、否応なく我々も「府政にとって、財政再建は重要課題だ」と認識せざるをえない。
また、このままで進めば、大阪市・大阪府に限らず、各地方自治体の財政再建策との関連で、たとえばその自治体の人権施策などにおいて中核的な役割を担ってきた拠点施設や、いわゆる同和地区におけるコミュニティ形成の中心的な役割を担ってきた施設が統廃合、あるいは運営形態の変更、事業の縮小などを余儀なくされるであろう。
だが、ここで少し立ち止まって考えてみたい。まず、今、各自治体で進められている財政再建等の動向が当面、続くとする。この前提に立って、たとえば人権に関する市民レベルでの取り組みの充実や、人権を尊重する地域コミュニティの形成という目的に沿って、各施設の利用者やその拠点施設の近隣地区住民などは、具体的にどのような取り組みをすすめていく必要があるのか、ということ。これが今、私たちのプロジェクトが直面している課題である。また、たとえば部落解放・人権研究所のほかの部会・プロジェクトなどでも、この課題に関連した議論が開始されていることと思われる。
その一方、各自治体ですすめられているこの財政再建等の動向自体を、私たちはどのように認識するのか、という課題もある。すなわち、これまで部落解放運動などさまざまな人権関係の取組みに関わってきた私たちは、この財政再建等の理由による各自治体の行財政改革がすすむなか、今、どのような社会情勢のなかに位置づいているのか。この方法からの議論が、今、私たちの間で必要なのではないか、とも思うのである。
そこで、本稿では、これまでプロジェクトで取り組んできた課題や、これまでの連載の内容からはいったん離れようと思う。その上で、あくまでも一個人として、今の各拠点施設の統廃合や人権施策などの縮小が続く社会情勢をどう考えているのかを述べていきたい。
「不利益分配」社会のなかの拠点施設
さて、今、私の手元に高瀬淳一『「不利益分配」社会』(ちくま新書、2006年)という本がある。その「はじめに」では、次のことが述べられている。これは基本的に小泉政権の行財政改革を念頭においての指摘であるが、私は、今、大阪市や大阪府で起こっている出来事を考える上でも参考になる指摘だと考える。少し長いが、引用しておく。
日本社会は、これからしばらく「不利益」の分配を受けいれなければならない。新たな社会的負担は、残念ながら確実に増える。一方で、これまで政治的に提供されてきた有形無形の利益は、少なくともそのいくつかは分配停止となる。社会全体がさまざまな負担に耐える時代が到来したのである。(中略)
一方、従来型の既得権益集団からは、長いこと享受してきた利権や補助金が取り上げられていく。しかも、新たな利益供与を引き出そうとして政府に圧力をかけても、従来のようにうまくいかない時代が来る。
こうした「不利益分配」は、財政赤字という経済問題と、少子高齢化という社会問題を大きな背景にしている。ともに国家の運営をむずかしくし、確実にその柔軟性をうばっていく。だから、政府は必然的に「不利益分配」に踏み切らなければならないのだ。(後略)
(同書、34頁)
もちろん、このあと同書が展開している内容のなかには、私としては違和感や疑問を抱く部分がいくつかある。たとえば著者はいわゆる「格差拡大」のなかで「勝ち組」が増えると税収増につながり、財政赤字の解消が不可欠な状況では、「勝ち組がどんどん税をおさめてくれれば、国民全体に課せられる新たな負担は軽減される」(同書、83頁)と述べる。だが、私としては、著者が期待する方向で「勝ち組」が動くとは思えない。また、「格差拡大」という状況のなかで「重要とされているのは、『機会の平等』をきちんと確保しようという政策」(同書、85頁)と一応、著者はいう。だが、それを本気で徹底すれば、財政赤字のなかでも相応の社会保障支出を確保しなければいけないということについて、著者はどう考えるのか。このように、同書には私が違和感や疑問を抱く箇所がいくつか見られる。
それでも、この本が指摘していることが今の私にとって重要なのは、今後著者のいうように「不利益分配」を財政赤字や少子高齢化社会の進展のなかで受けいれざるをえないとしても、その「不利益分配」はいったい誰の意見にそって、誰の同意を経て、どのような手続きで行われるのか。このような「不利益分配」をめぐる政治的な方針決定プロセスの問題があることに気づくきっかけを得たからである。なぜなら、著者は次のように述べているからである。
既得権益のうちの、あるいは公共サービスのうちの、どれをムダと考えて削減するかは、政治的に判断すべき問題である。さらには、官庁のどの部局を整理統合すべきか、あるいは民営化すべきかなども、当然、政治的に決定されるべき課題となる。(同書、79頁)
この著者の指摘に沿って言えば、要するに、各地方自治体の財政再建や行政のスリム化等の必要性を認めたとしても、従来の行政施策や拠点施設の何を整理対象とするかは、まさに各自治体の長や議会、住民などの政治的な意思決定プロセス次第で変わってくる、ということである。したがって、人権施策やこれに関する拠点施設についても、その存続や整理等について、各自治体の長や議会、住民などがどのように議論を行うのか、あるいは、自治体行政の側からどのような説明が行われ、住民や議会等の同意を得ていくのか。そこに注目する必要がある、ということになる。
それこそ、たとえば人権学習や市民活動などを支援してきた拠点施設に「指定管理者制度」を適用するのも、あるいは、社会教育・生涯学習や児童福祉などの子ども施策に関する部局を整理して総合的な部局を設置するのも、さらには、学校外の生活面で何らかの課題のある子どもを学習・文化活動面からサポートしてきた施設を廃止するのも、誰かが「政治的に判断」して「決定」される課題だ、ということになる。そして、今ある拠点施設や今までの人権施策などを守りたい側の声以上に、廃止・縮小を求める側の判断を積極的に支持する世論がマスメディアなどを通じて醸成されていれば、この判断・決定は通ってしまう。
だからこそ、今、ある拠点施設や施策が不要と考える側は、たとえばいろんなデータを使って、「人件費が高すぎる」「かかる経費・人員に対して利用者が少なすぎる」「民間委託すれば予算はこれだけ削減できる」等、既存の施設運営や施策のコスト面での問題点を並べはじめる。これとともに、マスメディアを通じてさかんにこれらの問題点を指摘し、「行政のムダを省くべきだ」という声を高め(場合によれば、コスト面で問題点の多い施設を自治体の首長が訪問し、施設の長と協議する場面までテレビのワイドショー番組などで放映させ)、こうした施設の統廃合や施策の廃止・縮小等を容認する世論を形成していく。そんな状況下で、各施設において何らかの不祥事が発覚すれば、「あの施設の存在自体が不祥事の温床」とみなされ、「そこはもういらない」という世論はますます作りやすくなる。
あくまでも私見だが、これが今の行財政改革のなかで、人権施策などに関する拠点施設が位置付けられている社会情勢といってよい。
4つの面から考えていくこと
このような社会情勢のもとで、今後、人権施策などの充実を求めたり、今ある拠点施設の存続を求めようと考える側は、どのようなことに取り組んでいけばいいのだろうか。以下、残り紙面の許す範囲で、私の思いつくままに書いておきたい。
1つめは、ある拠点施設の統廃合や民営化などを容認する世論や、それを推進する誰かの政治的判断の理由などに対して、私たちの側が、きちんとした反論や対案を出す用意ができているのかどうか、ということである。今はまだその拠点施設や施策があるうちに、私たちの側からその拠点施設や人権施策の重要性や存続の必要性などについて、「それは不要だ」という誰かを説得しうるだけの準備をしておかねばいけない。
2つめは、これは「メディア・リテラシー」論ともつながるのだが、たとえば統廃合等の対象となった拠点施設の利用者や、整理されようとする人権施策の必要性を主張する側にも、施設統廃合等の主張者の側と同様に、意見を述べる機会が「公平に」用意されているのかどうか。そこを問う必要がある、ということである。「不要だ」という主張をする側にはマスメディアなどを通じて豊富に自らの主張を述べる場が与えられ、「存続を」という主張をする側にはその機会が極めて少ないとすれば、世論は「不要だ」という方向になびきやすい。だとしたら、この不公平はくり返し、是正されなければならない。
3つめは、人権施策や拠点施設の維持・運営面に関する行政側の「コスト」をどう考えるのか。また、その「コスト」を誰が、どのように負担するのか、ということである。たとえば、財政難などを理由に行政側ができない・しないことであっても、私たちの生活にとって必要なことであれば、NPOを自分たちでつくってそこで引き受けていく。そういう覚悟が私たちの側にあるのかどうか。今後はこの点が、私たちにも問われる。
4つめは、こうした3つの課題に取組むことは、相当「しんどい」ことである。たとえば、私が思いつくだけでも、人権施策などが「不要だ」という世論に対する対案や反論づくり、そのような世論形成を促すマスメディアのあり方や今の行財政改革の動向の検討、私たちの主張を伝えるプレゼンテーションのスキル、NPO設立・運営などに関するノウハウ、といったように、いろんな学習課題がある。このような「しんどさ」を引き受け、学習課題の1つひとつをクリアしていくことが、ある意味、今の私たちに必要ではないか、ということである。また、そのためにも、こうした学習をする人びとを支援する施策が、各自治体の施策において必要だと思うし、その学習の場として拠点施設が必要であろう。
そして、そもそも人権学習やコミュニティ形成に関する拠点施設の統廃合、あるいは人権施策の縮小などを積極的に推進する自治体首長を当選させたり、あるいは、そのような施策実施を積極的に支持したりする住民意識。これにどう向き合うかが、今、大きな課題として私たちの前に存在していることを忘れてはならない。
まだこのテーマについて書きたいことがあるが、ここから先は、別の機会に譲る。
*たとえば拙稿「『逆風』のなかでの青少年施策充実にどう取り組むか」『部落解放研究』第175号(2007年4月)などがある。
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